「それじゃ父さん、留守の間はお願いね」
「ああ、わかっとるよ。心配せんでゆっくりしといで」
「いってらっしゃい、ブルマさん。楽しい旅になるといいわね」
両親の微笑ましげな言葉に、ブルマは少しだけ複雑な笑みを返し、「行ってくるわ」と告げてジェットフライヤーに乗り込んだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん、いってきまーっす!」
「いってらっしゃーい、トラちゃーん」
後部座席の窓から身を乗り出したトランクスが祖父母に向かって無邪気に手を振る中、機体はゆっくりとカプセルコーポの庭から浮かび上がり、上空で旋回したあと、エンジン音を響かせて西の都を飛び立った。
「このまま真っすぐでいいの?」
「ああ。もう少し先に行ったら、岩山に囲まれた二つの湖が見える場所がある。そこからまた南西に向きを変えればいい」
「わかったわ」
ブルマはベジータが示した大まかな説明を頼りに、操縦桿を握った。
「ねえねえパパ、これからどこ行くの?」
「……着けばわかる。もう少し我慢してろ」
後部席から楽しみでしょうがないと満面に書かれた顔で口を挟むトランクスに、ベジータは呆れ混じりに苦笑を零した。
トランクスは少々不服そうにしながらも「はーい」とおとなしく引っ込む。
そんな二人の会話に目を細めつつ、ブルマは「それじゃあ、飛ばすわよー」とエンジン出力をスロットル全開にした。
そうして一時間ほど経った頃。
大陸を離れ、眼下に広がる海原の上空を真っすぐに進んでいたブルマは、メインコンソールに映る地図と、次第に雲が多くなり始めた周りの空を見て、ふと目を瞬いた。
「ねえ、まだ先なの?」
助手席で窓の外を黙って眺めていた夫に尋ねる。
「ああ、もう少し先だ。このまま真っすぐ進めばいい」
事も無げに返ってきた台詞に、彼女は少し眉を寄せた。
「……でも、この先は確か、大気がひどく不安定なことで有名な場所よ? 気流の嵐も起きやすくて危険だから、飛行機も船も滅多に通らないって聞くわ」
「──ああ。なるほどな。どうりでいつも空が荒れてるわけだ」
さも納得したといった口調で返ってきた言葉に、ブルマが再度怪訝そうに目を瞬く。
「いつも……って、あんた、そんなにこの辺通ったことあるの?」
「まあな。……とにかく、進めるところまで進め。その後はオレが指示する」
そこで言葉を切ってしまったベジータの考えが読めなくて、ブルマは少し迷ったが、彼がそう言うなら仕方がないので、ひとまず言われた通りに機体を飛ばした。
後ろでは待ちくたびれたのか、トランクスがうつらうつらと船を漕いでいる。もっとも、昨夜は興奮のあまりほとんど眠れなかったようなので、そのせいもあるのだろう。
そうしてまた少し先へ進んだ頃には、周りの空はますます重苦しい色を増し、上空を吹き荒れる風は強くなる一方だった。機体も吹き付ける突風に揺られ、その抵抗もあってなかなか先へ進めない。
「ねえ、まだなの? もうこれ以上──」
だが、そこまで言いかけた時、突然辺りを雷光が走り、響き渡った稲妻の轟音と余波がジェットフライヤーを襲った。
「きゃあ!」
驚いたブルマが思わずブレーキを踏み、急停止の衝撃が更に上乗せされる。
「うわっ!」
その勢いで前座席のシートにぶつかったトランクスの声が後ろから上がる。
「いっててて……なんだよママ、急に〜。乱暴だなー」
頭をさすって抗議の声を零したトランクスが、「もう着いたの?」と窓の外を覗き込んで思わず目をぱちぱちさせる。
「チッ。機械じゃここまでが限界か」
ベジータは小さく舌打ちすると、シートから立ち上がり、そのままハッチに手をかけた。
「ちょ、ちょっと! どうするの?」
「パパ?」
それを見咎めたブルマが表情を変え、トランクスは状況が飲み込めずに首を傾げる。
「いいから、ここで待機してろ。──オレがここ一帯の雲を吹き飛ばして道を作るから、その隙に進め。オレが合図したら、真っすぐに後ろからついてこい。いいな」
「ええ? ちょっと待っ……きゃあ!」
返事を待たずにベジータはハッチを開け、外に出て行った。その拍子に強い風が吹き込み、思わずブルマの悲鳴が上がる。
すぐにハッチは閉められたが、ブルマとトランクスはベジータが何をしようとしているのかさっぱり予想がつかず、困惑顔になる。
「パパ、どうしたの?」
「……わからないわ。でも、何か考えがあるみたい」
後ろから怪訝そうな顔で覗き込むトランクスに、ブルマも説明のしようがなく、そう答えるしかない。
そうしている間に、機体から少し離れたところで静止したベジータは、ひとつ大きく息を吐くと、精神を集中させ、徐々に気を高め始めた。
「──はぁっ!!」
彼の身体の周りに淡い光が立ち昇ったかと思うと、短い気合いと共に彼が放った気の波動が、瞬く間に辺りに立ち込めていた雲を吹き飛ばしていく。
「きゃ……!」
「うわっ!」
突然弾けた光と衝撃に機内の二人は首を竦めるが、ブルマは細めた視界の先でベジータが「こっちだ」と合図を送ってきたのを見て、ためらいながらもエンジンを発進させた。
機体はまだ少し不安定そうに揺れたが、彼の作った空中の道はそれほどの抵抗もなく進むことができた。前を飛んでいくベジータの姿を見失わないよう、真っすぐについていく。
そうして雲の狭間を進んで間もなくすると、不意に薄暗かった視界に眩しい光が飛び込んできた。
「!」
咄嗟に目を細めた二人は、しかし目の前に現れた光景を認めた瞬間、息を飲んだ。
「うわぁ……!」
トランクスが思わず感嘆の声を上げる。
そこに広がっていたのは、先ほどまでの荒れようが嘘のような真っ青な空と、陽光を反射して輝く澄み渡った海だった。
突然対面した思いも寄らない景色に目を惹きつけられていたブルマは、ベジータが再度合図を送ってきたことではっと我に返り、慌てて操縦桿を握り直す。
彼の姿を目で追いながら、彼が目指しているとおぼしきひとつの島に向かって、彼女もゆっくりと機体を降下させていった。
突き抜けるような青空。眩しい陽光に煌めく海岸と湖面。遠くで響く涼しげな滝の流れ。露を受けて瑞々しさを放つ豊かな緑。どこかで時折洩れ聞こえる鳥のさえずり。肌に心地良い涼やかな風。
有数のリゾート地ですら滅多にお目にかかれないような雄大な自然の佇まいが、今まさに彼女たちの眼前に広がっていた。
「うわぁ……」
「きれい──」
少し開けた草原に着陸させたジェットフライヤーから降りたブルマとトランクスは、しばしその光景に言葉を奪われる。
「──オレが調べた限りでは、人間が住んでいる気配はない。それほど複雑な地形でもないし、危険な生物の心配もほとんどない場所だ。ここなら、しばらく滞在しても問題ないだろう」
先に降りて辺りの様子を確認していたらしいベジータが、いつの間にか彼女たちの後ろに戻ってきて呟いた。
「誰も……? ……信じられない、こんな場所が誰の目にも触れずに残ってるなんて」
独り言のように洩らすブルマ。
それはおそらく、この辺りに吹き荒れる、あの気流の嵐のせいだろう。この海域一帯を包む雷雲や激しい気流のうねりは、ほぼ一年を通して晴れることがないと聞く。それがおのずと人を寄せ付けない自然のカーテンの役目を果たし、この島を誰にも知らさせないまま残す結果となったのだ。
確かに、あの嵐をものともせず抜けることができるのは、彼やトランクスを始めとする、彼女の仲間たち以外はまずいるまい。
「すごいや……じゃあ、もしかして他にここを知ってる人は誰もいないの?」
興奮気味に自分を見上げて尋ねてくる息子に、ベジータは「ああ」と頷いて柔らかな視線を向けた。
「今までもここを知っているのはおそらくオレだけだった。……そして、他にこの場所へ連れてきたのは、おまえたちが初めてだ」
その答えに、たちまちトランクスの目が嬉しそうに輝く。
「じゃあ、オレたちだけの秘密の場所なんだね! パパとママと、オレだけの!」
「……そうだな」
「うわぁ、すごいや! ありがとう、パパ!」
秘密の場所。それが子供にとってどれだけ魅力的な響きを持つものか、ブルマにもよくわかる。トランクスがはしゃぐのも無理はない。
かつて自分が経験してきた旅の記憶を思い起こしながら、そのどれとも違う目の前の景色を眩しそうに見つめる。
誰も知らない、名もなき美しい島。それはまさに、人が足を踏み入れることのない嵐の中にひっそりと残された、小さな楽園だった。