「ねえねえパパ、ママ、早く! こっちこっち!」
「はいはい、そんなに慌てないの。別に何か逃げるわけじゃないんだから」
先を行っては後ろを振り返ってしきりに手招きする息子に、ブルマが困ったように笑う。
都会暮らしのトランクスにとっては、このような広く深い自然に触れる機会は滅多にない。彼にとっては、目に映るものすべてが新鮮で、興味をかき立てて止まないのだろう。
この島に到着してから、簡易カプセルハウスで着替えたトランクスが早速湖に飛び込み、そこに生息する妙に人懐こい魚や水竜たちと歓声を上げながら戯れるのを、ブルマは微笑ましげに見つめ、ベジータもその後ろで黙って見守っていた。
午前中はその湖のほとりで時間を過ごし、昼食を取ったあと、彼らはトランクスの希望で島の西側を覆う森の散策へと足を運んだ。
太陽は南中を過ぎ、やや西に傾き始めていたが、辺りは柔らかな陽射しが注ぎ、時折緩やかな風が吹いては木々の枝葉を揺らしていた。
「……あ、ねえママ! 見て、あの鳥! すっごいきれいだよ!」
木洩れ日に目を細めたトランクスがふと立ち止まり、ひと際大きな木の枝を見上げて指差す。
その先には、陽光を反射して透き通る、不思議な蒼い色の羽を持った鳥がいた。
息子の声に目を上げ、その鳥を認めたブルマの表情に、しばしの沈黙のあと、驚きの色がよぎった。
「……うそ……あれって、フタオビルリアオバじゃないの?」
「え?」
トランクスが怪訝そうにブルマを見る。
「……間違いないわ、前に図鑑で見たことあるもの。確か、もうずいぶん前に絶滅したはずの、幻の鳥って言われてる種類よ。そのきれいな色と、特殊な保温効果を持つ羽がかなり貴重とされてね。乱獲されたために激減して、今はもうどこにもいないはずだわ」
母の説明にトランクスも驚いた顔で上を見上げた。
なだらかな蒼のグラデーションで彩ったような美しい羽をまとった鳥は、陽光に照らされながら、餌でも探しているのか、枝から枝へとのんびり飛び移っている。
「あの鳥なら、この森じゃ別に珍しくもないぞ。まあ、確かにここ以外で見たことはなかったがな」
彼らの一歩後ろに立っていたベジータが呟く。
「じゃあ、今はもうここにしかいない鳥なんだ。生きてるのを見られるのはオレたちだけなんだね!」
「そうね……きっと、人間が入ってこられない島だからこそ、生き残っていたのかもしれないわ」
今はもういないはずの、“幻の鳥”を目の当たりにしたトランクスは、宝物を見つけたように目を輝かせてその鳥を眺めていた。
その傍らで、ブルマがふと思案顔を覗かせる。
ここへ来てから、ベジータは彼女たちに請われるまま、島の中の環境を語って聞かせていた。
よほど長い時間を過ごさなければ気づかないであろう細かい知識も持っている様子から、彼がずいぶん前からこの島を知っていて、何度もここを訪れていたのであろうことがうかがえる。
きっと、少し長く家を空けたりする時は、こういうところへ来ていたのだろうと思い至る。
人もいない、身に迫る危険もないここなら、休息を取るには最適の場所だ。
今まで彼しか知らなかった、静かで穏やかな島。多分、彼が落ち着きを覚えることのできる、数少ない場所。
それを自分たちだけに教えることの意味。
彼の胸には今、どんな思いが去来しているのだろう。
嬉しそうに木洩れ日を仰ぐトランクスの顔が、ブルマの瞳に、少しだけ、滲んで見えた。
「もう寝たのか?」
「ええ。もうぐっすりみたい。今日一日あれだけはしゃいだんだもの、無理もないわね」
「……そうか」
後ろを振り返り、息子の和やかな寝顔をもう一度見つめると、ブルマは静かにドアを閉じた。
「よっぽど嬉しかったのね。トランクスのあんなに楽しそうな顔、久しぶりに見たもの」
その言葉に、窓際によりかかっていたベジータは「単純なもんだな」と素っ気ない呟きを洩らしつつも、表情には小さく笑みを浮かべ、窓の外へ視線を向けた。
静かな夜の帳が降りる中、月明かりもない辺りの様子は殆どわからないが、時折吹く風に煽られ、程近くに咲いている白い花の群れが揺れている様子がうっすらと見て取れた。
「──調子はどう? 大丈夫?」
「……ああ。何ともない」
「そう。……でも、もう、いきなりあんな無茶、しないでよ」
この島へ来る時、彼が島の周りの嵐を吹き飛ばすために強い力を使ったことがずっと気になっていた彼女は、夫の傍に寄り添い、小さく呟いた。
「──あの程度、どうということはない。気にするな。……それより、おまえも今日は早めに寝ておけ。明日の朝は、少し早いからな」
「え? 明日の朝って……何かあるの?」
「……ああ。そのうちわかる。だから疲れを残さないようにしておけ」
それ以上は何も言わないベジータに、ブルマは怪訝そうな目を向けるが、彼が意味もなく何かを言うことはまずない。彼女は少し考えた後、「わかったわ」と頷いた。
「でも、あんたももう休んだほうがいいわ。疲れたでしょ? 無理しないで」
その言葉に彼は何か言いたげな視線を向けたが、妻の気遣わしげな瞳を見て押し黙り、小さく息をつくと窓際から腰を上げ、彼女の肩を叩いて促し、先にトランクスが寝ている部屋へと足を向けた。
静かにドアの閉じる音が響いた後、カプセルハウスの中は外と同じように静寂が降り──少しして、窓から洩れていた明かりが消えた。
──翌日、早朝。
うっすらと東の空が白み始める暁の頃。
ひんやりと少し肌寒いくらいの空気と、辺りを薄く包む淡い朝もやの漂う中、音もなく宙に浮かんだ影が、緩やかに草原を横切って動いていた。
「ねえ、どこまで行くの?」
「もう少し……この森の先にある、岩山の近くだ」
「そこに、何があるの?」
「……着けばわかる」
相変わらず多くを説明しようとしない夫の無愛想な返事に少し苦笑いを零しつつ、ブルマは彼の肩を掴んだ手をきゅっと握りしめた。
島の動植物も半分が眠りの中かという早朝、まだぐっすりと夢の中にいるトランクスを残し、ベジータはブルマを連れてカプセルハウスを出た。
「少し付き合え」としか言わない夫の真意はわからないが、彼が何かを自分から口にする時は、そこには必ず意味がある。ブルマは少し首を傾げながらも、黙って彼の後を追った。
ベジータが向かう先はどうやら歩いては行けない場所らしく、彼はブルマを抱きかかえ、緩やかな速度で森を抜け、平原を越えて島の東側に位置する岩山の方へと飛んでいった。
彼がこんな風に自分を抱いて飛ぶことは滅多にない。いつもならたとえ頼んだとしても、まず渋面で文句が返ってくるであろう行動を、今はごく自然に、当たり前のようにしてくれている。
そのことを思うと、ブルマの胸は鈍く痛んだ。
肩を掴む手につい力がこもったのがわかったのか、彼は「寒いか?」と彼女に聞いた。
「……ううん。大丈夫よ」
そして、いつもなら見逃してしまいそうなくらいわかりにくい気遣いを、今は隠そうともせず彼が向けてくれることが、彼女には嬉しくもあり、切なくもあった。
そうしているうち、しばらくの平行移動の後にベジータは上昇を始め、岩山から流れ落ちる滝の近くまで来て止まった。
「──ここだ」
「……ここ?」
滝が勢いよく流れ落ちる水音が響き、周りに飛び散る飛沫が作り出す水煙の帯が、淡いレースのカーテンのような趣きを思わせる場所を見下ろし、彼女は目を瞬いた。
「……もうそろそろだな」
「え?」
夫の声に、彼女が怪訝そうな目を向けた時。
次第に明るさを増してきた東の空から、不意に眩しい光の筋が差し込み、ブルマは目を細めた。
瞬間、
「……わ、ぁ……」
思わず、そこで目にした光景に言葉を失う。
この島でその日最初の産声を上げた朝陽が、澄んだ水の流れを真っすぐに照らし出す。そして水面で反射した光が舞い散る飛沫に次々と届いてはまた跳ね返り、届いては跳ね返り──水煙のカーテンに光の帯の連鎖を作り出す。
無数の光は無色透明から水晶の輝きを思わせる虹色まで、数多の色彩を放っては消え、煌めいてはまた舞い散り……自然の色が織り成す美しい彩りで空を染め上げていた。
そして次に、不意に鳥の鳴き声が滝の音に混じって響いてきた。
「!」
はっとブルマが顔を上げると、そこに次々と現れたのは、朝陽を受けて煌めく、蒼い色をまとった翼。
フタオビルリアオバの群れだった。
瑠璃色の羽を閃かせ、今はもういないはずの“幻の”鳥たちは悠々と空を舞い、仲間の姿を確認するようにさえずり合う。
それは朝陽の誕生を祝うかのように軽やかで、澄んだ音色を持って夜明けの空に響いていた。
鮮やかで幻想的な、無数の色彩が幾重にも重なるようにして作り出す光景は、まるでこの世のものではない景色を見ているかのような感覚すら覚えさせた。
「……いつか、この場所を──おまえに見せたいと思っていた」
目の前の光と彩りの共演に言葉を忘れていたブルマは、小さく洩れたその呟きに、はっと我に返る。
思わず見上げた夫の眼差しは、何の曇りもなく、静かで──ただ真っすぐに、その景色を見つめていた。
かつての彼なら、多分歯牙にもかけなかっただろう光景。
そこにあるのは、何気ない、だけどかけがえのない、穏やかな、生命の息吹。
彼はそれを自分に見せたかったと言った。この小さな島での、幻にも似た美しい奇跡を。
およそ彼には似合わない、けれど、今この時だからこそ、きっと誰よりも彼らしい言葉。
「……今までこんな素敵な場所、独り占めしてたの? ずるいわよ。もっと早く……教えてくれればよかったのに」
彼の胸にしがみつく手が、知らずぎゅっと握りしめられる。
本当に。もっと早く。もっともっと、笑顔でいられる時に。一緒に見ていたかった。彼と、二人で。
ベジータは何も言わず、ただ、少しだけ、彼女を抱きかかえた腕に力をこめる。
喉元にこみ上げた痛みをぐっと飲み込み、その光を見つめ続けるブルマの頬を、一筋の水滴が伝い……蒼い光を映して揺れ、音も無く霞の中に溶けていった。