たぶん続かない突発SS置き場。
視界の向こうにそびえる山脈の上空を、山頂から立ち昇る薄い煙と共に雲が横切っていく。
その様を見るともなしに眺めながら、頬を撫でる風のひんやりとした感触に心地良さを感じ、悟空はごろりと仰向けになった。
「うーん、やっぱし思いっきりやるとすっきりするなぁ」
伸びをするように四肢を投げ出し、深呼吸をする。
「おめえも、また腕上げたなぁ。オラもうかうかしてらんねえや」
「フン、当然だ。そのうち吠え面かかないように気をつけろ」
少し間隔を置いて、同じく疲労感をほぐすように横になっていたベジータが素っ気なく返すと、「はは、そうだな」と悟空が屈託なく笑う。
久しぶりにお互い遠慮なく力を出し合った修行の後、休息を取りながら他愛もない会話を交わす二人の頭上には、藍色や青みを帯びた紫の中に時折伸びるオレンジ色など、不可思議な色合いの雲に覆われた空が広がっていた。
彼らがいるのは、銀河系から少し離れた場所にある無人の星。
地球上では滅多なことで本気の対戦はできないため、勘を鈍らせないよう実戦形式の派手な組み手を行う時は、二人はよくこの場所を選んでいた。
そもそものきっかけは、半年ほど前のこと。
魔人ブウとの戦いの後、悟空は界王を通じて、界王神から依頼され、宇宙で暴れ回る賊の討伐などに時々出向いたりしていた。
その際、たまたま修行で一緒にいたベジータも同行したことがあり、たまには気兼ねなく思い切り修行ができる場所があればなあ、と悟空が洩らしたことから、それならと界王神から提供されたのがこの星だったのだ。
大気はあるが、常に上空を覆う厚い雲の層によって太陽の光があまり地上に届かず、気温が低いために生物が殆どいないこと、惑星特有のかなり頑丈な地質が大地の殆どを占めていることなど、まさに彼らの修行にはうってつけの場所だった。
以来、二人は修行の進み具合や都合をみては、定期的にこの星へ修行に訪れるようになっていた。
その日も、そんな日々のうちの、特に変わりはない一日になるはずだった──のだが。
「……あれ?」
修行後の心地良い気だるさに身を任せ、しばらく無言の時が続いたあと。寝転んでいた悟空がふと視界に差した明るい光に目を瞬いて顔を上げた。
「…あ…!?」
思わず洩れた驚きの声に、ベジータが「何だ」と薄目を開けて視線を投げる。
「いや、ほら。見ろよ、あれ……!」
妙にうわずった様子の声に怪訝そうな表情をしながら、言われるままに悟空が指差した方向を見やる。
「…!」
途端、ベジータの両目も俄に見開かれる。
──二人が見上げた先には、さっきまで分厚い雲に覆われていたはずの空と、今まで雲の向こうに隠れていたのだろう二つの丸い月が、揃って姿を現していた。
「……こいつは……」
その思いもかけない光景に、二人ともしばし言葉が途切れる。
金と銀、対称的な二つの光をまとい、不毛の大地を煌々と照らす一対の満月が浮かぶ光景は、幻想的なようで、しかしどこか影の見え隠れする、何とも形容し難い心象をもたらした。
「すげえな、オラこんなの初めて見たな。この星の空っていつも曇ってばっかだったもんな」
地球上にいる限りは決してお目にかかれない不可思議な光景に、悟空が感嘆の声を洩らす。
それに、この星の空は年中雲に覆われているところしか見ていなかったため、そもそもこの星にも月があること自体、彼らは今まで知らなかったのだが。
「月があること自体は別に珍しくもないが……満月が二つも同時に出る星ってのは見たことがないな、そういえば」
過去に様々な惑星を見てきた経験を持つベジータも、初めて目にする景色にぽつりと洩らす。
本来であれば、サイヤ人にとっては大猿という力の象徴でもある真円の月だったが、今の二人にとっては、当たり前のように見上げる太陽と何ら変わりのない天体だった。
それでも、満月が輝く夜に普段とは違う心持ちになるのは、やはり彼らだけに流れる純粋なサイヤ人の血が呼び起こすものなのだろうけど。
いつもの日常の中で対面した、少し変わった思わぬ光景。ひんやりと薄い靄が頬を撫でていく中、降り注ぐ月明かりを浴びながら、彼らの一日はゆっくりと過ぎていった。
この日の出来事が、まさか後々の大事件に繋がる発端になろうとは、その時の二人はまだ、知る由もなかった。
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──その日の夜。西の都のカプセルコーポにて。
「トランクス、ベジータは? 部屋にもいないみたいだけど」
夕食の後、いつもならある程度の時間リビングに留まり、何とはなしにくつろぐ時間を作ることが多かったベジータの姿が見えないことを怪訝に思い、ブルマは息子に尋ねた。
「パパ? …あ、そういえばさっき、少し身体動かしてくるって言って外に出てったみたいだよ」
「外に? こんな時間から?」
「うん」
TVに向かってゲームをしていたトランクスが思い出したように答える。
それを聞いて、ブルマはますます不思議そうな顔になる。
多少の動きはあれど、ベジータの一日の行動サイクルはほぼ決まっていて、それは大抵の場合において計ったように正確だ。特に理由がない限り、そこに変化が加わることはあまりない。
今日は確か悟空と一緒に修行に行くと言っていたし、それなら尚のこと、わざわざこんな時間からまで外に出て行くのは異例といえた。
何かあったのかしら。
気にはなるが、トランクスもそれ以上は聞いていないらしい。彼の言い回しからすると、そう長くはかからないように思えたので、とりあえず帰ってきたらベジータに訊いてみることにして、彼女は淹れたてのコーヒーを注いだカップを片手に、ソファに腰を下ろした。
その頃。
西の都から少し離れた、無人の平原。
時折風が草木のざわめきと共に流れる静寂の中を、ひとつの影が疾風のように横切った。
短い気合いと共に拳や蹴りを繰り出しながら、何度も同じ型をなぞる。
額に汗が浮き始めたところで動きを止め、ベジータはひとつ大きく深呼吸をした。
どうも、おかしい。
息を整えながら、先ほどから繰り返し思ったことをまた思う。
彼がわざわざこんな時間から外へ出てきたのも、それが原因だった。
夕方までには予定していたトレーニングのメニューをすべてこなし、納得いくまで身体を動かしたはずだったのだが、今日に限ってどうも調子が違った。
夕食の間もずっと──いや、その前からだ。
身体にまとわりつく妙な高揚感が、今日はいつまでも抜けきらないのだ。
最初は気に留めていなかったが、こうも続くとさすがに無視はできない。
もう一度身体を動かせばすっきりするかと思ったが、それでも今ひとつ何か物足りない気がした。
何なのだろう、この落ち着かなさは。
晴れない疑問に眉を寄せ、ひとつ息を大きく吐(つ)くと、それでも今はこの気分を解消する有効な手立てが他に思いつかないので、もう少し続けてみるかと顔を上げる。
と。
そこで不意にざわざわと風が辺りを走り、上空に漂っていた雲が押し流され、その隙間から仄かな光が地上に差し込んできた。
視界を照らした明かりに空を仰ぐと、半月を少し過ぎたばかりの淡い月が昇っているのが目に留まる。
その瞬間、だった。
「っ…!」
突然、鈍い疼きが身体を走り、彼は小さく呻いて動きを止めた。
それはいつもなら取るに足らない程度の感覚だったが、今は状況が状況なだけに、彼は慎重に精神を集中させ、それが何なのかを探ろうとした。
身体に走った先ほどの感触は一瞬のことですぐに消えたが、他に異変がないかどうか神経を張り巡らせ、自分の身体の状態を確かめる。
ふと。
そこで彼は、あることに気がつく。
腕や脚、身体自体に問題はないようだ。──が。それだけではない、もうひとつ、自分の意志で動く部分。
もう随分と長いこと持たなかったはずのその感覚に、もしやと思い、視線を巡らせると。
「…!」
微かに見張った目を瞬き、しかし彼は冷静にそれを見つめた。
見下ろした視線の先でゆらゆらと揺れるそれは、紛れもなく、失って久しかったはずのサイヤ人の証である尻尾、だった。
「……」
思案顔でそれを見据えつつ、再度自分の身体の状態をチェックする。
それまで感じていた身体の変調が消えていることを確認すると、彼はその原因に思い至り、改めて再生した尻尾を見やる。
──こいつが原因だったわけか。
だが、なぜ急に?
当然の疑問が頭をもたげる。
超サイヤ人へと覚醒して以来、もう何年も生えてくる兆しすら見せなかった尻尾。
もっとも、超サイヤ人へ変身することで得られる飛躍的なパワーに比べ、大猿への変身の必要性を既に感じていなかったことから、あまり気にしてもいなかったのだが。
特に感慨があるわけでもなかったが、久しぶりに覚える感覚にしばし思考を向け、ふと思い出したように上空を仰ぐ。
──月。
薄曇りの空に浮かぶ月を見上げた彼の脳裏に、あることが浮かんだ。
考えられるな。
今日起こった出来事と、先ほどまでの自身の体調を分析し、仮説ではあるが、ひとつの結論にたどり着いた彼はひとり納得すると、もう一度息を吐いた。
しばらく新たに生えた尻尾の動きを確かめ、身体の状態も問題ないことを確認すると、彼は徐に宙へと浮かび上がり、ゆっくりとした速度でその場を後にした。
──その後、カプセルコーポでちょっとした騒ぎが持ち上がったのは言うまでもなく、また、丁度同じ頃、似たような騒動が東大陸の孫一家宅でも起こっていたことを彼が知るのは、翌日になってからのことである。
その瞬間、鈍い地響きと共に要塞全体が揺れ、震動で天井からパラパラと石礫が散った。
「ちっ、もう立て直してきやがったか…!」
卓上の見取り図に目を通していたベジータは、舌打ちすると険しい眼差しを上げ、爆音の響いた方向を見やる。
悟空もブルマも突然の衝撃にはっと表情を変え、遅れて彼と同じ方向に視線を向けた。
「……今度は連中も本気のようだな。頭数がさっきの倍はいやがる」
忌々しげに呟くと、ベジータは見取り図を折り畳み、簡易照明と一緒に傍らの皮袋に詰め込むと、それをブルマに差し出して言った。
「時間がない。オレは兵を集めて指揮し、奴らを迎え撃つ。おまえはカカロットと一緒に地下遺跡に行け。ここまで解ければ、あとはもう一歩だ。おまえならできるだろう」
胸元に押し付けられた皮袋を無意識に受け取り、目をぱちぱちさせたブルマは、一瞬きょとんとしたが、すぐに彼の意図を察し、堅い表情になる。
「で、でも……あたし、まだこの遺跡に働く力の原理を完全には……」
「言っただろう、時間がないと。大丈夫だ、おまえならできる。……できなきゃ、すべてが水の泡になるんだ。そんなことを黙って見ているおまえじゃなかろう」
戸惑いを見せるブルマの言葉を遮り、ベジータは有無を言わせぬ口調で彼女を見据えた。その瞳が物語る切迫した雰囲気にブルマは息を飲むが、どのみちこの状況では他に道はない。
「……わかったわ」
小さく頷く妻に無言ですべてを託し、ベジータは隣に目を向けた。
「リーシア、聞いた通りだ。簡単でいい、今すぐブルマの支度を頼む。それから、おまえも一緒について案内を頼む」
「……わかりました」
この状況下で選択できる方法はそれしかない。彼の言わんとしていることを察し、リーシアも硬い表情で頷いた。
「よし、行け。…それから、今すぐ全兵士に召集をかけろ。重傷者を除く全ての者を集め、奴らを迎え撃つ」
「はっ!」
後ろに控えていた小柄な従者が、命令を受けてすぐさま走り出す。
「さ、ブルマ。こっちへ」
「え、ええ」
リーシアに促されて奥の部屋へ向かおうとした時、ブルマは振り返って夫を見た。
「……気をつけてよね、ベジータ」
「……わかってる。早く行け」
気がかりな眼差しを残しつつ、彼女たちが奥へ消えると、そこでベジータはテーブルに手をつき、大きく息を吐いた。
「……くっ……」
「お、おい! ベジータ!」
ぐらりと揺れかけた彼の身体を、傍らにいた悟空が慌てて支える。
「おめえ、やっぱり…! 無茶だ、その身体で奴らのあの大群を相手にする気か!?」
「……黙れ、大声を出すな! ブルマたちに聞こえたらどうする!」
平静を装いつつも、やはり息の乱れは隠しようがなかった。わずかに汗の浮いた顔は苦しげに眉がひそめられ、万全の状態ではないことが明らかに見て取れる。
「言っただろう、もう時間がないと! ここで奴らに踏み込まれたら、すべてが無と化すんだぞ!」
「け、けどよ…!」
「ここでオレ以外に誰が指揮を取れる!? いいからおまえもさっさと行け! オレの手を煩わせるな!」
苦しい息の下から、それでも射抜くような視線を投げ、ベジータは悟空の手を振り払った。
「……わかったよ」
確かに、他に方法はない。些細な判断のミスが致命的な損失を招きかねないこの状況では、冷静な判断と的確な指示が何よりも重要なのだ。
「じゃあ、オラも行ってくる。……気をつけろよ、ベジータ」
「余計なお世話だ。おまえに心配されるとは舐められたもんだな、オレも」
彼らしい言い草に苦笑しつつもすぐに表情を引き締めた悟空は、休憩室に置いてあった仙豆を取ってくる、と言って踵を返そうとした。
その時。
「……カカロット」
「え?」
後ろから呼び止められ、振り向こうとした途端に胸倉を掴まれる。
「いいか、何があってもあいつを守れ。どんなことをしてもだ。怪我なんかさせやがったら、その脳天に風穴開けてやるからそのつもりでいろ」
「…あ、ああ」
一瞬ぐっと近づいて睨みつけてくるベジータの視線に思わず目を瞬くが、彼が言わんとしていることを察すると「わかってるって」と苦笑混じりに頷いた。
フン、と鼻を鳴らして悟空を離し、司令室へ向かおうとしたベジータの足が、そこでもう一度止まる。
「……それから」
「え?」
「もし……万が一の事態が起きた時は、ブルマを連れて瞬間移動で脱出しろ。おまえなら可能だろう。いいな、必ずだ!」
「え…お、おい! ベジータ!」
だが、彼はもう振り返ろうとせず、そのまま司令室へ繋がる廊下を走っていった。
あっという間もなく遠ざかるその背中を見つめ、「……おめえ……」と悟空の硬い呟きが洩れる。
「孫くん! 早くしないと時間がないわ!」
そこで、準備を終えたブルマとリーシアが奥から顔を出し、呼びかける。
「…ああ、わかってる。行こう!」
今は一刻を争う時だ。迷っている暇はない。彼らは顔を見合わせて頷くと、地下へ通じる隠し階段のある部屋へと急いだ。
広間の重い扉が閉じられる間際、悟空が一瞬足を止めて後ろを振り向く。
「無茶すんじゃねえぞ……ベジータ」
小さくそれだけを呟き、踵を返したあと、扉が鈍い音を立てて閉じられた。
「くっ! なんてパワーだ!」
立て続けに飛んでくる気弾を必死でかわし、弾きながら悟飯は荒い息で険しい表情を上げる。
「それはこっちの台詞だ孫悟飯! 伝説以上の力を手に入れたとでもいうか! 化け物め!」
忌々しげに怒号を上げ、ベジータは両手から気の塊を飛ばし、一気に間合いを詰めては容赦なく拳を浴びせかける。
「ベジータさん! 元に戻って下さい!!」
高速で襲いかかる拳や蹴りの嵐を辛うじてかわしながら、悟飯が叫ぶ。
「とっくに元に戻っているさ! オレのことはお前が身をもってよく知っているだろう!?」
悟飯の説得を嘲笑うかのように、ベジータは歪んだ笑みを浮かべて攻撃の手を緩めない。
「でも、それは昔のベジータさんで、今のベジータさんが悪いことをする理由なんてないはずです! ベジータさんは地球では酷いことをしましたが、ドラゴンボールで元に戻れましたし、それにナメック星では僕を助けてくれたりもしました!」
空を切る拳の唸りが頬をかすめ、蹴りの風圧だけで吹き飛びそうな容赦ない攻撃を必死で避け、荒い息で声の限り彼に呼びかけ続ける。
「はっはっは! ドラゴンボールで生き返り、その時の記憶も忘れれば、全部チャラでなかったことというわけか! とんだ笑い話だな、孫悟飯! お前も一度死を味わってみるか!」
相対する視線は冷たく、悟飯の説得にもまったく耳を貸そうとしない。
「どんな辛い目にあっても、一度死んでドラゴンボールで甦ったとしても! 生きているのなら前だけを見て、これからのために頑張るのって、いけないことじゃないと思います!」
ギリギリでかわしたエネルギー波の一端が飛び散り、地表にぶつかって轟音を上げ、爆風が辺りを駆け抜ける。
「ベジータさんも、地球のために戦ってくれていたじゃないですか!」
「ええい、黙れっ!!」
問答無用とばかりにベジータの放った気の塊が真っすぐに悟飯に向かって飛んでくる。
「くっ! …だあぁあっ!!」
渾身の力でそれを受け止めて跳ね返すが、間髪容れず背後に回ったベジータの拳や蹴りが悟飯を襲う。
「死ねっ!!」
「!!」
咄嗟に上体を倒して攻撃を避け、片手を地面について身体を反転させると、反動を利用してベジータの胴に蹴りを打ち込む。
「がっ!!」
避けきれずに真正面から蹴りを食らったベジータの身体がよろめき、表情が歪む。
その隙に身体を回転させて跳躍し、距離を取って離れる。
「はぁっ、はぁっ……くそっ……!」
両足を踏みしめて身体が傾ぐのを支え、口の端を伝う血を手で拭い、ベジータは肩で息をしながら悟飯を睨みつけた。
息を乱しているのは悟飯も同じだが、明らかにベジータの方が疲労の色を濃くしていた。
決して力で劣っているわけではない。だが、ベジータの動きを見ていると、度々何かに遮られるかのように攻撃の手や防御の構えが鈍り、避けられるはずの攻撃もまともに食らってしまうのだ。
それに対し、悟飯は深手に至るまでのダメージは受けておらず、気力もまだ十分に残っている。
これ以上は危険だ。そう察した悟飯は、眼差しを険しくして再び叫んだ。
「もう、いいでしょう! やめましょうよ、ベジータさん!」
「まだだ……まだ……ごはっ、ごほっ!」
その時だった。
「……何をしている、悟飯! とどめを刺さないかっ!」
「!?」
彼の周りの気が弾け、急に膝をついて咳き込んだかと思うと、苦しげな息の下から絞り出されるような声が洩れた。その言葉に、悟飯がはっと表情を変える。
「べ、ベジータさん!? 元の意識が…!」
「バカ野郎…! 前だけを見て、今と未来のために戦っているんだろう!? 早く…とどめを刺せ!」
それは紛れもなく、本当のベジータの声、彼の意思の言葉だった。
「で、できませんよ…そんなこと! そこにいるんでしょ!? ベジータさん!!」
「非情になれ、悟飯! お前にはそれができたはずだ!!」
「…で、でも…!」
今、何をするべきなのか。ベジータが何を言おうとしているのか、悟飯にわからないわけがなかった。
もしこのまま、彼を止めることができなければ。元に戻すことができなければ……取り返しのつかない事態を招きかねない。
だけど、それでも。それでも、できない。
自分の命を捨てても、これ以上の被害を出したくない──そう願っている、今の彼を手にかけることなど。
「ダメです……できません!」
わかっている。だけど、できない。
彼の性格からすれば、無理もないことだった。
「くそ……こうなったら、自分で…ケリをつけるしか…ないぞ……っ、ゲホッ、ゴホッ!」
悟飯の躊躇いを見て取ったベジータは、歯噛みして立ち上がろうとしたが、そこで再び苦しげな息を吐き、澱んだ気流が彼の周りに渦巻く。
「黙れベジータ! カカロットを倒すまでは終わらせない!! …っぐ、がはっ…!」
「…ああ、そうだな…」
ドス黒く歪んだ殺気と、それを押し戻そうとする気の火花が交錯し、弾け、空気を焦がす。
「ベジータさん…!」
「だが、それよりも今の自分が一番気に入らないんでね。悪いがぶっ潰させてもらうぞ!!」
言うが早いか、ベジータは両手に渾身の力で気を集中させ、凝縮させると自らの胸の前で両手をかざした!
「! いけない!!」
それを目の当たりにした悟飯が飛び出そうとした時、
「父さんっ!」
「ベジータさん!」
割り込んだ声と共に、二つの影が彼らの前に降り立った。
「悟飯君、トランクス! ベジータさんを押さえて!」
「は、はい!」
その場のただならぬ空気を察した二人は、今にも自分に向けて気功波を撃とうとしていたベジータを後ろから押さえ、動きを止めさせる。
「トランクス、なぜお前が!? ええい、離せっ!!」
「駄目ですよ、父さん! 酷い怪我なんですから!」
身体中に傷を負った父の姿に息を飲みながらも、腕を振り解こうとするベジータを必死に押さえ込む。
「参ったな…、ベジータさんが元に戻らないと、仙豆を与えにくいぞ……」
最悪の事態は免れたものの、ベジータが正気に戻らない限り、体力を回復させるのは逆効果だ。悟飯が険しい顔で唇を噛む。
「でも、このままじゃ父さんが!」
「そうですよ!」
ベジータの腕や肩を染める血に息を飲んだトランクスと少年の悟飯が叫ぶ。
「グッ……ゲホッ、ゴホッ…! …ククク、どうした? 仙豆を与えないと、俺より貴様らのベジータが先に死ぬぞ?」
「くっ…!」
表情を歪ませ、苦しげに咳き込みながら、それでもベジータが……否、彼に憑依した邪念の塊が、三人を嘲笑うように言い放つ。
一体化しているとはいえ、敵は元々実体の無い気の塊。傷つき、衰弱していくのはベジータ本人の命なのだ。
「くそっ! どうすればいいんだ…!」
状況は何も変わっていない。このまま奴を押さえておくのは不可能に近い。かといって、今、仙豆を与えるのは危険すぎる。
だが、時間はない。放っておけば本当にベジータの命が危ないのは十分にわかっている。
現状を打破する手が見つからず、歯噛みした三人の間を、重苦しい沈黙が流れた。
「くそっ!!」
敵が両手から禍々しい光を放った瞬間、ベジータは負傷した身体を奮い立たせ、辛うじて第一撃を避ける。しかし、
「遅い!!」
間を置かず放たれた第二、第三の閃光が大きくうねるようにして瞬時にベジータの周りを取り囲み、彼が防御する隙を与えず、更に凄まじい波動となって襲いかかった!
「!!
ぐっ…あぁぁあ!!」
目映い稲妻が弾け、咄嗟のことに防御が遅れたベジータの身体を衝撃が走る。幾筋もの光の帯は彼の全身を捕え、激しい火花を散らしながらぎりぎりと身体を締め上げていく。
「!!!」
その光景に悟空が眦(まなじり)を切れんばかりに見開く。
「が…あぅ…ぐ、ぁあ…っ!!」
傷を負い、弱りかけた身体に容赦なく襲いかかる凄まじい衝撃に息が詰まり、一瞬視界が霞む。が、
「ベジータぁぁぁ!!!!」
意識の隅で耳をかすめた悟空の叫び声に、途切れかけた感覚が引き戻される。
「っ…、……!」
ぎりっと歯を食いしばり、何とか動く左手を力の限り握りしめ、渾身の力で気を集中させて高める。
「……はぁああああっ!!!」
咆哮と共にベジータの身体から目映い気が発せられた瞬間、彼を締め付けていた光の波動が一瞬にして弾き飛ばされ、塵となって四散していく。
「…っ…」
しかし気の放出を止めると、途端に身体からふっと力が抜け、重力に引かれて落下する。
「ハァッ…、ハァ…、く…っ!」
左手を地面につき、荒い息を零して必死に上体を起こそうとするが、多量の出血と気の低下のために身体は鉛のように重く、ベジータの意思に反して思うように動かない。
自由の利かない右腕から伝う血は、今もじわじわと彼の体力を奪っていく。
「ベジータ…っ!!」
ただ見ているしかできない悟空は、血が滲むほどに唇を噛みしめ、両の拳をぎりぎりと血が出るほどかたく握りしめる。
力が及ばないことが、こんなにも悔しいことだったなんて。そして、自分のやったことが、こんなにも取り返しのつかない事態を招くことになるなんて。
『…きさまもいい加減、敵の正体くらい見抜けるようになれ。その甘さが、いつか自分の首を締めることになるぞ』
災いの火種になりそうな芽は、可能な時に潰しておく。でなければ、いつどんな形でまた自分に牙を剥くかわからない──彼はいつもそう言っていた。そういう世界で、彼は生きてきたから。
殺さずに済むなら、殺したくない。そんな自分の考えが、今回ばかりは本当に甘かったのだと今更のように思い知らされ、悟空は心の底から悔やんだ。今、他ならぬ自分の甘さが招いた災いのせいで傷つき、膝を折る同胞の姿を目の当たりにして。
まだ懸命に立ち上がろうとするベジータを見据え、敵がくくく、とくぐもった笑いを洩らす。
「頑張るねえ。ま、そうでなくてはこちらも面白くないが……そろそろ、楽にしてやろうか?」
そう呟いた後、敵は徐に両手を広げ、青白い光をその手にゆらゆらと集中させ始めた。
同時に、周りの空気が揺れ、凄まじいエネルギーの波動にビリビリと震動する。
「…!」
今までとは違う敵の攻勢に、ベジータの苦しげな表情が更に険しくなる。それは今の状況の悪さを悟空に感じさせるには、十分すぎるものだった。
「はあっ!!」
ベジータは短く気合を溜め、向かってくる眼前の敵の塊めがけて両手を突き出した。瞬時に放たれた気弾が瞬く間に十数匹を消し飛ばし、残骸が灰となって散っていく。
「おりゃーっ!!」
後ろで悟空も同じように雑魚の群れを相手にしているが、何しろ数が多すぎる。倒しても倒しても次々と現れるため、このまま消耗戦になると流石に分が悪くなりかねない。
「くそっ、これじゃキリがねえ!」
互いに背中合わせになりながら、周囲を囲む敵の集まりを睨みつける。
「ったく、よくもまあこれだけの雑魚を集めたもんだ!」
不毛な掃討戦に二人とも僅かに息が上がっている。超サイヤ人4へ変身した二人には大して脅威となる敵ではないが、こう多勢に無勢だと少しずつとはいえ体力も削られる。
まだどこにどんな相手が潜んでいるかわからない今、これ以上の無駄な体力の消耗は避けたいところだった。
と、不意に一箇所に集まった敵が、互いに合図を送ったかと思うと数十匹分のエネルギー波を二人目がけて投げつけてきた!
「うわっ!」
咄嗟に左右に分かれて攻撃をかわし、視界に入る雑魚を端から叩き落としていく。
敵は機械的な動きで執拗に二人を狙い、まったく諦める様子はなかった。
その時。
ベジータの視界の隅で、何かが光った。偶然その方向を向いていた彼が気づいたそれは、周りの廃墟の中でもひと際細長い外観の紅い色をした塔から発せられていた。
(!?)
目にした瞬間冷たい波動を覚えたその光に、はっと表情を変えた時には既に遅く、紅い塔から放たれた光は音もなく彼ら目がけて襲いかかった。
執拗に襲ってくる複数の敵を相手にしている悟空は、たまたま背を向けていたため死角になっていて気づかない。
「カカロット!!」
「え?」
考えるより先に体が動いていた。叫ぶ間も有らばこそ、咄嗟に悟空の前に飛び出したベジータの身体を、避ける隙も撥ね返す暇も与えず、その鋭利な紅い刃が貫く。
「がっ!!」
音もなく突き抜けた光の波動とともに、鈍い衝撃と焼けるような激痛が腹部を走り、彼の表情が歪んだ。
「!!」
自分の前に立ち塞がったベジータの身体が呻き声とともに揺らぎ、鮮血が宙を舞う。
「ベジータ!!」
振り向いた刹那目の当たりにした光景に、悟空は目を見開き、彼の名を叫んだ。