きっかけはほんの些細な、息子の他愛ない一言────
ただそれだけのはず、だった。
そろそろ初夏になろうかという陽気のある日。
久しぶりに外へ出ての実戦形式でのトレーニングを行ったあと、近くの湖で喉を潤しながら休憩を入れているときに、トランクスがふとこんなことを訊ねてきた。
「ねぇ、パパが初めて戦ったときっていつだったの?」
「……なに?」
ベジータが怪訝な顔で隣の息子を見下ろすと、彼は母親譲りの色をした目を好奇心に輝かせながら、再度問いかけた。
「だからさ、パパが初めて戦ったのって何才だったの? 俺や悟天とおんなじくらい?」
「……なぜそんなことを訊く」
「やっぱり、小さい頃から強かったのかなあって。悟飯さんも小さいときから色々訓練したっていうし、パパもそうだったのかなって思って」
単に好奇心からか、トランクスは屈託のない笑顔で父を見上げる。
他意はないのだろう単純な質問に、ベジータはしばし考えて口を開いた。
「…そうだな。はっきり覚えているわけじゃないが、初陣を迎えたのは確か4つになるかならないかの頃だったはずだ。もっとも正式に戦場に出たのがその年からというだけで、それまでも戦闘訓練は既に日常的にやっていた」
「4つ…って、4歳の頃ってこと?」
「そうなるな」
「えぇー、じゃあ俺や悟天よりもずっと小さい頃からなんだ!」
「サイヤ人なら別に珍しいことじゃない。それぞれの戦闘力にもよるが、物心ついた頃から戦場に駆り出されるのは日常茶飯事だった」
「みんなそんな小さい頃から戦いに出てたの?」
「そうだ。役に立つか立たないかは素質と訓練次第だがな。いずれにしろ、あの頃で既に俺の相手になる奴は上級戦士の大人でもほとんどいなかったが」
「へぇ〜! やっぱりパパは小さい頃から強かったんだね、すごいや!」
素直に感想を述べるトランクスが、邪気の無い笑顔を上げる。
未だこの年齢で超化できることの意味を理解していないらしい息子に苦笑しつつ、ベジータは胸の内でひとりごちた。
(まあ、今のおまえのレベルから見れば、微々たるものなんだがな)
そうして、今は遠い記憶となってしまった幼い頃を思い返す。
父王に伴われ、重臣たちを従えて降り立った初めての遠征。
実戦経験は少ないながらも、圧倒的戦闘力をもって制圧を完遂した彼に、誰もが驚嘆と畏怖の視線を向けた。
もっとも自分は王子という身分上、万が一があってはならぬと常に誰かが側にいて目を光らせていたため、思ったほど自由に暴れられなかったことが不満だったくらいなのだが。
既に父王にも迫るほどの戦闘力を有していたにも関わらず、未だ庇護下に置かれていることを面白くないと感じていた。今にして思えば子供の浅知恵と自惚れでしかなかったわけだが。
そして──
『いいか、未熟な戦闘力なんてのは本物の戦場じゃ足を引っ張るだけなんだよ。覚えとけ!』
不意に脳裏をよぎった声に、一瞬思考が止まる。
自分の前に立ちはだかる背中、鋭く諌める言葉。
あれは。
おぼろげな輪郭が浮かぶ中、僅かに振り返った顔に残る頬の傷。
あれは───
「パパ? どうしたの?」
急に黙り込んだ父を見てトランクスが首を傾げる。
はっと我に返ったベジータは、怪訝そうな息子の視線に、「いや」とかぶりを振った。
「何でもない。さあ、そろそろ休憩は終わりだ。続きを始めるぞ!」
「あ、うん。わ、待ってよパパ!」
物思いに沈みそうになった思考を断ち切り、息子に檄を飛ばすとベジータは地を蹴って上昇していく。
その後ろ姿を、慌ててトランクスが追うのだった。
その夜。
家族もほとんど寝静まった深夜、静寂に包まれる部屋のベランダで、ベジータは一人壁によりかかり外を眺めていた。
薄雲の流れる夜空に浮かぶのは、おぼろげな光を放つ上弦の月。
普段は淡い白に映る光は、今はうっすらともやがかかったように赤く染まっていた。
昼間のトランクスとの会話があったからだろうか。気にしていたつもりもなかったが、その月からどうしても目が離せず、こうしてただじっと見つめる時間が流れていく。
──あの日の、あの星も。ちょうどこんな風に、薄く赤い月が昇る夜だった。
初陣の為降り立った星に大した戦闘力の住民はおらず、星の制圧自体は何ら問題なく終わり、彼自身は物足りなさすら覚えていた。
並外れた戦闘力を誇るとはいえまだ子供の身に万が一でも何かがあっては大変と、あらかじめ大した危険がないようにと調査した上で選ばれた星だったのだろう。
王子である身を考えれば仕方のないことではあろうが、所詮は子供、そんな配慮などわかるはずもなく、あまりにも手応えがなさ過ぎると側近や父王に不満たらたらで文句をつけていたことを思い出す。
だから、だったのだろう。
思うように発揮できなかった力を持て余し、また常に監視役が側に居ることに窮屈さを覚えて仕方なかった彼は、その夜、一人でこっそりと宇宙船を抜け出したのだ。
初めて一人で大地を踏みしめ、そして跳躍する。
乾いた風に混じって流れてくる煙と血の匂いに、知らず心が高揚する。
今ならどんな敵が現れても勝てる気がした。
陣地からかなり離れても臆することなく、広大な面積を持つ星を飛び回る。
既に生ける者の気配はなく、風の唸りばかりが吹き過ぎる焦土を見下ろし、力を示せる相手がいないことが残念でならない──そう考えていた時だった。
生い茂った森の上に差しかかった瞬間、突然地響きが起き、眼下の岩が崩れ地面が盛り上がった。
『!?』
驚く彼の前で木々をなぎ倒しながら姿を現したそれは、長い無数の手足を持った百足(むかで)のような生命体だった。
『なんだこいつは……まだこんなのがいたのか』
咄嗟のことに驚きはしたものの、王子は新しい玩具を見つけたようにニヤリと笑った。
『ふん、こんなザコすぐに片づけてやる』
闘争心を剥き出しにし、片手にエネルギー弾を作り出すとそれを怪物に向けて投げつける。
白球が炸裂し、怪物は野太い咆哮を上げながら長い手足をしならせて彼に襲いかかって来た。
右に左に跳んで攻撃をかわしながら何本かを切り落とし、もう一度エネルギー弾を食らわそうと手を上げた瞬間だった。
切り落とした長い手の切り口から突然黒い煙が吹き出し、空中にいた王子はその煙を浴びてしまう。
『!? う、あっ!』
その途端、目や喉に焼け付くような痛みを覚え、王子は弾き跳ばされた。
バランスを失って地面に叩き付けられ、激しく咳き込む。
『ゲホ、ゲホッ! …く、うっ」
視界が霞んで目がうまく開けられず、呼吸がつっかえる。
何か毒を浴びせられたのだと気づいた時には既に遅く、体から徐々に力が抜けていく。
怪物は尚も唸り声を上げながら手足を振り回し、目の前の獲物を捕えようと近づいてくる。
『…っくそ、こんなことで!』
自らの失態に歯を食いしばり、小さい体を懸命に引き起こすと、彼は両手に思い切りパワーを集中させて正面から怪物へ凄まじいエネルギー波を浴びせかけた。
灼熱の波に飲み込まれた怪物が断末魔の咆哮を上げ、全身でのたうち回る。
やがて焼け焦げた臭気を上げながら二、三度体を痙攣させた生命体は地響きを立てて崩れ落ち、動かなくなった。
『はぁ、はぁ……見たか、この下等生物が!』
肩で息をしてそれを睨みつけると、王子はよろよろと立ち上がろうとした。
が、動かなくなったはずの黒焦げの塊がぐらぐらと動き、地面が割れ岩が崩れる音がしたかと思うと地中からまた同じ巨体が姿を現したのだ。
『な…ッ!?』
突然のことに唖然とし、また体が思うように動かなかった彼は初動が遅れ、瞬時に襲いかかって来た攻撃を避けきることができなかった。
『うあぁッ!!』
肩や足を鋭い痛みが貫き、弾き跳ばされる。
岩に背中から叩き付けられ、苦痛に呻く王子を逃すまいとするかのように、怪物の手が次々と巻き付き小さな体を締め上げる。
『ぐぅッ…! …くそ…ッ、はな、せ…!!』
もう一度攻撃しようとするも締め上げる力がギリギリと食い込み動きを封じられ、力の入らない体では撥ね除けることもできない。
『はなせ…ッ! くそぉっ…!』
もがく王子を嘲笑うかのように、怪物が大口を開けじりじりと近寄りかけた時、
ギャオオオオオオ!!
突然怪物の悲鳴が響き渡り、同時に体を締め上げていた力が緩み、王子は宙に放り出された。
『おっと…!』
咄嗟のことでそのまま地面に落下した体が、不意にガシッと力強い感触に受け止められる。
『……?』
『まったく、やたら騒ぎが聞こえるから慌てて来てみれば。危ないところだったな』
頭上から聞こえたやや高めの声。
懸命にこじ開けた視界に映ったのは、見覚えのある特徴のある髪型に、大きな頬傷を持つ男の顔だった。
『よぉ、王子。平気か? 子供が一人で夜出歩くのは危険だぜ』
『な…、きさま、誰に……!』
向かって、と言いかけた台詞はしかし再び響いた怪物の雄叫びに遮られる。
『ちッ、しぶとい野郎だな。ちょっと待ってな』
全身を震わせて手を伸ばしてくる敵の攻撃を避け、距離を取って彼を岩陰に下ろす。
『いいか、未熟な戦闘力なんてのは本物の戦場じゃ足を引っ張るだけなんだよ。覚えとけ!』
と言い放ち、全身にパワーを漲らせ怪物に飛びかかっていく。
攻撃を素早く避けながら右手の拳を握り、それを勢い良く地面に向けて叩きつ付ける。
『はああぁぁぁ───ッ!!』
地面を割り込んだ手でそのまま何かを掴み、引きずり出すように宙へ跳ぶ。
見れば、それは彼が見たものの何倍もの巨体を持つ生物だった。
『くたばれ!!』
男は頭上にかかげた手に渾身のエネルギーをこめ、生命体めがけて投げつける。
凄まじい熱球が弾け、轟音と共に青白い炎に包まれた怪物が断末魔の叫びを上げてのたうち回る。
王子は懸命に目を見開き、その様を見つめる。
暴れ回る怪物の最後の足掻きも徐々に小さくなり、やがて力尽きた巨体が地響きと共に崩れ落ちた。
ピクリとも動かなくなったそれを見下ろし、今度こそ息の根を止めたことを確認すると、男は王子の元へ降り立った。
『大丈夫か、王子』
『……これくらい、何ともない! 貴様、余計なまねを……』
『それだけ憎まれ口が叩けりゃ十分だな。ほら、傷見せてみな』
呆れたように笑い、まだ体の自由が戻らない王子に男が手を差し出す。
『余計な世話だ! 俺様に触るな!』
みっともない失態を知られ、挙げ句助けられたことへの悔しさから思わずその手を弾く。
すると男の表情が厳しくなり、王子の両肩を掴んで正面から見据え、言った。
『お前が俺をどう思おうと構わねぇがな、俺から見りゃお前はまだまだ未熟なガキなんだよ。いいか、力だけじゃ勝てねぇ相手なんてゴマンといる。実戦じゃ経験不足ほど足手まといになるものはねぇんだ。悔しけりゃもっともっと経験を積んで強くなりゃいい。だがな、甘く見た結果取り返しのつかないことになったらどうする? これはお前一人の問題じゃねえんだ』
有無を言わせぬ口調で睨まれ、その気迫に押された王子は言葉を途切れさせる。
『今は少しの傷でも甘く見るな。…それに、この状況でお前に何かあったら俺の首のほうが飛んじまうからな。ほら、見せてみろ』
返事を待たずに男は王子のマントの端を裂き、肩と脚の血を拭って止血する。
『この程度ならかすり傷だな、すぐ治るだろう。…それにしても、スカウターすら持ってこないってのは不用心に過ぎるぜ』
慣れた手つきで応急手当を施す男を、怒鳴る気も削がれた王子は改めてまじまじと見つめた。
何なんだ、こいつは?
確か今回の遠征のために組まれた護衛チームの下級戦士の中にいたことは覚えているが……他の連中とは持っている気配が違う。こいつは多分、強い。スカウターをつけていないので詳しい戦闘力値はわからないが、側近の上級戦士と比べてもひけを取らないだろう。
しかし、下級戦士とは思えない口のきき方だ。これが王の前なら処刑ものの無礼さだろうが、あまりのふてぶてしさに逆に呆れ返ったというのが正直なところだった。
『…貴様、なぜここにいる? なぜ俺様の居場所がわかった?』
ようやく落ち着いてきたからか、最初の疑問が飛び出す。ここは陣地からかなり離れているはずだ。爆発を見て駆けつけたにしても現れたタイミングが早すぎる。
『ん? あぁ、夜警の交代時間にたまたまこっそり船を抜け出す奴を見かけてな。放っといたほうがいいかと思ったが万が一何かあっちゃ困ると思って後を追ったってわけさ』
どうやら船を抜け出すところを見られていたらしいとわかり、憮然とした顔になる。
『さっきのヤツは地中に本体を隠して移動する生物だ。地上に出ている部分はダミーみたいなもんで、本体を倒さない限り何度も再生してきちまう。それに、身の危険を感じると微弱だが神経毒を含むガスを吐き出すんだ。体が痺れちまうのはそのせいだな』
先ほど倒した生物のことだろう、王子は男の説明を黙って聞いていた。
悔しいが、今回のことは自分の無知が招いた危機だ。男に助けられなければ、どうなっていたかわからない。
父王が常に言っていた「訓練と実際の戦場は違う」ということの意味を改めて実感せざるを得なかった。
『…よし、これでいい。大事に至らなくて助かったな』
そう呟いた時、男のスカウターが急に音を立てた。
顔を上げると、いくつかの反応がこちらへ向かっているのがわかる。
『まぁ、結構派手にやらかしたからな。気づいて当然か。…船の連中が何人かこっちに向かってるようだ。痺れはしばらくしたら抜けると思うが、念のため医者に診せたほうがいい』
そう言って立ち上がる男を、王子は見上げた。
鍛え上げられた逞しい体躯から滲み出る気配は、そこいらの下級戦士とは一線を画しているのがわかる。頬に走る傷跡は、今まで数多の激戦をくぐり抜けて来た証だろうということが想像できた。
『…貴様、このことは』
『──わかってるって。ガキの失敗談を酒の肴にするほど暇じゃねえよ』
『…な、馬鹿にするな!』
からかうような口調にカッとなり、思わず殴り掛かろうとしたが途端に足下がふらつき、膝が笑ってしまう。
『おっと! まだ無茶すんじゃねえよ』
傾いた体を咄嗟に支えて岩の上に座らせると、子供らしからぬ鋭さの目つきで睨んでくる王子をなだめるように頭をくしゃっと掻き回した。
『悪い悪い。誰にも言いやしねえから心配すんなって。ガキの頃の失敗なんざ誰にでもある、それを次に生かして強くなりゃいいさ』
普段は上級戦士の大人であろうと頭ごなしに何かを言われれば噛み付くのが常だったが、今この下級戦士から諭される言葉には、なぜか不快な気持ちは起こらなかった。
変な奴だ、と改めて思いながら男を見上げ、彼は問うた。
『…貴様、名前は』
『あ?』
『名前は何という』
『…あぁ』
遠くから聞こえる呼び声に、視線をそちらに向けながら、男は静かな笑みで答えた。
『バーダック』
──それがあの男との、最初の出会いだった。