異界より迫る影 激突・黒と青の力


<3>

 ──何かが、違う。
 慎重に距離を取り、油断なく身構えながらも。
 目の前の男を鋭い視線で見据えるベジータの背筋を、得体の知れない戦慄が走った。


 それは、全く青天の霹靂としか言いようのない、突然の出来事だった。
 渋々駆り出された買い物に付き合いつつ、用が済むと長居は無用とばかりにベジータはもう少し街中を歩きたがるブルマを促して、カプセルコーポへと戻ってきた。
 買い込んだ荷物を玄関先に運んでいると、不意に庭先から響いてくる赤ん坊の泣き声を聞き留めて眉間に皺を寄せる。
 何事かとブルマが庭へ回ると、トランクスがブラを抱きながら懸命にあやしていた。
「どうしたのよ、トランクス」
「あ、ママ! 良かったぁ〜早く帰ってきて」
 ほとんど半泣きで右往左往していたトランクスは、ブルマを見るなりぱっと顔を輝かせて助けを求めた。
「さっき目を覚ましちゃってさ、ママを探して泣くんだよ〜。何やってもなかなか泣き止んでくれなくて、庭の花でも見せたら落ち着くかなと思って」
「もう、情けないわね。あんたお兄ちゃんでしょ、もう少ししっかりしなさいよ」
「無理だよ〜、ブラが泣くの止められるのママしかいないもん」
「全く、しょうがないわね」
 トランクスに抱っこされてぐずっていたブラは、母を見るなり「あー」と声を上げてブルマのほうへ両手を伸ばす。
「はいはい、どうしたの〜ブラ」
 トランクスからブラを受け取り、顔を覗き込んで優しく声をかける。ブラは不明瞭な発音で何ごとかを喋りながらブルマにしがみついた。
 現金なもので、ブルマに抱かれた途端にさっきまでの泣き顔はどこへやら、ぴたりと泣き止んできゃっきゃっとはしゃぎ声を上げている。
「やれやれ、やっぱりママはすごいや。オレじゃとても無理だよ」
 その様子を眺めて溜め息をつき、トランクスは心底感心したように頭を掻いた。
「何言ってるの、あんただって赤ちゃんの頃はこうだったのよ」
「えぇ〜?」
「当たり前じゃない。みんなそうやって大きくなっていくんだから」
 娘をあやしつつ、何かを思い出したように「あ、そういえば」と顔を上げる。
「でも、ベジータが近くにいた時は不思議と泣き止んでじっと見てることが多かったわね。ブラもそうよ、パパが傍にいるとあんまり泣かないの」
「え、そうなの?」
 意外そうに目を瞬き、トランクスが母と父を交互に見る。
 急に話を振られたベジータは言葉に詰まり、「さあな、オレは知らん」と目を横に逸らした。
「ほんとよ。きっとこんな赤ちゃんの時からでもわかるのね。すっごく強いパパだもの、近くにいてくれたら安心するわよね〜?」
 くすくす笑いながら視線を向けられ、ベジータは軽く舌打ちすると踵を返した。
「もう用は済んだだろ、オレはトレーニングに戻るぞ」
 返事を待たずに歩き出すベジータの後姿を見てトランクスとブルマが顔を見合わせ、苦笑する。
「それにしても、今日はほんとにいい天気ねー」
 柔らかな日差しが注ぐ花壇の花々を眺め、ブルマが目を細める。そこからふわりと飛んできた小さな蝶に、ブラが「あー、うー」と目を輝かせて手を伸ばす。
「ピクニック代わりに、久しぶりに外でお昼食べようか? トランクス」
「あ、うん! それと、さっきおじいちゃんとおばあちゃんから電話があって、もうすぐ戻るって言ってたよ」
「そう、じゃあ準備しなくちゃね」
 妻子のそんな会話を背に聞きながら、ベジータは自室へと足を向けた。


 自室に戻ると、ベジータは修行用の服に着替えるべくクローゼットの扉を開けた。
 少しばかり削られてしまったトレーニングの時間をどう活用しようかと考えながら、アンダースーツを手に取った時。
 不意に足元が陰ったのに気づき、何とはなしに顔を上げて窓の方を見上げる。
「……!?」
 すると、ベランダの外へ向けた視界に、瞬く間に真っ黒な雲に覆われていく空が映り、彼は眉をひそめた。
 ついさっきまで明るい日差しが降り注いでいた青い空はどんどん遠くに追いやられ、後から湧き出る暗雲が押し寄せる波のように上空に広がっていく。
 時折小さな閃光を散らしながら垂れ込める黒い雲に覆われ、辺り一帯にはどこか重苦しい空気すら漂い始めた。
 ──妙だ。
 ベランダからその様子を見上げていたベジータの視線が、訝しげに細められる。
 天気が急に変わること自体は別段珍しくもない。だが、自然現象にしては、あの黒雲の動きが速すぎる。
 大して強い風が吹いていたわけでもないし、スコールが来る前触れのような現象も一切なかった。
 何より──その色が異様なのだ。ただの雨雲とは思えない、まるで濁った泥を塗り込めたような不気味な暗雲。
 その証拠に、辺りは急に薄闇に覆われ、昼間とは思えない暗さになっている。神龍が出現する時のような空とも違う、どこか圧迫感すら漂う重い空気。
 彼の直感が、これは普通の自然現象ではない、と告げていた。更に、その気配にどこか覚えがあることに気付く。
(これは……)
 先ほど街中にいた時に一瞬感じた、昏く澱んだ気と似ている──?
 しかし横からその思考に割り込むように、新たな物体が視界を掠めた。
「!?」
 目を眇めると、無数の黒い影がバラバラとあちこちから集まってきてはひとかたまりになって暗い空を横切り、耳障りな金切り声を上げて飛び去っていくのが見える。
 鳥ではないのはすぐにわかった。蝙蝠のようにも見えるが、それにしては大きい気がする。
 どちらにせよ、こんな急に、街中に野生生物が集団で現れるはずがない。明らかに異様な光景だった。
 確かめる必要があるな、とベランダの柵に手をかけ、飛び去っていく黒い影の一団を追おうとした時だった。
「──きゃぁぁぁ!!」
「!!」
 階下から、突然甲高い悲鳴──ブルマの叫び声が聞こえた瞬間、彼はハッと目を見開き、振り返ると即座に声のした中庭の方へ飛び出していった。


「ブルマ! どこだ!?」
 広い敷地内を見回し、ベジータは声が聞こえたと思しき庭へ降り立つと、辺りを何度も見回しながらブルマの気を探った。
「──ママ、ブラ! どうしたの!?」
 すると、パラソルやベンチが常設された見晴らしのいい芝生の広場から、もう一つの声が焦ったように響いてきた。
「!!」
 トランクスの声がした方へ即座に駆けつけると、そこにあったのは──ひっくり返されたベビーカーと、地面に倒れ伏している妻と幼い娘の姿だった。
 その光景を目の当りにした瞬間、ベジータの表情がさっと変わる。
「トランクス!」
「あ、パパ!」
 二人の側にしゃがみこみ、「何があった!?」と息子に問う。
「わ、わかんないよ! 急にブラの泣き声とママの悲鳴が聞こえたから、急いで来てみたら、二人とも倒れてて……!」
「ブルマ、おい! どうした!?」
 動揺する息子を制し、妻を助け起こして名を呼ぶ。だが、揺すっても呼びかけても、彼女は力なく目を閉じているだけで反応はなかった。
「ブラ! いったいどうしたんだよ!?」
 トランクスもすぐ隣に同じように倒れていた妹を抱き起こす。一瞬ためらったが、それでも反応を見ようと名を呼び、揺すりかける。が、そちらも同じようだった。
 元々白い肌がどこか青ざめて見え、心臓がごとりと嫌な音を立てる。
「……トランクス、順を追って話せ。さっきオレとブルマが帰ってきてから、何があった?」
 息子同様に動転しかけていた自分に気づき、小さく舌打ちして一つ息をつくと、ベジータは声音を落として再度問いかけた。
「え……と、何が…って言っても、ブラをママに預けてから、玄関の荷物を運んで……そのあとおばあちゃんたちが帰ってきて呼んでたから、そっちの手伝いに行ったんだ。その間に、お昼食べる場所を外に用意するからって、ママはブラと一緒に庭に出てた。そしたら、急に声が聞こえてきて……」
「……」
「どうしよう、パパ。ママもブラも、何があったんだろう」
「──大丈夫だ、落ち着け」
 つっかえながら説明するトランクスの話から、彼も何も見ていないようだと察すると、ベジータは見るからに普通の状態ではない母と妹を案じて動揺する息子を静かに諭した。
「かなり弱いが、脈もあるし、気も感じる。ということは、生きている。二人ともだ」
「……あ」
 父に言われて、妹の様子を改めて確認したトランクスは、ぱっと顔を輝かせた。
 ベジータも自身でそれを確かめ、強張っていた肩からわずかながら力が抜け、同時にどっと冷たい汗が吹き出る。
 だが、安堵したのも束の間、いくら名を呼んでも揺さぶっても、彼女たちは一向に目を覚まさなかった。
 外傷はない。どこかを打ち付けたような跡もなく、身体的には何も問題はないように見える。が、まるで深く眠ってでもいるかのように、全く反応を示さないのだ。ブルマだけでなく、物音に聡いはずの赤ん坊のブラでさえも。
 それがただ事でないのは明白で、トランクスも不安と当惑の表情を隠せない。
 ──どういうことだ。
 一旦収まった心臓の鼓動が、再び嫌な音を立て始める。
 先ほど聞こえたブルマの悲鳴、その直後にただならぬ様子で倒れていた二人の状態からして、何かがあったのは間違いない。
 一体、何が──?
 突然空を覆った暗雲、先程飛び去っていった異様な黒い影。不可解な現象と同時に起きた異変。それらと何か関係があるのか。
 しかし目の前の現状からは何も確実なことはわからず、困惑と焦燥に駆られて歯噛みするベジータの背後から。

「みーつけた♪」

 突然、この状況には全く不釣り合いな陽気な声が、重苦しい空気を割って響いた。


「!!?」
 突如割り込んできた声に、ベジータとトランクスが弾かれたように顔を上げて振り向く。
 すると、程近い場所に立つ屋外灯の上に座っている、見知らぬ人影が目に留まる。
「……誰だ!!」
 一気に表情を険しくし、ベジータは声の主と思われる人影を睨みつけた。周囲に他の気配がないか注意深く探りながら、語気鋭く問いをぶつける。
 人影はひらりと外灯から降り、音も無く地面に降り立つ。
 ブルマをそっと横たえると、ベジータは腰を浮かせるトランクスを制しながら立ち上がって身構えた。
 男が現れた外灯は、彼らがいる場所から数メートル程度しか離れていない。──これほど近づかれるまで、気配に気づかなかった。その事実が、知らず握った手の内にじわりと汗を滲ませる。いくらブルマたちのことに気を取られていたとはいえ、普段の彼ならば考えられない失態だ。
 逆に言えば、それだけでそこにいる男が只者ではないということがうかがえる。
 相手はどこかの民族衣装のような格好で、奇妙な髪の色に、金色の目をしている。外見だけなら特に奇異な点はないが、地球人でないことは確かだった。
 何より。
(……気を……感じない……!?)
 少しでも男が何者かを推し量ろうと気を探っていたベジータの表情がわずかに動く。
 意識して気配を消しているわけでもなさそうなのに、目の前にいる男からは気がほとんど感じられないのだ。
 ……いや。感じないというより、これは──。
 明らかに常人とは違う雰囲気、ますます深まる不可解な印象に、知らず汗がじわりと滲む。
「やっと一人見つけたなぁ。地球って案外広いんだな、最初から使い魔で探せばよかったぜ」
 一方、当の相手は彼の問いには答えず、相変わらず能天気な口調で何ごとかを呟いている。
「──もう一度訊くぞ。きさま、何者だ」
 場にそぐわない軽い調子の正体不明人物に苛立ちを覚え、ベジータは再度質問を繰り返した。
 妻子を背後に庇いながら、今度は殺気を交えた視線を投げつける。
「まあまあ、そう急がなくても……気の短い奴だなぁ。オレか? 別に名乗るほどでもないが、アビットってんだ。しがない元破壊神候補ってところさ、よろしくな」
「……な、に……!?」
 男が何気なく返してきた台詞は、確かに彼の耳を通り抜けたが、一瞬その意味が理解できずに思考が止まる。
 刹那の間を置いて、ベジータの両目が驚愕に見開かれた。
 今、こいつは何と言った? 破壊神……候補、だと?
 その単語に、否応なしにあの破壊神と付き人の二人の顔が過る。
 唖然とする彼の様子を面白がるように、アビットはニッと笑った。
「まあ、そんなどうでもいい事情はさて置きだ。お前、サイヤ人だろ。ちょっとオレに付き合ってくれねぇ?」
「なに?」
「お前、強いんだろ? ならオレの相手になってくれよ。久々に娑婆に出てきてウズウズしてんだ」
 金色の目に、いかにも楽しげな色を浮かべて──その奥に、どこか底の見えない光を漂わせ──男が言う。
 表面だけを捉えるなら、修行にでも誘っているかのような軽い調子の台詞。しかしそこに含まれる意図がその言葉通りでないことは明白だ。
「トランクス、その二人を早く家の中へ避難させろ」
 眼前の男から目は離さずに、ベジータは後ろのトランクスに毅然とした口調で命じた。
「え……で、でも……あいつ、誰?」
「さあな。だがどうやら奴はオレに用があるらしい。ここはいいから、急げ」
「でも……パパは?」
「オレなら心配いらん。早く連れて行け、巻き添えを食うぞ!」
 不安げに見上げる息子に一喝し、二人を連れて早くここから離れるよう促す。
「う……うん。わかった」
 ためらいながらもブルマを背負い、ブラを抱いてベジータを振り返る。
「頼んだぞ、そいつらから目を離すな」
「うん。パパ、気をつけて!」
 得体の知れない男と対峙する父の身を案じつつも、今は自分の役目を優先し、トランクスはカプセルコーポの建物へ向かって飛んでいった。
「……ひとつ訊くが、きさま、あの二人に何かしたのか」
 トランクスが確実にこの場から離れていくのを確認しながら、意識は目の前の男に集中する。
「あの二人? ……あぁ、あの女と赤ん坊か? いや、オレじゃなくて使い魔の連中だな」
「使い魔……? さっき空を飛んでいったあの黒い蝙蝠みたいな奴らか?」
「そ」
「……ということは、この妙な雲もやはり普通の物質じゃないな。それもきさまらの仕業か?」
「まぁな。厳密に言えばオレじゃねぇけど、似たようなもんだ」
「成る程……色々と原因を知ってるようだ。なら、それを詳しく聞かせて欲しいところだな」
「いいぜ? オレの相手してくれたら教えてやるよ」
 ニヤリと笑みを浮かべ、アビットは首を左右に曲げながらトントンと足を踏み鳴らした。
 ベジータは表情を引き締め、ぐっと腰を落とすと気を一気に高めた。
「──はぁっ!!」
 短い気合いと共に発光が迸り、金色のオーラが弾けてユラユラと渦巻く。
 黒から金色の髪、翠の瞳へと変化した姿に、アビットが目を瞬く。
「へぇー、そういう姿にもなれるのか。ほんとサイヤ人て面白そうだな」
 超サイヤ人へと変身した姿にもさして動じる様子もなく、むしろ感嘆しているかのような表情を見せる。
 そんな相手に鋭い視線を向けながら、ベジータは先程男が口にした言葉を頭の中で反芻し、ぐっと心中を引き締めて小さく息をつくと、無言で構えを取った。

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