<18>

 冷たい風が吹き、街行く人も肌を刺す冷気に首を竦めて、足を速める季節へと変わった頃。
 窓の外に広がる、ここ数日続いている薄曇りの空をぼんやりと眺め、トランクスは何度か思ったことをまた考えていた。
 浮かない表情の奥で、脳裏に浮かぶのは、彼の両親の顔。
 ──パパもママも、ほんとにどうしたんだろう。
 都を包む薄暗い空の色と同じように、何日も前から、漠然とした不安な気持ちがずっと胸を離れず、彼は最近、授業も上の空なことが時々あった。

 最初のきっかけは、二週間くらい前だった。
 学校の帰りに偶然病院から出てきたブルマを見かけたトランクスは、家に帰ったあと、早速母に何かあったのか尋ねてみた。
 だが、ブルマから返ってきた答えは、「何でもないわ。少し風邪気味だっただけよ。気にしないで」という、当り障りのない返事だけだった。
 その場は大した理由も聞けず、どこか腑に落ちないものを感じつつも納得するしかなかったトランクスだったが、それ以来だった。両親の細かな変化を感じるようになったのは。
 普段の態度から時折見え隠れする母の沈んだ顔や、やけに思い詰めたような落ち着かない表情は、それが「ただの風邪」から来るものとは到底思えなかった。
 また、ブルマはこの頃、帰りが遅くなることがたびたびあった。
 彼女の仕事を考えれば深夜の帰宅も特に珍しいことではないので、最初は気にしていなかった。だが、妙だと思うのは、やっぱりどこか焦っているような、切羽詰った表情が垣間見えることだった。
 仕事に追われているだけなら、普通そんな顔はしない。愚痴を零すことはあっても、それを本当に気に病んでいるような、あんなに辛そうにしている様子を見たことはまずない。
 ブルマは多分、何かに悩んでいる。そして、何かに追われているようにも見える。子供ながらに勘の鋭いところがあるトランクスに、それがわからないはずはなかった。
 それに。
 数日前、父の部屋の前をたまたま通りかかった時に偶然見かけた、部屋の隅のテーブルの上に置かれていたもの。
 それは、以前リビングで見たことのある「風邪薬」だった。
 遠目からだったからはっきりとは読めなかったが、それは確かに、あの時の袋と同じ物だと思った。
 ──どうして、パパの部屋にあれがあるんだろう?
 不思議に思ったものの、そのあとすぐに学校に行かなければならなかったため、結局確かめることはできなかった。
 後日、試しにベジータに聞いてみはしたが、素っ気なく「見間違いだろう」の一言が返ってきただけだった。
 だがその時、普段は滅多に表情を変えない父が、わずかに眉を動かしたのを、トランクスは確かに見たと思った。
 そして。
 決定的だったのが、五日前の出来事。
 その日、しばらくぶりにベジータが「ついてこい」といってトランクスを連れ、トレーニングのために外へ出た。
 あの島へ行って以来、ベジータから諸々の宇宙の話を聞く時間が多くなっていたトランクスは、そこでふと父がトレーニングをしているのを見るのも、ここ最近なかったことを思い出した。
 加えて、その時の父の様子も、今までとは少し違っていた。
 軽い組み手を交えながら、気を自由にコントロールして可能になる技の応用、いざという時の身を守る方法、敵の目を欺き危機を脱する手段、隙を突いて劣勢から攻勢に転じる戦術など、詳しい技術的なことまでベジータは自ら教えてくれた。
 いつもなら、「自分で考えて身体で覚えないと意味がない」と、なかなか細かいことまでは教えてくれなかったのに。
 トランクスが不思議に思う中、組み手の最中に何気なく繰り出したはずの彼の拳を正面から受け、ベジータの身体がぐらりと傾いたことに、彼は更に驚いた。
 普通なら、この程度の攻撃を父が食らうはずがないのに。
 「パパ! 大丈夫?」と不安げに見上げる息子を制し、ベジータは「……ちょっと油断しただけだ、気にするな」と口元の血を拭った。
 だが、平静を装っていても、父の気はわずかに乱れ、息も抑えてはいるがどこか苦しげな色を滲ませていた。
 初めて見る、今までとは違う父の雰囲気を身近に感じた時、トランクスははっきりと胸の奥で、何か言い知れない不穏なざわめきを覚えた。

 以来、父も母も、努めてその話題には触れないようにしているかのように、彼の前で表情を崩すことはなかった。
 だが、一度芽生えた疑問がそう簡単に消えるはずもなく、胸中に漂う薄いもやのような不安感は拭い去れなかった。
 考えても答えの出ない疑問が、ぐるぐると頭の中を回る。
(……今度、もう一度、聞いてみよう。それで大丈夫なら、いいんだ。だって、あのパパとママだもん)
 そう胸の中で呟き、トランクスは小さな溜め息と共にもう一度外を見やった。

 冷たい風が、静かに木々の枝葉を揺らし、通り過ぎる。
 見上げる空は、彼の予感を表しているかのように、今にも泣き出しそうな色だった。


 ──数日後。
 その日は、朝から雨が降っていた。
 学校側の都合で午後の授業が休止になり、それぞれが雨の中を急ぎ足に帰っていく中、トランクスも傘を片手に自宅への道を足早に辿っていた。
 いつもなら、せっかく空いた時間なのだから、どこかへ遊びに行くか、寄り道をしたりすることが常だったのだが、今日は天気のせいもあるのかもしれないが、なぜか自宅へ足が向いていた。
 交差点を渡り、カプセルコーポの正面玄関が見えてきた時。
 そこで自宅の門から一台のエアカーが出てくるのを見て、トランクスはふと足を止めた。
「……え? あれって……」
 フロントガラスから見えた、運転席の人物の顔を認めて目を瞬く。
「あれって、ヘンリー先生だよな。……なんで、うちに来てたんだろう?」
 以前自分が世話になったこともある、総合病院の医師に間違いないことを確かめ、怪訝そうに首を傾げる。
 総合病院はそう遠い場所ではない。滅多なことがない限り、医師を直接呼ぶことはないはずなのだが──。
 やっぱり、何か変だ。何があったんだろう。
 再びあの胸騒ぎが起こるのを感じ、トランクスは不安に背中を押され、足早に自宅の玄関を目指して走り出した。


 濡れた靴をぬぐのももどかしく、自室に駆け上がったトランクスは肩から下ろした鞄を放り込み、すぐにリビングへ向かった。
「ママ?」
 だが、声を出しても返事がある様子はない。
 普段ならブルマは仕事のはずで、この時間に家にいることはあまりない。だとしたら、祖母か祖父か、どちらかが知っているだろうか。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、……パパもどこにいるんだろ」
 リビングから廊下に出て首を巡らせたトランクスは、突き当たりの応接室から人の気配がするのを感じ、「あ、あっちだ」と足を向けた。
 開け放たれたままの応接室の入り口から顔を覗かせた彼は、そこでソファに腰を下ろし、テーブルに肘をついて、顔の前で組んだ両手に額を預けている母の姿を見つけた。
「──ママ?」
 力なくうなだれているようにも見える母の沈んだ様子に、少し戸惑い気味に声をかける。
 すると、ブルマは傍目からもわかるほどにびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
「……トランクス? ……ど、どうしたの。こんなに早く」
 明らかに動揺の色が見える母の返事に眉を寄せ、少し遠慮がちながらも彼女に歩み寄る。
「先生たちの都合で、午後の授業が休みになったんだ。……それより、ママこそどうしたの? 何かあったの?」
「え……う、ううん。何でもないわ」
「だって、さっき来てたのヘンリー先生でしょ? わざわざうちに来るなんて滅多にないのに、どうして?」
 息子の訝しげな問いに、ブルマの表情が動く。
 そこで、テーブルの傍らに置かれていた袋を認め、トランクスが目を見開いた。
「……それって……薬?」
 え、と息子の視線を追ったブルマは、そこではっと息を飲んだ。
「……それ、前見たのと同じもの、だよね」
 その袋がいつかリビングで見たものと──そして、父の部屋で見かけたものと同じであることを直感し、トランクスが声を強張らせる。
「ねえ、ママ。どうしたの? やっぱり、最近変だよ。ママも、それから……パパも」
「……!」
「それ、風邪薬なんかじゃないんでしょ? どうして、同じものがパパの部屋にもあったの? 一体……何があったの?」
 今まで抑えてきた不安感が一気に蓋を押し上げて溢れ出し、トランクスは母に詰め寄った。
 ──やっぱり、気づいてたのね。
 自分を真っすぐに見上げる、息子の真摯な眼差しがあまりにも痛くて──ブルマは堪らず、両手を彼の首に回し、抱き寄せた。
「……ごめん……ごめんね、トランクス」
「え、マ、ママ?」
 戸惑いがちに身体を強張らせる息子の髪を撫で、声を絞り出す。
 やはり、彼も気づいていたのだ。自分だけではなく、ベジータのことも。
 もう、ここまでだろう。彼女はそう思った。
 まだ、ためらいはあった。だけど、これ以上隠せば──かえってその方が、多分、もっとこの子を傷つける。
 刹那の逡巡のあと、彼女は意を決し、少しだけ身体を離して息子の顔を見た。
「──ねえ、トランクス。あんたももう十歳……大きくなったし、強くなったわ。……だから、これからわたしが話すことを、落ち着いて聞いてほしいの」
「え……?」
 いつもと違う母の張り詰めたような表情と声に、トランクスがますます怪訝そうに眉をひそめる。
「……あんたも……辛いと思うわ。でも、話しておかなければいけないことなの。……だから、落ち着いて、最後まで……聞いてね」


「……ウソ、でしょ? ママ……」
 呆然と、瞬きをするのも忘れたように見開かれた目で、トランクスは呟いた。
 ブルマは息子の両肩に手を置き、ゆっくりと……小さく首を振った。
 彼女はすべてを、息子に明かした。
 ベジータの病気のこと、彼に残された時間がもうあまりないこと、彼がその事実を知っても、変わらず自分たちに接してきてくれたこと、すべてを──包み隠さず。
「嘘じゃないわ……わたしも、どれほど嘘であってほしいと思ったかわからないけど……本当なの」
「……だって、……だって……!」
 パパはあんなに元気だったじゃないか。何も変わったところなんてなかったのに。あのパパが、もう治らない病気だなんて、そんなわけない! そんなの……、そんなの、ウソだ!!
 どんなにか、そう叫びたかっただろう。
 けれど、それまでずっと心の奥底に潜んでいた不安が、その悲痛な願いを無情にも打ち消していく。
 ボタンの掛け違いのように、ずっと感じていた違和感。どこかがそれまでと違っていた、両親の様子。何度も見かけた、薬の意味。母が病院に行っていた理由。自宅を訪ねてきていた医師。
 すべてのピースが繋がった瞬間、幼いながらも賢い彼には、それが紛れもなく本当のことなのだと──はっきりと、理解できてしまったのだ。
 だけど。
「ウソだ……ウソだウソだウソだ!! そんなの、絶対に嫌だ!!!」
 何度も左右に首を振り、絞り出すような声で叫ぶと、彼は母の手を振り払い、瞬く間に応接室を飛び出していってしまった。
「トランクス!」
 ブルマが止める間もなく、足音があっという間に遠ざかり、廊下の奥へ消えていく。
「……」
 震える手がぎゅっと握りしめられ、小さい溜め息が洩れた。
 こうなることは、わかっていた。
 どんなに強いといっても、まだ小さな子供なのだ。ショックを受けないはずがない。それが、誰よりも尊敬し、慕っていた父のこととなれば、尚更。
 でも、他にどんな方法があっただろう。既にトランクスは、自分たちの変化に気づいていた。むしろ、これ以上黙っていることのほうが、彼にとっては酷だったはずだ。……だから、打ち明けた。それしか、なかったのだ。
 ……それに。
 今はそれ以上のことは話せなかった。どんなに切望していても、それはあまりにも弱く、不確かな可能性に過ぎなかったから。
 今はただ、そこにある「真実」しか告げてやれない自分が歯痒く、悔しかった。

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