<プロローグ>

 荒涼とした赤い大地に、乾いた風が巻いた。
 辺りに広がるのは、見渡す限りの赤茶けた岩肌が連なるひと気のない荒野。
 吹き過ぎる風の音を肌で感じながら、ベジータは空を仰いだ。
 上空には、朧げな淡い光をまとった上弦の月が浮かび、静かな紅い光を放っている。
 いつの頃からか、こうしてこの場所で一人しばらく時間を過ごすことが、彼の習慣とも呼べる癖になっていた。
 特に、こんな乾いた風の吹く、仄かな紅い光の差す月夜には。
 最初は特に珍しくもない、ありふれた場所だと思っていた。
 だが、ある夜――丁度こんなふうに、薄い月明かりの差す夜に――修行の帰り道、偶然この場所を通り過ぎようとした時、ふと既視感が彼の胸中をよぎったのだ。
 どこかで見たような光景。なぜか立ち止まらずにはいられなかった、辺りを静かに通り過ぎる風の音。
 まるで郷愁にも似た奇妙な感情すら憶えたその光景は――そう、どこか似ていたのだ。今はもう、ほとんど薄れた記憶しか残っていない、あの紅い星に。
 今頃自分がそんな感情にとらわれるとは思いもしなかったが、それでも不思議と悪い気はせず、時折気がつくとこの場所へ足が向いていた。
 特に何をするでもなく、ただしばしの間そこに留まり、じっと空を見上げ、風の音を聴いているだけの時間。
 その時、彼の心に去来するものは、その多くが決して心持ちのいい記憶ではなかったが、それでもこうしてここにいることを悪くないと感じるのは、この星に留まり、この星の生活に馴染んだ今でも忘れ得ない、己の中の血が呼び起こすものなのかもしれない。
 そんなことを考えているうち、今いる場所からほど近いところに不意に現れた何かの気配を感じ、彼ははっと顔を上げた。
 物思いにふけっていたとはいえ、こんな近くに来るまで気づけなかった自分に舌打ちし、立ち上がる。
 少し神経を集中させて気配を探った後、それが自分のよく知るものであることに気づくと、彼の眉がかすかに上がった。
 近づいてくる気配の方向へ視線を向けると、少しの間を置いて、土を踏みしめる足音とともに、その気配の主が岩肌の向こうから姿を現した。
「……あれ?」
 辺りを見るともなしに見回しながら歩いてきた相手もまた、不意に岩の向こうに見えた人影に気づき、目を瞬いた。
「よぉ、ベジータじゃねえか」
「──カカロット?」
 互いによく見知った相手の顔を認め、彼の方へ歩み寄りながら悟空がいつもの人懐っこい笑顔で片手を上げた。
「なんだおめえ、こんなとこで何してんだ?」
「……それはこっちの台詞だ。おまえこそこんなところに何しにきた」
 いつものぶっきらぼうな口調で間髪入れず同じ質問を返され、悟空は一瞬ぽかんと目を瞬き、まいったな、と苦笑しつつ頭をかいた。
「んー、いや、別に何しにってわけじゃねぇけどよ。……なんとなく、時々この辺を歩いてみたくなるんで、たまに来るんだ」
 釈然としない答えに胡散臭げな表情をするベジータに、悟空は「嘘じゃねぇよ」と付け足した。
「なんちゅうのかな、オラにもよくわかんねぇんだけどよ……なんとなく、懐かしいっちゅうか、落ち着くような感じがすんだ、ここ」
 その言葉を聞いた途端、ベジータがかすかに目を見張り、心底意外だといった顔で悟空を見返した。
「……な、なんだよ」
「まさか、おまえの口からそんな台詞を聞くとは思わなかったな」
「え?」
 何が、と怪訝そうに聞き返す悟空を横目に、ベジータは再び上空に視線を向けた。
 朧げな紅い月が変わらずそこに浮かび、時折風の運ぶ雲に見えつ隠れつしながら辺りを照らし続けている。
「ここはどこか、惑星ベジータに似ているからな。……あの星も、多くがここのような赤い岩山と砂地の広がる地表で……特に、今日のような紅い月が昇る夜には……よくこんな乾いた風が吹いていた」
 すると今度は、彼の呟きを聞いた悟空が思わず目を瞬いて彼の視線の先を追った。
 ――遠い昔に消えてなくなったという、かつてのサイヤ人の母星。
 悟空にとってはそこにいたという記憶すらない故郷の星だったが、自分がなぜか惹き付けられるこの場所が、その星に似ているという。だとすると、自分でも意識することのない、けれど確かに自分の中に流れるサイヤ人の本能が、知らずこの場所に足を向かわせるのだろうか。
「へぇー。ここがなぁ……」
 どこか複雑な顔をしつつ、それでも不思議と悪い気分はしなかった。
「おめえも、そこでこんなふうに空を見てることあったんか?」
「……さあな。生まれてから数えるくらいの間しかいなかった星だ、ほとんど憶えてもいないが……ただ、今日のような紅い月の光と乾いた風の音だけは──妙に記憶に残っている」
「ふーん」
 物心ついた時からずっと地球人として育ってきた悟空には、自分とは違って故郷の星の記憶を持っているベジータが、どんな思いでこの大地の光景を見ているのかはわからない。だが、今、この場所でこうしていることが、彼にも自分と同じ気分をもたらしているのだろうことは感じ取れた。
 その証拠に、ベジータから伝わってくる気に荒立った波はなく、静かで、落ち着いた雰囲気を持っていた。
 この星で育ち、戦いの中でも地球人としての意識を持ち続けることにこだわっていた悟空だったが、それでも時折他の人々と自分との違いを意識しないわけではなかった。
 強い相手と戦うことに高揚感を見出し、より強さの高みを目指し続けるサイヤ人特有の気質は元より、日々の生活の中でも、時々ふとしたことで小さなすれ違いを感じることは少なくない。
 今日のような気分もそうだった。息子の悟飯や悟天でさえ感じることのない、説明のつかない感情。
 勿論、本来それほど物事を深く考えない性格である彼は、それを必要以上に気にすることもなかったが、改めてその事実を知ると、その不可思議な感情はまた今までとは違った意味を持って受け止められた。
 ──やっぱり、オラもサイヤ人なんだなぁ。そして、おめえにだけはそれがわかるんだな。
 隣に佇む、今まさに自分と同じ気持ちを共有しているであろうただ一人の同胞を見つめ、悟空は思う。
「……何見てやがる」
「いや、なんでもねぇよ」
 じろりといつもの鋭い視線で睨まれながらも、悟空はへへ、と笑って彼と同じ空をもう一度見上げた。
 うまく言えないが、ただ何となく、この時の気分を自分は気に入っていた。…そして、不思議と安心感を覚えた。今、自分と同じ思いを持つ者が、ここにいることも。
 ふん、と気に入らなさそうな目をしつつ、ベジータも今は話を荒立てる気にならないのか、それ以上追求することもなく、再び空へ視線を戻した。
 薄い雲が流れ、淡い光にわずかな濃淡を演出し、また音もなく去っていく。
「いい風だな」
「……ああ」
 互いの口から無意識に洩れた呟きも、今はごく自然なもののように感じられ。
 静寂に包まれた荒野の中、無言で佇むこの世にただ二人きりの生粋のサイヤ人の周りを、穏やかな風が幾筋もの流れを作っては通り過ぎていく。
 仄かな月明かりの下、地面に伸びた二つの影は、やがて月がその光を弱めていくまで、その場を動こうとはしなかった。
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