窓から差し込む光は柔らかく、部屋の中を明るく満たす。
悟空が案内された奥の部屋は、横長に張られたガラス窓から外の庭園の様子が一通り見渡せる、眺めのいい場所だった。
しかし、そんな雰囲気とは裏腹に、部屋の中に佇む二人の表情は浮かないものだった。
「……なあ、話ってなんだ?」
差し出されたお茶を少しすすり、悟空が顔を上げて尋ねる。
ブルマはしばらく黙って窓の外を眺めていたが、徐に悟空に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「孫くんなら、多分──気づいてたんじゃない? 最近、わたしたちの……特に、ベジータの様子がおかしかったこと」
「え?」
急に図星を突かれ、思わず返事に困る。
「……いや、うん、まあ……ほら、最近あいつ外であんまり修行してなかったしさ。何か変わったことでもあったんかな、とは思ってたけど」
「──そう。やっぱり、わかるわよね……孫くんなら」
「あ、いや……」
しどろもどろな、それでも彼らしい正直な答えに少し笑い、それでもやはり何かしら気づいていたのだと納得しながら、ブルマはもう一度窓の外に視線を向け、言った。
「──あいつね。あと、二ヶ月くらいの命だろうって……言われてるの」
「……え……?」
一瞬、ぽかんと呆けたような顔になる悟空。ブルマの言葉は確かに彼の耳を通り抜けたが、しばらくその意味が理解できなかった。
「二ヶ月……って? 一体、何のこと、なんだ?」
信じられない、という表情で目を見開く彼の反応が、まるであの時の自分を見ているようで、ブルマは苦笑した。
「わたしも、最初は信じられなかった……ううん、信じたくなかった。……でも、本当なの。あいつ自身も知ってるわ」
「ちょっ……と待ってくれよ、ブルマ。一体なんで……どうして、ベジータが?」
それでもまだ信じ難いといった顔で呆然とする悟空に、彼女は少しためらったあと、答えた。
「ウイルス性の……心臓病なんだって、言ってたわ」
「え……」
聞き覚えのあるその単語に、悟空の顔色が変わる。
「心臓病って……それって、まさか……」
「──そう。多分、孫くんが昔かかったのと……同じ病気よ」
まさか、としか思えない事実を告げられ、悟空はただ言葉を失うしかなかった。
かつて自分が患った、不治と言われた病。それが、なぜ。
だが、その疑問は言葉にならずに飲み込まれる。
自分がかかった病気なら、彼とてその可能性がないわけではないのだ。──彼も自分と同じ、生粋のサイヤ人なのだから。
だが。
「な……治んねえのか? あと二ヶ月って……本当に、そうなのか?」
だってオラは──そう言いかけて、はっと口をつぐむ。
あの時自分が助かったのは、この時代の医学の力ではなく、別の未来からもたらされた薬のおかげだったことを思い出したのだ。
悟空の考えを察し、ブルマは小さく首を振り、寂しげに笑った。
「だめなの。……確かに今は、あの時よりは医学も進んでるけど……まだその病気に対しての治療薬は開発段階で、完全に治すことはできないんだって」
「……そんな……」
ベジータが、あと、たった二ヶ月の命──?
頭の中で何度その事実を反芻しても、まったく現実感が沸かなかった。
そんな事実を知らされるなんて、思いもしなかった。何かあったとしても、もっと些細なことだろうと、勝手に思っていた。それが、まさか。
──けれど、考えてみれば、ここ二ヶ月ほどの間、修行中にベジータと会うことが一度もなかったし、彼が外で修行をしている時の気を感じることも、ほとんどなくなっていたのは確かだ。
それまでは、修行先で鉢合わせして組み手を交わすことも珍しくはなかったというのに。
最初は、単に重力室でのトレーニングに重点を置いているのだろうと思っていた。
だが、それは、彼が既に無理の利かない身体になっていたから──だと、したら。
それに、この間のトランクスの誕生パーティーの時に垣間見た、彼の表情。
今まで感じたことのないような柔らかな気と、ブルマやトランクスを見つめていた時の、穏やかな彼の眼差し。
そして、記念写真を撮る際に──初めて他人の前で見せただろう、父親らしい仕草。
あれは、既にあの時、自分に残された時間を知っていたから──?
少しずつ感じていた様々な予感が、否応なしにブルマの告げた言葉に真実味を帯びさせていく。
同時に、それが本当のことだとすれば。ブルマが自宅を訪ねてきた時に呟いていたという言葉の意味、そして、瞬間移動で来ることをやめてほしいと真剣に頼んでいた理由。それらがすべて、一つに繋がる。
瞬間移動でブルマの家を訪ねる時は、いつも探しやすいベジータの気を頼りに行くことが多かった。もし、今の状況で自分がそんなことをすれば、尚のこと心中穏やかでいられるはずがない。
だから、ベジータの気持ちを荒立てたくないという、彼女の懸命な気遣いの表れだったのだろう。
「治らない病気だって知っても、誰にも言うなって……病気の進行を遅らせたとしても、少しでも無理をすれば、身体への負担は大きいはずだわ。……なのに、わたしたちの前では何一つ変わった素振りも見せないで。ほんと、どこまでも意地っ張りなんだから……あいつ」
震える声音でぽつりぽつりと呟くブルマの横顔を、悟空は黙って見返すしかなかった。
それが事実なのだと、突きつけられても。頭の中でようやく理解はできても。
感情がうまくついていかなかった。まだ心のどこかで、あいつに限って……という気持ちが離れないのだ。
「……でもね」
沈黙の後に口を開いたブルマの呟きは、ともすれば聞き逃しそうなほど細かったが、顔を上げた悟空の目に映った彼女の表情は、さっきまでとは違っていた。
「でも、わたしはまだ諦めてないの。このまま、何もしないでいることなんて、できないわ。──だから、お願い、孫くん。力を貸して」
「……え? お、オラが、か?」
真摯な瞳に見上げられ、戸惑いつつ聞き返す悟空に、ブルマが頷く。
「……あ、ああ。オラにできることなら……。でも……」
「ううん。孫くんでなきゃだめなの。……孫くんも前、同じ病気にかかって、特効薬で治ったでしょ? だったら、血液を調べれば、もしかしたら治療薬に関する手がかりが、何か見つかるかもしれないわ」
「あぁ……、それは、そうだけど。調べる……って、オラの血をか?」
頷くブルマに、悟空はしばらく怪訝そうに首を傾げていたが、しばらくして何となく理解ができたのか、あ、と目を瞬いた。
「そりゃ、それで何かがわかるかもしれねぇなら、もちろん。……だけど、いいんか? だって、オラはあのあと……」
気まずそうに口ごもる悟空に、ブルマも彼の言わんとしていることに何となく察しがつく。
彼はセルとの戦いで一度死に、その後何年も経ってから生き返った身だ。そんな状態で、役に立てるのかどうか。それを彼は憂慮しているのだろう。
「わかってるわ」とブルマは呟き、だけど、と顔を上げた。
「それでも、少しでも可能性があるなら、どんなことでも確かめたいの。……このまま、黙って見てるなんてできない。……最後の最後まで、たとえ1%でも可能性が残っているなら……わたしは、それに賭けたいの」
このまま、ベジータを失うことが運命だったなんて、思いたくないから。
そう言って自分を真っすぐに見る青い瞳は、悲しみに沈む色ではなく、強い意思の光に満ちていた。
その眼差しを受けて、ふとチチの姿が脳裏をよぎる。
その細い肩に、どれだけの重荷を背負っても。時には、耐え切れずに崩れそうになったとしても。
それでも、彼女たちは、負けなかった。どんな危機の渦中にあっても。──そして、最後にはいつも、笑顔を向けてくれるのだ。全てを理解し、受け止めてくれるように。
──おめえたちは、強えんだなぁ。やっぱ、オラには勝てねえや。
ブルマの視線に気圧されるかのように、悟空は黙って彼女を見返していたが、彼女がそう望むのであれば、当然彼に異存などあるわけがない。
「わかった。オラで役に立てることなら、何でも言ってくれ」
自分ができることなら、むしろ申し出たいくらいだ。それで、ベジータが助かるかもしれないなら。
「ありがと……孫くん」
今までずっと自分の胸だけに抱え、悩んでいたことを誰かに話せて、少し楽になれたのかもしれない。ブルマは彼を見上げて安堵したように、小さく微笑んだ。
──それから、二時間ほど後。
「ごめんね、孫くん。嫌なこと頼んじゃって……大丈夫?」
「……あ、ああ……。何とか、大丈夫だ……わりぃ」
病院の採血室から、青い顔をした悟空と、それを支えるようにして出てくるブルマの姿があった。
二人がいるのは、西の都の総合病院。ベジータが最初の発作を起こした時に運ばれた病院であり、今も彼の治療を続けてくれている医者がいるところだった。
あれからすぐ、ブルマは懇意にしている彼の主治医に直接連絡を取り、急いで検査の準備をしてくれるよう頼み込み、悟空と共にそこへ向かったのだった。
彼女が医療機器や資金に関する援助にも関わっていることから、すぐに一通りの手配がされ、後はサンプルとなる血液を採取するだけだったのだが。
そこで一つ、少々厄介な壁が発生した。
調査のためには、当然必要量の採血が必要となる。が、それは彼の場合、問題視するほどではない。
問題は、その採血の方法。
何しろ悟空は、大の注射嫌いだったからだ。
大の大人が、と一般人から見れば失笑されそうなことでも、彼にとっては大問題。
採血用の注射器を見ただけでさぁっと顔色を青ざめさせ、横のブルマに「な、なぁ……どうしても、アレじゃなきゃいけねえのか?」と泣きつきかけ、看護婦に呆れ半分に笑われていたり。
だが、今はそんなことを言っている場合ではないのも事実。
「すぐ終わるから、少しだけ我慢してて。ね」というブルマの説得もあり、普通なら数分で終わりそうな作業を、通常の何倍もの時間をかけ、ようやく必要なだけの採血に成功したのだった。
とはいえ、叫んで逃げ出すような騒ぎにならなかっただけ、悟空にとっては奇跡に近いものがあったのだが。
その際、彼が腕に力を入れすぎて折れた十数本ほどの注射針の残骸を見て、周りにいた者が一様に目を丸くしていたのは言うまでもない。
「けっこう、きつかった、けどな……。でも、オラにできることは、これくらいしかねえしな」
ようやく落ち着いてきたのか、青かった顔が真面目な色を取り戻す。
「──ううん。ありがと。これが何かのきっかけになるかもしれないし……それだけでも、十分よ」
「すまねえな……。もう、これでいいのか?」
「うん。必要な情報はこれで大丈夫だと思うから。……今日は、ありがとう。孫くん」
病院の玄関先まで見送りに出てきたブルマは、改めて彼に礼を述べた。
「……いいや。もしオラに何かできることがあったら、いつでも言ってくれ。できるだけのことはする」
「ええ、ありがと。……それと、お願いなんだけど、このことは、まだ誰にも言わないでほしいの。あいつも、そう言ってたから」
「あ、ああ。──わかった」
悟空は少し返事に迷ったが、ベジータの性格を考えれば仕方のないことだろう。だが、彼女の思い詰めた様子を見たあとでは、どうしても気にせざるを得ない。
「でも、何かあったらいつでも言えよ。……あんまり、無茶すんな」
「……ええ。わかってるわ」
わたしがしっかりしてなきゃ、何も始まらないものね。そう言って、彼女は気丈な笑みを見せた。
──そう。自分にはまだ、自分にしかできないことがある。今はそれを、精一杯やらなくちゃ。
「もし何かあったら、連絡するわ。その時は、お願い」
「ああ。……じゃ、オラはこれで帰るけど。必要があったら呼んでくれ」
「ええ」
互いに片手を上げて挨拶をすると、彼らはそこで別れた。
ほんの小さなことでもいい。何かが掴めれば、そこからきっと、道が開けるはず。
そうであってほしい。そうだと信じたい。──だから。だからせめて、それまでは。
都から徐々に離れる中、後ろ髪引かれるような流れの風を感じながら。
戻った白い建物の廊下を歩く中、静かに響く足音を受け止めながら。
せめてそれまでは、彼に時間を与えてほしい。一分一秒でもいい、少しでも、長く。
互いの胸の中に──眼差しの奥に。同じ願いを、強く抱いて。
「──ん?」
横断歩道を渡ったところで、トランクスは足を止めた。
「……あれって、確かママの車、だよな」
二つ先の信号の手前の建物から出てきた見覚えのあるエアカーに気づき、目を瞬く。
一瞬だが交差点を曲がる時に、フロントガラスから見えたブルマの顔を認め、やっぱりママだ、と独りごちる。
「あれ? ここって、確か……」
どこに行ったんだろ、と思いながら彼女が出てきたらしい建物へ視線を向け、そこが覚えのある場所であることに思い至る。
「やっぱり、病院だ。……なんでこんなとこに来たんだろ?」
そこはトランクス自身も何度か世話になったことがある、彼らのかかりつけ医がいる総合病院だった。
普段は怪我も病気も殆ど縁がないため、最近は滅多に訪れることもなかった場所なのだが。
「風邪でもひいたのかな?」
そういえば、この間、リビングに薬みたいなのが置いてあったっけ。ママに聞いたら、ちょっとした風邪薬よ、って言ってたけど。
最近、何となく元気がないように思うこともあった母の様子がふと気になり、トランクスは真顔になる。
どこか具合が悪いのかなぁ。家に帰ったら聞いてみよう。
子供らしい率直な気遣いに背を押され、トランクスは足早に家路を急いだ。
通り過ぎていくその小さな背中を追うように、空を覆い始めた雲の間から、影を落とした太陽の光が弱々しく揺れ──無言の風が、ざわめいた。