今、そこにある眼差しと


 霧のような靄(もや)が辺りをうっすらと漂い、まだ薄い闇に包まれた空気の帯びる湿り気が、かすかに肌にまとわりつく。
 時折、鳥や小さい獣の鳴き声がどこかで響く以外は静寂の支配する平原に、彼はふわりと降り立った。
 周りを見回し、人の声も気配もないことを確かめ、ほっとしたかのように息をつく。
 何しろほぼ一晩中、途切れることの無い人声の喧騒に付き合わざるを得なかったのだ。まったく、地球人ってのは本当におめでたい連中だぜ。
 胸の内で悪態をついた後、改めて雑念を振り払うように大きく息を吸い込み、目を閉じて精神を集中させる。
 しばしの沈黙の後、短く息を吐く音が無言(しじま)を破ったかと思うと、握られた拳が空を切る音が連続して朝もやのなかを響き渡った。
 前に横に、流れるような動きで拳を繰り出し、やがてそれに大きく風を切る蹴りの動きが加わる。
 地面から少し浮いた影が揺れるたび、周りに茂る丈の短い草木の間を、ざわりと鋭い風が吹きぬけた。
 そうしてしばらく無心に身体を動かし続け、うっすらと額に汗が浮き始めたところで彼は徐に肩の力を抜き、突き出した形で止めた拳を下ろした。
 と。
 シュン、と短く空気が揺れる音が耳朶を叩き、彼は思わず後ろを振り返った。
「…よぉ、ベジータ」
 視線の先には予想通りの顔がにっといつもの笑みを浮かべて立ち、片手を挙げて彼に挨拶する。
「…何だきさま、まだ寝てたんじゃなかったのか。何しに来た」
 一瞬呆気にとられつつもすぐに気を取り直したベジータは、少しばかり不機嫌そうな表情を隠そうともせずに憮然と言葉を返した。
「いやぁ、さっき起きたら何となく目が冴えちまってさ。ついでに軽く身体動かそうかと思ったら、こっちからおめえの気を感じたんでよ」
 対する悟空はそんな彼のいつもの態度を気にするでもなく、辺りに視線をやりながら歩み寄る。
「おめえ、いつもこんな早くから修行してんのか?」
 東の空が白み始めているとはいえ、まだ夜も明けきらない早朝からトレーニングに余念が無い様子のベジータを見て、悟空は半ば感心したように言葉を継いだ。
「……いつもこの時間というわけじゃないがな。今日は気晴らしも兼ねて出てきただけだ。まったく、よくあれだけ飽きずに騒げるもんだな。地球人のバカ騒ぎ好きには付き合いきれん」
 夜半過ぎまで続いた新年を祝う宴の喧騒と、今頃その疲れで夢の中であろう面々の顔を浮かべては、心底呆れたといった表情で呟く。
「はは。まぁ、そう言うなって。あんなことがあった後だし、みんな新しい年を思いっきり笑って迎えてえのも無理ねえさ」
 ベジータらしい言い草に苦笑しつつ、悟空はよっ、と腕を回して伸びをした。
「それよかさ、丁度おめえも修行の途中なら、久しぶりに組み手しねえか? オラも身体動かしてえし」
 身体をほぐすように屈伸しながら既にその体勢に入りつつ尋ねる。
「…いいだろう」
 短く返事をすると、ベジータは軽くブーツの先でトン、トンと地面を鳴らし、わずかに地表から離れる。
 一定の距離を取ると、二人は向かい合い、無言で互いの目を見据えた。
「いくぞ!」
「おうっ!」
 二人が呼応した声と、同時に地を蹴った音が合図になった。


「…ぷは〜、んめぇ! ここの水、結構いけるなぁ。オラんちの近くの川の水みてえだ」
 岩の隙間から流れ出る水で喉の渇きを癒すと、悟空が驚いたように感想を述べた。
「都の近くにもこんなとこがあんだなぁ。おめえ、いつもここで修行してんのか?」
「…まあな。いつもというわけじゃないが、よく来る場所のひとつだ」
「へ〜」
 改めて自分たちのいる場所の周りを、悟空は感嘆の目で見回した。
 そこは小高い山と繁った林の中にぽっかりと平原が広がった形になっている場所で、少し離れた山の合間から流れてくる谷川の流れもあって、人手の入っていない緑豊かな田舎のような様相を呈していた。
 ひとしきり手合わせした後、二人は互いの動きについて会話を交わしつつ渓流の傍らで休憩を取っていた。
 都会からそう離れてもいない場所にぽっかりと浮かんだその場所は、心なしか過ぎる時間も緩やかに感じられる。
 そうしているうちに東の空の白さは徐々にその明るみを増し、山の向こうをなだらかなグラデーションが彩り始める。
「……あ」
 ふと、山陰の向こうから射した一筋の光が顔に当たったのを感じ、悟空は視線をそこへ向けた。
 瞬間、言葉が途切れる。
 薄い雲の隙間から洩れ出る光はいくつもの帯を成し、上空を流れる冷えた空気に反射していく。その光が無色透明から鮮やかな朱まで無数の彩りを作り出し、それらが放つ色が木々の朝露に反射してちかちかと煌いた。
 オーロラにも似た夜明けの光は、そこに存在するものすべての朝を祝うかのように柔らかく、それでいて鮮やかな印象を投げかけた。
「……すげぇ……きれいだな」
「……」
 しばしその光に見入っていた悟空は、ぽつりとありのままの感想を洩らした。
 隣のベジータも、思いもかけないその光景に無言のままだ。
「いつもこんな感じの景色が見れんのか? ここ」
「……いや。夜明け前に来たことは何度かあるが……こんな空を見るのは初めてだな」
「へぇ〜。…じゃあ、太陽も新しい年だから嬉しいのかもしんねぇな」
 嬉しそうに笑いながら思いっきり真面目にそんなことを言う悟空に、ベジータは呆れた視線を投げつつ、それでもその光景からしばらく目が離せなかった。
 朝陽は次第に明るさを増し、辺りを柔らかい光で包んでいく。
 それはすべてに等しく訪れる朝でありながら、決して昨日と同じ光ではなく。
 いくつもの危機、戦いが彼らの上を過ぎ、そして様々な思いが交錯した日々の上に、今日というこの日がある。
「……おめえとこうしてこんな景色を眺める日が来るなんて、なんか不思議な気分だなぁ」
 目の前の光景をしばし黙って見つめていた悟空が、感慨深げに呟いた。
 その台詞に目を瞬いたベジータは、ふっと呆れたように小さく笑みを零した。
「お互い様だ。それならオレのほうがもっと意外だぜ」
「はは、ちげぇねえや」
 間髪容れず返された彼らしい言葉に、苦笑しつつ頭を掻く。
 かつては最強の敵として渡り合った者同士。今まで歩んできた環境も生き方もまるで違う彼らの間には、決して相容れるものはないかのように思えた。
 けれど、いくつもの共闘や衝突を経ていく中で、はっきりとは現れなくとも、少しずつ芽生え始めていた──彼と彼を結ぶ『何か』。
 それは今、確かなものとなって二人の中に存在していた。
「…けど、オラ、よかったと思うぞ。おめえが今、生きて──ここにいてくれて、さ」
 真っすぐ向けられる屈託の無い笑顔を、「ふん、相変わらず甘っちょろいぜ、きさまは」と愛想の無い仏頂面が鼻で笑う。
 けれど、彼らの間にそれ以上の言葉はいらなくて。
 この世にたった二人残った同胞。だからこそ、彼らにしかわからないことがある。
 今は多分、それだけでもいい。
 佇む二人のサイヤ人の間を流れる空気に、かつての険しい荒波は影もなく。
 新しい年と新しい朝を祝う光は、穏やかな気を湛えた二つの影の上に、音もなく降り注ぐ。
 それは長い時間といくつもの邂逅の末に、この星で芽吹いた絆を、ただ静かに──見守っているかのようだった。

End.


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