「あ、いたいた。ベジータ、ちょっと待って」
とある休日のカプセルコーポレーションにて。
スポーツドリンクを片手にリビングを通りかかったベジータを、ブラの世話をしていたブルマが引き留めた。
「なんだ」
「ねえ、急で悪いんだけど、これから買い物に行かなきゃならないからちょっと付き合ってくれない?」
「……なに?」
用件を聞いた途端に不機嫌顔になるベジータに、ブルマが苦笑する。
「少し荷物が多くなりそうだから手伝って欲しいのよ。そんなに時間はかからないから、いいでしょ?」
「断る。これから重力室でトレーニングだ」
「知ってるわよ。その前にちょっとだけって言ってるの」
間髪を入れず返ってきた答えに、予想していたとはいえブルマの眉が若干つり上がる。
「別にバーゲンに行くわけじゃないんだから、日用品の買い物くらい付き合ってよ。可愛い娘を産んだばかりの奥さんを少しは大事にしてくれたっていいんじゃない?」
半目でにじり寄るブルマに気圧され、ベジータが思わず後ずさる。
「……だ、大体なんでオレなんだ。お前の母親か、トランクスがいるならあいつを連れて行けばいいだろう」
「しょうがないじゃない。ママはパパと今朝から出かけちゃってるし、トランクスにはブラをみててもらわなきゃいけないでしょ?」
ちゃんと信用できる人じゃないと任せられないし、と溜め息をついたブルマは、しかしそこで何かを思いついたように「あ、そうだ」と手をぽんと打った。
「何なら、あんたが家にいてブラの面倒みる? そしたらトランクス連れて行くけど。あたしはどっちでも構わないわよ〜?」
「……」
笑顔で提案され、ベジータがぐっと言葉に詰まる。
そう言われれば彼に選択の余地などないのは明白である。未だ生まれて間もない娘をどう扱っていいのか反応を決めかねている彼にとって、一度泣き出したら止めようがない赤ん坊と二人きりにされるなど御免被りたい状況だ。
「……行けばいいんだろう」
「ありがとベジータ、助かるわ〜」
これまた予想通りの答えにクスクス笑うブルマを軽く睨みつつ、渋々同行を了承する。
「すぐ終わるんだろうな。長居はせんぞ」
「大丈夫よ、そんなにかからないから。じゃ、15分くらいしたらお願いね」
「……ああ」
ブツブツと何事かを呟きつつ仏頂面で自室に向かう夫を見送り、「やっぱりブラには弱いのね〜」とベビーベッドの中を覗き込み、柔らかく目を細める。
「ほんとにわかりやすいパパよね〜、ブラ♪」
穏やかな眼差しですうすうと寝ている愛娘を見つめ、頬をそっとつつくと、ブルマは朗らかに笑うのだった。
「悟空さー! 悟空さ、いるだか?」
「おう、ここにいるぞー」
道着の帯を締めながら返事をすると、チチが「ちょっと来てけれー」と呼ぶ声が続いた。
「なんだ、チチ?」
台所へ顔を出すと、何やら大きな風呂敷包みと紙袋をいくつも用意していたチチと悟天が顔を上げた。
「これから悟飯たちの家に行くだ。これも一緒に持って行くから手伝ってけれ」
「でっけぇ包みだなぁ。何が入ってんだ?」
「昨日採れた野菜と、お昼の弁当だべ」
「おー、美味そうだなぁ」
重箱を覗き込みながら目を輝かせる悟空に「全く、悟空さは朝飯食ったばっかりでねえか」と苦笑する。
「今日は一緒に出かける予定だったけど、悟飯が急に予定が入っちまったって言ってたからな。悟空さ、ちょっと一緒に手伝ってけれ」
「え、オラもか?」
「少しくらい文句言うでねぇ。用が済んだら修行に行ってええから」
困ったように頭を掻く悟空に、チチが呆れつつたしなめる。
「悟飯の仕事も忙しいって聞いてるし、ビーデルもパンの世話があるからな。出来ることは手伝わねぇと。悟天、こっちも大きな袋にまとめてけれ」
「うん」
悟天が小さな包みをまとめて大きな袋に入れ、悟空に渡す。
「はい、おとうさん」
「あぁ。んじゃ……」
「ちょっと待った! もう、瞬間移動は駄目だって言ったべ!」
すぐに指を額に当てようとする悟空を、チチが慌てて止める。
「いくら息子の家だからって、仮にも人様の家だべ。いきなり押しかけるのはマナー違反だ」
「いぃ〜、じゃあこれ全部持って飛んでくのか?」
いくら並の人間より力があるとはいえ、腕は二本しかないので荷物の数が多いと気を遣う。途中で落っことしでもしたら事だ。
「おとうさん、ボクも持つよ」
「手分けすればいいべ。ほら、早くしねえと時間に遅れちまうだよ」
妻と次男に促され、「しょうがねえなぁ」とぼやきつつ三人で手分けして包みを背負って外に出る。
チチは飛べないが悟空も持物が多く抱えては行けないので、筋斗雲を呼んでチチが乗り、揃って悟飯の家へと向かう。
スピードを出しすぎては荷物を落とす恐れがあるので、緩やかに上昇しながら横並びに進む。
「今日はいい天気だなあ。ピクニックにでも行きたくなるべ」
「ほんとだね」
「そうだなぁ。あとで久しぶりに海に魚でも獲りに行くか、悟天」
「うん、行く! 大きい魚がいるといいね!」
平地の向こうに見えてきた海を見て悟天が目を輝かせる。
「ええだな、そしたら今日の晩飯は決まりだ」
悟空の誘いに悟天がはしゃぎ、チチも笑顔で頷く。和やかな会話を挟みながら、親子三人の影は抜けるような青空の中をのんびりと進んでいった。
頭上に広がる空は快晴、周りを過ぎていく風も爽やかだ。
そのまま、誰もが穏やかな一日が過ぎていくものだと思っていた。
──まだ、その時までは。
「地の果て」と称される寒々とした光景が広がる地、ユンザビット。
日中でも年中曇り空に覆われてほとんど太陽が見えず、滅多に人も寄りつかないその荒野にほど近い大地に、突然、鈍い鳴動が走った。
まばらに草が生えるのみの荒れた地面が揺れ、一部分がガラガラと崩れ落ち、ぽかりと暗い穴が開き、それが一つ、二つ、三つ……と増えていく。
次の瞬間、全ての穴から黒いガスのような気体が勢いよく吹き出し、瞬く間に周囲に広がっていく。
この地に生きる僅かな生物たちが驚き、逃げていく中で、ガスはますます激しく吹き上がり、うねりを上げ、やがて分厚い黒雲となって辺り一帯の空を覆い始めた。
濃度を増した黒い雲から時折火花が散り、冷たい空気を更に重苦しく圧迫していく。
元より曇天で薄暗かった空の明かりは更に厚い雲の壁に遮られ、薄闇が辺りを支配する。
凄まじい勢いで地上に広がっていく暗雲がこの大地をすっかり覆った後、一番大きく開いた穴の底から不気味な唸りが迸り、続けて別の何かが飛び出してきた。
ガスよりも更に澱んだ色の泥にも似た物体が噴水のように溢れ出し、まるで自らの意思を持つかの如くうねりながら絡まり合い、徐々に何らかの輪郭を形作っていく。
大地を揺るがせる不穏な震動音が続き、やがて収まっていく頃、“それ”は巨大な樹の姿へと変貌していた。
樹、と一口に言っても、それは無論、地球上に存在するような物質ではない。
全身が濁った黒鼠色に染まり、表面がボコボコと脈打つ不気味な粘質の泥で覆われているそれは、植物などではなく、地獄から現れた異形の魔物──とでも形容したほうがしっくり来るだろう。
血に飢えた獣の咆哮にも似た低い唸りを響かせ、大きく伸ばされた枝や葉の形をしたものがざわざわと蠢く。
その巨大な樹の影の中に、かすかに見え隠れする仄暗い光が風に煽られて浮かび上がり、ゆらりと小さく閃いた。
それよりも少し前の時刻。
遥か宇宙の彼方──破壊神が住まう星にて。
四角錐を逆にしたような形の城が浮かぶビルスの居城の一室で、ウイスはふと顔を上げた。
「……?」
かすかに目を眇め、ゆっくりと周りに視線を配る。
いつもと変わらない部屋の光景──だが。
かすかに──どこか、何かが──。
瞬間。
部屋の隅に、フワリと細い光が出現した。
「!」
ハッと眦(まなじり)を引き締める彼の前で、縦に伸びた光の帯の中から、ゆらりと人影が現れる。
「──さすが、相変わらず勘は鋭いな」
影は逆光になっていて見えにくかったが、体を包んでいた光が収束して消えると、ようやくその容貌が明らかになる。
「……あなたは……」
「久しぶりだな、ウイス。元気そうで何よりだ」
「……ウォーカ」
かすかに目を見開くウイスの顔を面白がるように、ウォーカは喉の奥で笑った。
「まさか生きていたとは──ってところか?」
くつくつと愉快そうに笑みを漏らし、銀色の瞳が長身の男を見据える。
「まあ、そういうことだな。それで折角だから、昔の馴染みにご挨拶に伺ったってわけだ」
「……」
突然目の前に現れた思いも寄らない人物の顔を、正面から見返すウイス。
その姿も気配も、確かに間違いなくウォーカ──あの時死んだはずの男のものだった。
「……どうしてここに? あなたたちはあの時……」
「あぁ、オレもアビットも確かにあの時死んだ──正確には『死にかけた』んだがな。色々思いがけないことがあって、ご覧の通り生き延びてる。で、今は魔界住まいさ」
「魔界?」
「そういうこと。ま、はみ出し者ってのはどこにでもいるからな。お前やビルスに恨みを持ってる奴も、少なからずいるってことじゃないか?」
男の含みのある返答に、ウイスの眉が寄せられる。
「それで、今までずっと魔界に?」
「そうだ。まあオレたちにしてみれば、魔界も故郷の星と大して変わらないから案外住みやすかったがな」
「……では、今日はなぜここに? 私に何か用でも?」
「別に、特に用はない。言っただろう、ご挨拶に来ただけさ」
「……」
真意の読めない相手の答えに、沈黙を返す。
彼らにとっては、自分は恨みを抱いても当然の相手のはず。その自分の前にわざわざ姿を現したということは──。
「ま、そう慌てるなよ。今は何もするつもりはないさ。──今はまだ、な」
「どういうことです?」
銀色の目にわずかに走った冷たい光に、引き締めた眼差しを返す。
「そう急がなくても、そのうちわかる。今日は本当に挨拶に来ただけだ。お前の驚く顔なんて珍しいものが見られたんだ、わざわざ来た価値はあったかもな」
唇の端を上げ、ウォーカがすっと片手を振ると、先程と同じ発光が宙に浮かび上がる。
「!」
「じゃあな、ウイス。いずれ近いうちに、また会おう」
言うが早いか、男の姿は光に飲み込まれて消えていく。
「……あぁ、そうそう。お前とビルスがやけに入れ込んでる奴ら、結構面白そうだったから、ついでに地球にも寄ってみることにしたよ。少しは遊べるといいな」
「……!」
光に溶け込む寸前に、どこか嘲笑を含んだ声で言い残し、男は現れた時と同じようにあっという間に掻き消えた。
何も跡を残すことなく、部屋は何事もなかったかのように静けさを取り戻す。
ウォーカが最後に吐いた台詞に目を瞬いたウイスは、すぐに愛用の杖を出現させて地球の様子を探った。
杖の先端の球体に映し出された地球は、別段いつもと変わりないように見えた──が。
「!」
ぐるりと全体を見回した時、ある一点から不自然な勢いで広がっていく黒い雲を認めて眉を寄せる。
その部分をより詳しく見ていくと、厚い黒雲の下から徐々に拡大して見えてきたものに、ウイスの表情が動いた。
「これは──まさか、魔霊樹……!」
本来地球に──いや、地上には存在するはずのない、澱んだ瘴気を放つその影の正体に、視線が知らず険しくなる。
「……まずいことになりましたね」
少しの沈黙のあと落ちた呟きは──かすかに、しかしどこか常にはない緊張を孕んで──誰もいない部屋に響き、静寂に溶けた。
暗雲垂れ込める空の下、四方に根を張った巨木の下にふわりと白い発光が現れ、ウォーカが姿を現す。
時折、ポコポコと波打つ表面に現れる窪みから、しゅうう、と薄い黒煙を吐いて大きく枝葉をなびかせる様子を見て満足そうに笑みを浮かべると、傍らに控えている小柄な影へ視線を向けた。
「思ったより早く根付いたようだな」
「はい。あとは必要な養分を集めて与えるだけでよろしいかと」
「なら問題ないな。……ところで、アビットはどうした?」
「先ほどお出かけになりました。ちょっと遊べそうな相手を探しにいくと」
「何だと? ……あの馬鹿、また勝手な行動を」
呆れた溜め息をつき、上空を仰ぎ見る。
「まあいい。先にここに『門』を作るぞ」
「はっ」
影が小さな杭に似た金属を差し出し、それを手にしたウォーカが少し樹から離れ、徐に杭を地面に突き刺した。
その途端、巨木の周りの空気がビリビリと揺れ、轟音と共に一筋の稲妻が走る。
四方八方へ飛び交った黒い火花がやがて一か所へ集まり、宙にぐるりと渦を描き出す。
細長い楕円の形をした渦の中心は闇が塗り込められたように真っ暗で、中からは得体の知れない震動音と、幾重にも重なった気味の悪い唸り声が響いてきた。
「──行け。動物だろうが人間だろうが何でも構わん、生きのいい魂を片っ端から集めてこい」
薄く笑ってウォーカが指示を下すと、空中に口を開けたその扉から、無数の黒い影が次々と飛び出し、奇声を上げて地上に散っていった。
「この星の人間に大した力はないようだから、集めるだけならあいつらでもできるだろう。この星全体が瘴気の雲で覆われるにはどれくらいかかる?」
「あと三十分もあれば可能かと」
「なら、『入れ替える』のはそのあとだな。……さて、次の作業はあいつもいないとできないから、あの馬鹿を探しに行くか」
面倒くさそうに再度溜め息をつくと、ここで樹の様子を見ておくように影に伝え、ウォーカはさっとその場から飛び立った。
北の大地から湧き上がった不吉な色は、次々とその範囲を広げ、地上の色を侵蝕していく。
陽の光を遮り、空や海を薄暗く染め、青を澱んだ黒が覆っていく。
「────?」
家族と過ごす家で。賑やかな街中で。空高く浮かぶ宮殿で。或いは他の場所で。
悟空が、ベジータが、ピッコロが──そして他にも。
歴戦の戦士たちが、音も無く、しかし確実に忍び寄る“何か”に気づいた時は既に遅く──星を覆う危機は、すぐそこまで迫っていた。