──パパ! パパ!!
応接室を飛び出したトランクスは、一心に父の姿を探して走った。
──パパはね、病気なの。……それも……
ついさっき聞かされた母の言葉が、繰り返し脳裏に谺する。
(違う! そんなの、ウソだ!!)
必死に心で否定しながら、真っすぐにベジータの部屋を目指して階段を上がる。
かすかだが部屋の中から父の気配を感じると、トランクスは脇目も降らずに中へ飛び込んだ。
「パパ!!」
まるでとてつもなく遠い距離を走ってきたかのように息を切らせ、父を呼ぶ。
すると、そう広くもない部屋をせわしなく右往左往していたトランクスの視界の先で、ベランダにいた人影が、その声に反応して振り向いた。
「パパ!」
「……なんだ、トランクス。騒々しい」
ベランダの壁に寄りかかり、何をするでもなく、雨の降り注ぐ空を黙って見上げていたベジータは、突然響いた息子の声に、少し眉を寄せて口を開いた。
薄暗い部屋の窓の外、雨音の中にひっそりと佇んでいる影が、今はあまりにも心細く見え、トランクスは不安に背を押されて父に駆け寄った。
「……パパ……!」
だが、漆黒の瞳に静かに見つめられると、トランクスはすぐに次の言葉が見つからず、ただ父の服の裾をぎゅっと掴んで唇を噛む。
一方、自分を見上げたまま口ごもる息子の張り詰めた面差しをはっきりと見て取った時、ベジータには何があったのかすぐに察しがついた。
(──聞いたのか……)
さっき医師が来ていたことと、トランクスが帰ってきた時間を考えれば、何かを聞いたとしても不思議はない。
それでなくても、既に自分の様子がおかしいことには気づいていたはずだ。いつまでも隠し通せるものではないことは、わかっていた。
「ねえ、パパ……ママも、何か勘違い、してるんだよね? 病気だなんて、すぐ治っちゃうでしょ? パパがいなくなっちゃうなんて、ウソだよね? ねえ?」
「…………」
真剣な、悲痛なまでの訴えの色を滲ませた声に、ベジータは何も答えなかった。……何も、言えなかった。
違うと言ってほしかった。そんなことがあるわけないだろう、と、父の口から言ってほしかった。
けれど、彼の問いは否定されることのないまま、沈黙の時が流れる。
──父の沈黙は、肯定。
多くは語らない父の、無言の答えに、トランクスは打ちのめされた。
「……ウソだ……だって、だって……パパ、オレと約束したじゃないか! いつか、一緒に宇宙に行こうって! もっと、オレの知らないことを教えてくれるって、いろんな星に連れてってくれるって! 約束したのに!」
「……」
涙を浮かべ、張り裂けんばかりに声を上げる息子の叫びを、ベジータはただ、黙って受け止めるしかなかった。
「……泣くな」
息子の身体を抱き寄せ、彼は呟いた。
──あの時よりも一回り大きくなった背丈。それでもまだ、腕の中に簡単に収まる、小さな温もり。
それらを感じながら、心の奥底に揺らぐ様々な感情を押し殺し、すべてをその一言にこめて。
今の彼には、そうするしかなかった。……そうすることしか、できなかった。
ただ一言、それだけの、けれど何よりも重い言葉。
でも。──でも。
「嫌だ……そんなの、嫌だ! パパの……パパのウソつき! 一緒に行くって、約束したのに!!」
「……」
激しく首を左右に振り、ぐしゃぐしゃに顔を歪め、トランクスは叫んだ。
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
だけど……だけど。
自分を抱き寄せる腕の温かさ。それが、いつかの記憶と重なり、あの時の痛みを呼び起こす。
それがあまりにも辛くて。耐えられなくて。
「パパのウソつき!!」
トランクスはベジータの手を振り払い、部屋を飛び出していってしまった。
「……」
止めることもせず、ベジータはただ、小さな背中がドアの向こうへ消えていくのを、黙って見送っていた。
今の自分が止めることなどできないだろう。すべては、あいつ自身の中で……納得するしかないのだから。
予想していたこととはいえ、どうにもならない気の重さに、彼は小さく溜め息をついた。
と。
入り口に小さな気配を感じ、彼は顔を上げた。
そこに立っていた相手の顔を認め、少しだが眉を寄せる。
「……ごめん。トランクスが気になって」
「……」
彼女を咎めるわけではない。どのみち、いずれは話さざるを得なかっただろう事実だ。だが、今はつい渋面になってしまうのはどうしようもなかった。
彼の心中を察したのか、ブルマが遠慮がちに歩み寄り、口を開く。
「仕方なかったのよ。あれ以上隠せば、かえって余計にあの子を傷つけることになるわ。……あんたが自分のために無理をしてたと知ったら、どれだけ苦しい思いをするか……わかるでしょ?」
「……ああ」
トランクスは利発な子供だ。時として、子供らしからぬ気遣いを回したりする、大人びたところもある。
そんな彼にとって、今の今まで事実を知らされずにいたことは、きっとショックだっただろう。
それが、父親に関する──それも、信じ難い事実だったのであれば、尚のこと。
「今は、あいつ自身が納得するまで……待つしかないだろう」
「……そう、ね」
きっと誰よりもやりきれなさを覚えているのは、ベジータ自身なのだ。
自分には、どうすることもできない。多くを語らない彼だからこそ、それがどれだけ歯痒いか、ブルマには痛いほど伝わってきた。
互いに言葉もなく、たった一人の息子の心中を思い押し黙る彼らの足元に、細い雫が淡々と降り注ぎ、小さく弾けて散った。
どれくらいの時間が経っただろう。
まだ少ししか経ってない気もするし、もうずいぶん長い時間が過ぎたような気もする。
ベッドに突っ伏していた顔をのろのろと上げ、トランクスは仰向けになると、暗い部屋の天井をぼんやりと見上げた。
そして、手に握っていた石を、徐に掲げる。
暗闇の中でも、己を強調するかのように輝く、透き通った美しい緋色。
──三人だけの秘密の場所で見つけた、大切な宝物。
……だけど、今は。
その光がどうしようもなく、心に痛くて。
──パパ。
心の中で呟くと同時に、自分を抱き寄せて「泣くな」と呟いた父の顔が浮かび、再び涙がじわりと滲んだ。
『──ウソつき! パパのウソつき!』
自分の一方的な糾弾にも、何も言わず、ただ黙って見つめていた父。
(……違う……)
違う。あんなことが言いたかったんじゃない。そんなことを言って、パパを困らせたかったわけじゃない。なのに。
自分でも、どうすればいいのかわからない。
零れた涙を拭うように、トランクスはごしごしと顔を擦った。
いくら聡いとはいえ、まだ幼い彼が、突然信じがたい事実を突きつけられて、そう簡単に感情の整理をつけられるはずもないのだ。それも、無理のないことだった。
その時。
「──入るぞ、トランクス」
「!」
不意に壁の向こうから声が響き、音もなくドアが開いた。
トランクスははっと顔を強張らせ、反射的に布団を頭からかぶりこんだ。
ベジータは入り口から少し入ってきたところで、ベッドの上の丸い影を見て足を止める。
「……寝てるのか?」
返事はなかった。が、かすかな気の動きから、起きているのだろうことは感じ取れた。
「……」
少し思案を巡らせたあと、彼はベッドの傍に歩み寄り、端にゆっくりと腰掛けた。
そのまま、しばし無言の時が過ぎる。
「……黙っていて、悪かったな」
(……!)
「最初から、おまえには話すべきだったのかもしれん。……だが……」
──可能な限り、今までの自分としていたかった。弱っていく姿など見せたくはなかった。……あいつだけじゃなく、おまえまで、これ以上沈んだ顔をするのを見たくなかった。
後の声は途中で途切れ、言葉にならずに飲み込まれる。
ともすれば聞き逃しそうなほど、ささやかな声。けれど、それは今までのどんな言葉より、重い響きを持ってトランクスの耳を打った。
「……」
──結局、泣かせてしまったな。
わかっていた。いずれ、こうなるだろうことは。
いつか、一緒に。まだ未知の宇宙を旅してみたい。
最初から叶うはずのない約束だった。それを知りながら、口にしたのは自分だ。
嘘をついたも同じことなのだから、そう言われても仕方ないだろう。
だが、それでも。せめて少しでも長く。今までと変わらない自分の姿を、見せておきたかった。
それが、自分の勝手な理由だったとしても。
顔を見せずに塞ぎこむ息子の、小さな頭にそっと布団の上から手を置き、呟く。
「……守れなくて、すまん」
(──!!)
違う。違う。そんな言葉がほしいんじゃない。そんなことに、謝ってなんかほしくない。
ただ……ただ。
「……っ……パパぁ!!」
こみ上げる感情を抑えきれず、トランクスは布団をはねのけ、ベジータの胸に抱きついた。
「嫌だ……嫌だ、どこにも行かないでよ……行っちゃやだよ、パパぁ……!!」
「……」
自分を抱き留める、広く逞しい胸。いつかと同じ、温かな感触。
ただ、失いたくない。もっともっと、傍にいてほしい。ただ、それだけなのに。
言葉にならない嗚咽だけが、止め処なく溢れ出る。
しゃくり上げる息子の小さな背をそっと叩きながら、ベジータは黙ってトランクスを抱き寄せる手に、少しだけ、力をこめた。
「……ベジータ?」
それからしばらく経った頃。
トランクスの様子を見に行ったベジータがなかなか戻ってこないのを気にして、ブルマがそっとドアの外から顔を覗かせた。
明かりもつけない部屋の中は薄暗く、雨粒のささやき以外は何も聞こえず、静寂に満ちていた。
少し暗がりに目を凝らすと、窓際のベッドの端に腰かけた夫と、彼にしがみつくようにして抱えられている息子のシルエットが見て取れ、ブルマは少し遠慮がちに声をかけた。
「……寝ちゃったの?」
「ああ。……泣き疲れたんだろう」
ぼそりと、ベジータが声を落として呟く。
足音を立てないようにブルマもベッドに近づき、夫の隣に腰を下ろすと、そっと息子の髪を撫でた。
時折小さい嗚咽を洩らしながら、涙に濡れた顔で瞼を伏せたトランクスは、離れるのが嫌だと言わんばかりにベジータの服を掴んで離さなかった。
ずっと続くと思っていた、平穏な日々。大事な家族が当たり前のように傍にいる、穏やかな日常。
それがもう、本当に残りわずかな時間でしかないのだと、突然知らされた現実。トランクスの受けたショックは、察するに余りあるものがあった。
むしろ、今の今まで知らされていなかった分、自分よりも衝撃は大きいかもしれない。
それを考えると、どうしようもなく胸が痛んだ。
「今は、そっとしておいてあげるしか……ないわよね」
どんな言葉でなだめても、そう簡単に受け入れることなどできないだろう。……自分が、そうだったように。
それが、戦いという非日常のさ中ではなく、それまで続いてきた──そして、これからも同じ日が続くのだと──何の疑いもなく信じていた、平和な日常の中で突きつけられた事実だからこそ、尚更。
「夕飯、できてるけど……今は起こさないほうがいいわよね。……あんたは、どうする?」
「……いや、いい」
トランクスの身体を抱え直し、ベジータが首を振る。
「今はこのままにしておいてやったほうがいいだろう。今、オレにできることは……これくらいしか、ないからな」
「……そう」
その返事にブルマはぐっと喉を詰まらせ、それでも何とかこみ上げた塊を飲み込む。
「じゃあ、先に降りてるわ。……でも、時間をみて何か食べないと、身体に悪いわよ。薬もあるから……後でちゃんと、飲んでよね」
「ああ」
短く返ってきた声を受け、静かに立ち上がる。
目尻に滲んだ水滴を悟られないように、彼女は「待ってるから……後で」と言い残し、入ってきた時と同じように、音を立てないようにしてトランクスの部屋を後にした。
ドアが閉まり、彼女の足音が遠ざかって行くのを聞きながら、ベジータは無言で窓の外へ目をやった。
窓枠に切り取られた夜の闇を見つめ、自分の力の及ばない歯痒さに、知らず奥歯を噛みしめる。
だが、それでもこうすることを選んだのは自分だ。他の誰でもない、自らの意志で決めたことだ。
だから、今は。
今はただ、自分がこうしてやることで、少しでも息子の辛い眠りが、和らぐなら。
少しでも、あいつの重荷が減らせるのなら。
それだけでもいいと。
そう思いながら。
細い雫の群れは止むことなく、夜の街に降り注ぐ。
仄かな闇の中、うっすらと床に落ちる親子の影を、雨音だけが静かに……包み込んでいた。