<エピローグ>

 西の大陸でもひと際賑やかな都の中心ともなれば、深夜になってもその街並みが完全な闇に包まれることはない。
 日の出までにはまだ少し時間があるだろうこの刻限でも、庭の木々の隙間から見える建物には、既にいくつかの明かりが灯り、人の気配が動き始めていた。
 とはいえ、多くの一般人が活動を始める時間には早いので、外の喧騒は殆ど聞こえてこない。
 暁の無言(しじま)に、さらさらと細やかな風が庭園の小枝を揺らす中、彼は馴染みの場所となっているカプセルコーポの屋根の上で、明け方の空を見つめていた。
 一階や庭先で繰り広げられていた宴会は夜中近くまで続いていたようで、それに参加していた連中はまだ夢の中だろう。
 生まれて間もない娘のお披露目会という名目で開かれたパーティーだった上、顔くらいは出しなさいよとブルマにも釘を刺されていたために無視するわけにもいかず、渋々少しばかり同席はしたが、延々と続く騒ぎに辟易した彼は早々に退散するといつものように重力室に籠もり、その後早めに自室へ引き上げたのだった。
 そのせいか今日は妙に早く目が覚めてしまった。早朝トレーニングに出ようかとも考えたが、今は何となくその気になれず、風にでも当たろうと屋上に出てきて、今に至る。
 夜の帳に覆われた街はまだ暗かったが、東の空の色が少しずつ変化し始めるのに従って、徐々に明るさを増し始めている。
 やがて朝焼けが東の空を染め、朝陽が昇り、この青い星の一日の始まりを告げる。何かと騒々しい、しかしそれがいつもの光景となっている一日が。
 あとわずかであろう静寂の時を惜しむように、彼が空に薄くたなびく雲を見つめたまま佇んでいると。
「──あ、いた。やっぱりここだったのね」
 不意に後ろから聞き慣れた声がした。
 振り返ると、開いた屋上のハッチから出てきたブルマがゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
 寝間着の上からショールを羽織ったままの格好の彼女に怪訝そうに目を瞬き、彼は尋ねた。
「なんだ、こんな時間に。まだずいぶん早いだろう」
「まあね。さっきブラがぐずって起きちゃったのをあやしてたら、何だか目が冴えちゃって」
 部屋を覗いたらあんたもいないから、ここかなと思って来てみたのよ、と彼女は笑った。
「なら、もう少し休んだらどうだ。おまえも昨夜は遅かったんだろう」
「大丈夫よ、わたしはブラに付き合って早めに休んだりしてたから。みんなはまだ当分起きないでしょうけどね」
 朝食は少し遅めがいいかしらね、と言いながら彼の隣に来る。それほど疲れているようには見えないので、気にすることもなさそうだと思ったベジータは、視線を街並みの向こうに向けた。
 二人が見つめる眼差しの先で、夜の帳に覆われていた空は徐々に薄闇へと変化し、東側から少しずつ仄かな明るみが広がっていく。
 薄い墨色は暗い紺青に、濃い紫紺を経て赤みがかった紅へ。
 時と共に移りゆく色彩はやがて暁色へと変わり、薄い雲の隙間から一筋の光が零れ始める。
 それは瞬く間に幾条もの光の帯となって遠くの明けの空を照らし、街並みに差し込んでいく。
 陽光が気流に混じる水分に反射し、チカチカと閃く朝靄が、まだひと気の少ない街を包み、ゆったりと朝焼けに染まる空に舞う。
「わあ……きれいね」
 隣に立ったブルマが、目の前に広がる黎明の鮮やかな彩りを見つめて感嘆を漏らす。彼女の細面(ほそおもて)も朝陽に照らされ、白い肌がほんのりと朱に染まって見えた。
「普段はあまり機会がないけど、この街中でもこんなにきれいな空が見られるのね」
 ベジータがいつか感じた印象と同じことを──最もあの時は明け方ではなく夕暮れだったが──ブルマが呟く。

 かつてこの星へ来たばかりの頃。無人の荒野で、或いは極寒の氷河地帯で、或いは荒れ果てた砂漠の真ん中で。
 過酷なトレーニングに疲労しきった身体を引きずりながら、何度もひとり迎えた夜明け。
 辺境の惑星の公転と自転による、ただの恒星と衛星の入れ替わり、その繰り返しに過ぎなかった──そうとしか感じなかった日々。
 何の感慨もなく見ているだけだった星の巡りに色を、降り注ぐ光に温かな熱を、その身に感じられるようになったのは、いつからだったろう。
 いつの間にか、彼の周りは、様々な色と光と熱で溢れていた。あまりにも近すぎて、眩しすぎて──時には直視することすら憚られるほどに。
 けれど、世界は変わらず、ずっとそこに在ったのだろう。彼自身が無意識のうちに避けていた、気づかないふりをしていただけで。
「いつも見慣れてると思ってた景色でも……きっと、毎日がひとつひとつ、違うのよね。気づかないで見過ごしちゃうことも多いけど」
「……」
 何気なく妻が呟いた一言は、図らずも彼の胸中を言い当てているようでもあった。
 それならば、と彼は想う。
 今度こそ、自分に出来得る限りは。
 今、確かに見えているものを。この掌にあるものを。二度と──自ら手放すような真似はするまい、と。


 ブルマもまた、久しぶりにベジータと見つめる日の出に、様々な感情が去来する。
 今まで幾度となく繰り返されてきたこの星の、この街の夜明け。けれどそれは一日たりとも同じではなく、その日、その日がすべて新しい時の始まりなのだ。
 何しろ以前には一度、この星そのものが消えて無くなる事態すら起きてしまったのだから、尚更この瞬間のひとつひとつが、愛おしい。
 かつては父や母と、そして仲間たちと見つめてきた太陽の巡り。そして今は、息子や娘と──それから、彼と。
 この一瞬一瞬が、二つとない大切な時間。
 そっと夫の腕を取り、彼女は傍に寄り添った。
「ありがと、ベジータ」
「……なんだ、いきなり」
 脈絡なく妻の口から零れた感謝の言葉に、ベジータが怪訝そうな目を向ける。
「んー、何となく。わたしが今、すごく幸せだなって感じるのも、きっとあんたがこうしてここにいてくれるからなんだろうな、って思ったらね」
「……な」
 さらりと言われた台詞に一瞬呆けたように目を瞬き、その言葉の意味を理解した途端、みるみる彼の顔に朱が上る。
「何を、くだらんことを……」
 言いながらそっぽを向くベジータの、そんないつもの仕草すらブルマの笑みを誘う。
 くだらなくなんかないわよ?と心の内で思うが、それはあえて唇には乗せずに置く。
 それは彼がここに来た頃からずっと、感じていたことではあった。彼は多分、命の価値が非常に軽い世界で生きてきたからだろうけど、自分自身の存在に対して、とても淡白だ。
 いつだったか、彼が重力室で過酷なトレーニングを繰り返していた頃に言っていた言葉が思い出される。
『この世界には、殺す側と殺される側しかいない。強い者が勝ち、弱い者は死ぬ。それだけだ』
 まだ地球に来て間もない頃、冷淡にそう言い放った彼の険しい眼差しを、ブルマは今でも覚えている。
 弱者は強者に屈するしかない。力の無い者は滅ぶだけ。たとえそれが、自分自身であっても。
 殺すか、殺されるかの世界で、力こそがすべてだった彼が、この星で自分と出逢い、共に過ごすようになり、やがてトランクスが生まれ──それまで生きてきた価値観とはまったく違う世界に触れるようになって。とてもゆっくりではあるけれど、彼は確かに変わっていった。
 もちろんその変遷の中で、様々な葛藤もあっただろう。それでも彼は少しずつ、新しい世界を、自分を受け入れ、認めてくれたのだ。こんな生き方もある、ということを。
 でもそれは、あくまで自分以外の人間へ対する感情において、の場合であり、彼が自身に対して抱く存在の意味は、おそらくそれほど変わっていない。
 それは彼女の旧友についても言えることだが、闘いの中で生きるサイヤ人という民族であるが故の性(さが)なのか、彼らはとかく自分自身の命というものについては無頓着だった。
 闘いが好きとはいえ、もちろん進んで死ににいくほど考えなしではないし(そう見えることも間々あったが)、普通の地球人とそう変わらない生存本能くらいはある──とは思うものの、いざという時に自分の命を賭けることには、何ら躊躇いを持たなかった。その際に、自分の存在が周りへ与える影響というものに関しては、たぶん殆ど考えたことがないのだろう。
 特に彼はその生い立ち故にか、自身に対する存在の感覚が非常に希薄だ。
 決して自分を卑下しているわけでもなければ、過去にしてきたことを悔いているわけでもない。
 彼はただ、今まで自分が歩んできた道を、その身に起こる出来事を、時に葛藤しながらも認め、受け入れて生きている。その裏表のない、時として愚直なほどに真摯な生き方をする彼だからこそ、彼女も彼に惹かれ、共にいることを選んだのだけれど。
 だからこそ。もう少しだけ、知っていて欲しいと願うのだ。
 たとえ、彼の過去に根差す何かが、陰を落としたとしても。誰かが、彼の過去の罪を糾弾し、非難したとしても。
 それでも今、この星に生きる彼を受け止め、傍らに在る者として。
 彼女は、想う。
 彼は、きっと彼自身が思う以上に、ずっと強く──必要とされていることを。


 あんたは多分、くだらないって言うかもしれないけど。
 他の誰でもないあんただから、そう思うのよ。
 誰にも代わりなんかできない、あんただから。

 孫くんにとっては、最後に残ったサイヤ人の仲間。
 トランクスやブラにとっては、誰よりも大切なお父さん。
 そして、もちろん──。


 夜明けの産声を上げて輝く陽の光を浴びながら、ブルマはそっと夫の横顔を見つめる。
 誰が咎めようとも、誰が認めなくとも。
 この星で彼と過ごしてきた年月そのものが、彼が過去とは違う新しい時間を生きてきた道のりであり、何よりの証だ。
 そのことは誰よりも、自分がよく知っている。
 だから自分も、伝え続けよう。彼と共に在る限り。この星に朝が巡ってくるたびに、何度でも。


 わたしにとって、ただひとりのあなたへ。


 寄り添いながら朝陽に照らされ佇む影が、丸い屋根の上に細く伸びる。
 どこからともなく聞こえる鳥の羽ばたきが風に揺れ、小さな囀りが朝靄の中に朗らかに響く。
 やがて高く昇り始めた太陽の光が空や海を照らし、山や森に降り注ぎ、街や村を包み、人々が動き始める。
 そしてまた、新しい一日が始まる。平凡で、騒がしくも温かい、この街の一日が。
 穏やかな日常も、時に巻き起こる嵐も、そのひとつひとつが、彼らが紡いできた日々の証。
 移りゆく時間(とき)に、確かな足あとを刻みながら。その軌跡が織り成す物語は継がれていく。きっと、これからも。


<The End>
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