<20>

 三日間ぐずついた空模様がようやく晴れ間を見せ、薄雲の隙間から差し込む淡い陽の光が、西の都の街並みを柔らかく照らす夕暮れ時。
 まだ湿り気を帯びた草木から時折滑り落ちる水滴が、西の空に残る茜色を反射し、一瞬の煌めきを残して散っていく。
 窓際のベランダからおぼろげな西日に染まる空を眺めて佇み、ベジータは無言で今日までの出来事を思い起こしていた。
 ──トランクスが彼の病のことを知ってから、三日。
 翌日はさすがに学校どころではなかったようで、ブルマも息子の心情を気遣って何も言わずに休ませてやったようだった。
 激しく取り乱す様子こそなくなったものの、真っ赤に泣き腫らした目を見られたくないのか、食事もそこそこにその日は殆ど一日中部屋に閉じこもったままだった。
 時折ブルマが様子を見に行ったが、返ってくる言葉は少なく、じっと何かに見入っているような素振りもあったらしい。
 トランクスが何を思い、どう感情の整理をつけようとしているのかはわからなかった。だが、どのみち自分にはそれを黙って見ていてやることしかできないのだ。
 もう、してやれることが殆ど残っていない、自分には。
 そうして、ブルマの両親も心配そうに首を傾げる中、重苦しい一日が過ぎ。
 次の日の朝、トランクスは自分から食卓に顔を出した。
 少し憔悴した面差しを残しながらも、交わす会話もいつもと変わらない調子を見せ、ほぼ普段の彼に戻ったようだった。
 少なくとも、表面上は。
 その表情の下に、辛い気持ちを一生懸命隠しているのだろうことは、嫌でもうかがい知れた。
 実質は、そんな簡単な問題ではないことは、ブルマを見ていてもわかる。
 かすかに目の下にできた隈や、ふと俯いた時の沈んだ表情が、彼の苦悩を表しているようだった。
 けれど、トランクスは耐えようとしている。突然背負わされた辛さに。彼なりに、精一杯。
 それがベジータの心境に、少なからず影を落としていた。
 いつかは知られることだった。それはわかっている。
 だが、もう少し……時間を稼げるものなら、稼ぎたかった。
 これ以上、自分のために彼女たちが思い悩む辛気臭い顔など、見たくなかったのだ。
 ──いや。
 それも、自分が招いたことか。
 むしろ、ここにいる時間が長すぎたのかもしれない。
 だが、トランクスも事実を知った以上、いつまでもそうしているつもりはなかった。
 最初から、そう思い切るべきだったのかもしれないが。
 つくづく甘くなったもんだな、オレも。
 小さく笑みを洩らし、暮れていく空をじっと見据える漆黒の瞳の中を、小さな影が横切り──少しだけ揺らいで、消えていった。


 ──あと少し。
 図面の細かいチェックを終え、ブルマはひとつ息を吐いてペンを置いた。
 手に取ったカップのコーヒーがすっかりぬるくなっているのに気づき、窓の外に目をやると、もうだいぶ陽も沈み、空は薄い夜の帳に覆われ始めていた。
 どうして、時間というものはこんなにも早く過ぎていくのだろう。
 一日の終わりを告げる西の空を、ブルマは恨めしげに眺め、溜め息をついた。
 カプセルコーポの仕事をできる限り秘書や有能な部下に任せ、彼女はここのところ、ある研究と開発に心血を注いでいた。
 それは彼女が関わってきた事柄と必ずしも無関係ではなかったが、少なくとも専門ではない分野と言えた。
 事情を知らない者から見れば、なぜ今その施設の開発を?と首を傾げたことだろう。
 だが彼女は、その研究を、今はただひとつの目的のために一心に進めていた。
 もっと早く気づいていれば、もう少し確信が持てたかもしれないのに。
 すぐにこのことを考えつかなかった自分の粗忽にうんざりしながらも、今はただ、時間が欲しかった。
 それが儚い願いではなく、確たる希望になれるという自信が。
 彼女のためだけではなく、息子のために。そして何より、彼のために。
 だから、もう少し。あと少しでいい。
 わたしに──そして、彼に。時間を与えて欲しい。
 祈りの色を帯びた青い瞳が、夕焼けの残滓を映して、かすかに揺れた。


 その日の夜。
 淡い雲が流れる空から漂う仄かな明かりの下、ざわめく風に漆黒の髪がなびき、足元に伸びた薄い影が揺らめいた。
 カプセルコーポの建物の中で最も高い屋根の上で、上空に浮かぶ頼りなげな光を放つ上弦の月を仰ぎ、じっとその場に立ち尽くす。
 おぼろげな月の明かりに細めた眼差しの奥で、ベジータは先刻の出来事を思い出していた。

 ──あのさ。見せたいものがあるんだ。オレの部屋に、来てくれる?
 廊下で不意に呼び止められた声に振り向くと、そこにいたのは夕食もそこそこに部屋に閉じこもっていたトランクスだった。
 真剣な目をして頼んでくる息子の望むまま、ベジータは彼の部屋に足を向けた。
 そこで、トランクスが彼に見てほしいと言って、差し出したもの。
 それに書かれていたのは、地球とはまったく異なる言語の使い方の応用、宇宙では必要不可欠になる星図の読み方の基礎。
 以前自分が教えて聞かせ、その中からほんの戯れに「自分で解いてみろ」と息子に与えた課題の、答えだった。
 知っているだけでは駄目だ、ちゃんと理解して使えるようになれ、と伝えた知識。
 元々、そう簡単に理解できるものではないことは承知の上だった。
 それこそ見たことも聞いたこともない、まったく異質の文明を理解するのは、高い知能の持ち主でも難しいことだ。
 まして、トランクスはまだ十歳。それらの事柄を自分の知識として身に付けるには、まだ幼すぎる。
 今はわからなくても、いずれ理解する日が来るだろう。
 ベジータはその時、そう考えていた。
 だが、トランクスは彼の予想に反し、たった一ヶ月にも満たない時間で、基礎とはいえ、まったくの無知の状態から彼の教えたことを理解し、自分のものにしていた。
 何かに打ち込んでいるように見えたのは、これだったのか。
 トランクスがずっと自室にこもっていた理由を知り、ベジータはさすがに驚きの色を隠せなかった。
 いくら並の子供よりは賢いとはいえ、まさかここまで短期間で自分の教えたことを習得できるとは予想しなかった。
 これも、自分と──そして、ブルマという、この星では類稀な才ある者の血を受け継いだ証なのかもしれない。
 ずっと頑張って考えたんだ。オレ、ちゃんと答えられたかなぁ。
 少しだけ自信なさそうに、返事を待つ息子のひた向きな表情に、ベジータは穏やかな眼差しを向けた。
 ああ。これだけ短い時間でよく正確に覚えられたな。さすがに驚いたぞ。
 そう言って母譲りのさらりとした髪を撫でてやると、トランクスはぐっと声を詰まらせ、潤んだ瞳をごまかすようにごしごしと顔を擦った。
 ──オレ、頑張るよ。もっともっと、パパの知ってること、教えて欲しい。少しでも早く、パパに近づきたいんだ。
 こみ上げる涙に顔を歪め、引き結んだ唇をへの字に曲げながらも、トランクスはそう言って、強い光を帯びた目で、真っすぐに自分を見上げたのだった。

 あいつなら、大丈夫だ。きっと。
 吹っ切るのに時間はかかるかもしれない。だが、自分の予想以上に伸びる可能性を秘めているあいつなら。
 もう自分に授けてやれることはないかもしれないが、トランクスならきっと自力で身に付けていくだろう。これまでに教えた事柄を、自らの糧にして。
 たとえ自分が、その成長の先を見届けることができなくても。
 鮮明に残る息子の面差しを思い浮かべ、ベジータは小さく微笑んだ。
 と。
「ベジータ?」
 後ろでハッチを開ける音がし、細い声が響いた。
「やっぱり、ここにいたのね。……もう、またそんな薄着で……」
 少しだけ顔を振り向かせると、ブルマが咎めるような表情でハッチから身を乗り出していた。
「ただでさえ気温も下がってるのよ? 夜風は身体に悪いわ。早く中に入って」
「この程度、どうということはない。……もう少ししたら戻る」
 それだけ返し、再び月夜を仰ぐ夫の後姿に、ブルマは溜め息をついた。
「……早く戻ってよね」
「ああ」
 こういう時は、一人にさせておいたほうがいい。ブルマは夜の帳に溶け込むようにして立っている彼のシルエットを見つめ、つい言葉が口をついて出そうになるのをぐっと堪え、先にハッチを閉めて家の中へ下りていった。
 静寂の中、ざわり、と風が揺らめく。
 しばらくの間、屋上から動かなかった影は、やがて小さく息をつくと、ふっとその場から立ち去った。


 階下には下りずに直接外から自分の部屋へ回り、ベランダへ足をつける。
 瞬間。
(……っ……!)
 不意に彼の身体が揺れ、肩が壁に当たり、ドン、と鈍い音を立てた。
「く……、……ぐっ……!」
 息が詰まり、表情が歪む。
 胸の奥からじわじわと響く、鈍い痛み。
 喉の奥が引き攣れるような不快感。
 壁に手をつき、傾いだ身体をもたれかけ、懸命にそれらを抑え込もうと歯を食い縛る。
 頭の中で響く乱れた心音に顔をしかめながら、少しずつ、徐々に呼吸を整えることに努める。
 そうして、しばし張り詰めた沈黙が続き。
「……ふ……ぅ」
 ようやく発作が収まり、息の乱れが落ち着いたかと思った時。
 口元を押さえた右手の指の隙間から、一筋の雫が零れ、ぽたり、と足元を打った。
「……!」
 すぐにそれが何なのかに気づき、鋭い眼差しが更に険しくなる。
 暗がりでもはっきりとわかる、掌を染める赤い色の感触と、鉄の匂い。
(……ちっ)
 心の中で舌打ちし、口元を荒っぽく拭うと、眼下の丸い跡に指先を向けた。
 細い光が走った瞬間、じゅっ、と鈍い蒸発音を残して足元のそれは消え去った。
「……」
 寄りかかっていた壁からゆっくりと離れ、彼は顔を上げた。
 徐々に流れ始めた薄い雲に覆われていく月影を仰ぎ、右手をぐっと握りしめる。
(──潮時、か)
 夜の無言(しじま)の下、淡い闇を映して佇む眼差しは、あくまで静かな色を湛え──ただ穏やかに、凪いでいた。

 少しずつ、緩やかに彼らの周りを包み、流れを刻んできた時間。
 その時の針が、大きく揺れ動く瞬間は──もう、すぐそこまで来ていた。

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