<21>

「ひゅ〜、さみいさみい。今日は結構冷えるなあ。チチ〜、薪持ってきたぞー。どこに置いとくんだ?」
「あ、その窓の下あたりでいいだ。歩くのに邪魔にならないように置いててけれ」
「おう。……っと、ここでいっか」
 外から両手一杯に抱えて持ってきた薪の束を部屋の隅に下ろし、軽く手をはたく。
「この間から急に冷えてきただからなぁ。早めに暖炉の掃除しといてよかっただよ」
 食事の後の食器を片付ける母の言葉に、悟飯が同調する。
「本当、急に寒くなりましたからね。西の都でも、この冬一番の冷え込みだってブルマさんが言ってましたよ」
 お茶を啜りながら呟く悟飯の台詞に、悟空が思わず視線を向ける。
「おめえ、今日ブルマんちに行ってきたんか?」
「え? ええ。変身スーツのスイッチの調子が今ひとつだったんで、調整してもらいに学校帰りにちょっと寄ったんです」
 変身スーツというのは、例のグレートサイヤマンとかいう格好のことだろう。受験勉強中で出動の頻度は減ったものの、ビーデルと二人でやっている趣味?はまだ続けているらしい。
「……そういえば、待っている間にトランクスくんとも会ったんですけど。ずいぶん難しそうな質問をされて、びっくりしましたね」
「質問?」
 何気ない話題だったが、ブルマたちに関わることとなれば今はそれも気にかかり、悟空は悟飯の向かいに腰かけながら聞き返す。
「ええ。何でも、ベジータさんから、別の星で使われている言葉とか、色々宇宙についての知識を習っているらしいんですよ。それも、かなり具体的に」
「ベジータから? ……そうか……」
「ここでいう天文学の基礎にも似てますけど、さすがに地球では聞いたことのない話もありますからね。かえって僕のほうが教えてほしいなと思ったりしましたよ」
 そう言って笑う長男の言葉を、悟空はどこか神妙な面持ちで受け止めていた。
 ベジータは滅多に感情を表に出す男ではないが、彼がトランクスを可愛がっていることは、少し注意してみれば傍目からでもよくわかる。
 自分だって、勉強の類は無理でも、悟飯や悟天に修行をつけてやることは普段からやっていたし、楽しみでもある。それは、きっとベジータも同じはずだ。
 息子に自分が持っている知識や技術を教えるのはごく普通のことだし、それがいつもの日常で耳にした話なら、さほど気に留めることもなかったかもしれない。
 だが、今は。
 彼らの身に起こっている事実を知ってしまった、今は。
 ベジータがどんな心境で、トランクスに自分の持てる知識を教えているのか。また、トランクスがどんな気持ちでそれを受け取っているのか。
 そして、ブルマがどんな思いでそれを見守っているのか。
 どうしても、気にせずにはいられなかった。
 ──あれ以来、ブルマからの連絡はない。
 何か進展はあったのか、それとも。
 それとも──。
「お父さん? どうかしたんですか?」
 急に考え込むような顔で黙ってしまった父の様子に、悟飯が怪訝そうに首を傾げる。
「ん? ……あぁ、いや。何でもねえ」
 ごまかすように曖昧に笑い、「ちょっと腹ごなしに身体動かしてくる」と言って立ち上がった。
「え、こんな時間に? それに、寒いですよ、外」
「大丈夫だって。すぐ戻ってくっから」
 そう言ってひらひらと手を振って出て行く父の後姿を、悟飯は小さく疑問符を浮かべつつ見送るのだった。

 玄関のドアを閉め、悟空は徐に顔を上げた。
 悟飯にああは言ったものの、特に今から修行をするつもりがあったわけではない。
 ただ。
 ふと、足元に落ちる薄い影に気づき、上空を仰ぐ。
 そこには、半月を過ぎた形の月が、風に押し流される雲に今にも飲み込まれそうになりながら、おぼろげな光をまとい、浮かんでいた。
 心なしか、その光がどこか赤みがかっているようにも見え、いつか見上げた同じ空の色が脳裏をよぎる。
(…………)
 何度も力を競い合った拳を無意識に握りしめ、悟空はそのまま小さく地を蹴った。


 ──それより少し前の刻限。
 パオズ山よりも遅い夕暮れの名残りを残す西の空を見据え、佇む薄いシルエットが屋根に細く伸び、ゆらゆらと風になびいた。
 幾度となく暮れていく空の彩りを眺めてきたこの場所は、この家での数少ない彼の落ち着ける場所となっていた。
 少しずつ落ちていく陽の光と、街を照らす明るさが弱まるに従って増していく、夜の色。
 彼がここで過ごしてきた日々と共に、繰り返されてきた日常の光景。
 これからも、この星で、同じ陽が穏やかに巡っていけばいいと。今は素直に、そう思う。
 たとえ自分が、同じ場所で、同じ景色を見ることがもう、できないとしても。
 あいつらがこれから生きていく時間が平らかなものであれば、それでいい。
 肌を刺す風は冷たく、鋭かったが、彼の心中は不思議なほどに曇りなく──静かだった。


「あ、パパ! どこ行ってたの? 探したんだよ」
 屋上から家の中へ戻り、リビングへ繋がる廊下へ出ると、突き当たりの角から顔を出したトランクスが自分を見つけて駆け寄ってきた。
「夕ご飯できたっておばあちゃんが呼んでるから。先に食べといてって」
「……先に? ブルマはまだ帰ってないのか?」
「うん。さっき電話があってさ、少し遅くなるから先に食べててって言ってたよ」
「……そうか」
 このところ、仕事が忙しいのか、ブルマはちょくちょく帰りが遅いことがある。
 彼女の役職を考えれば別に珍しいことではないのだが、彼女が時折見せる物憂げな表情を思い出し、ベジータはふと眉を寄せた。
 仕事に打ち込んでいるだけなら、それはそれで構わないと思った。だが、ブルマの様子からは、それだけではない、どこか切羽詰った焦りのようなものが感じられるのもまた事実だった。
 それが、自分のことと何か関係があるとしたら。
 ただでさえ無理をしがちなところがある彼女に、これ以上負担をかけるわけにはいかなかった。
 ──そのためにも。
「パパ? どうしたの?」
 思案顔で黙り込んだ自分を怪訝そうな目で見上げてくるトランクスの声にふと我に返り、「何でもない。行くぞ」と息子の背中を叩いて促した。
 彼女だけではなく、辛い気持ちを隠して精一杯の明るい顔を見せようとしている、この小さな息子のためにも。
 自分がするべきことは、ひとつだと。
 そう決めていた。


 ──これでいいわ。
 機器類の最後のチェックを終え、ブルマはひとつ息をついた。
 顔を上げれば、窓の外はもうすっかり暗くなり、街灯の明かりがちらほらと見える時刻を回っていた。
 もう少し早く帰る予定だったのだが、どうしても今日中に最終チェックまで終わらせたかったため、今まで作業にかかりっきりだったのだ。
 家には連絡をしておいたので、夕飯は先に食べているだろう。
 片付けを済ませたら、早く帰らなきゃ。
 作業デスクの上の書類をまとめ、データの打ち込みを手早く済ませると、小さく溜め息をつく。
 これで機械の動作に問題はないはずだ。……あくまで理論としては、だが。
 しかし、その確実性を実証するには、おそらくもう、時間がない。
 かすかな望みを繋げるには、あまりにも不確かで、先の見えない可能性。
 けれど、方法はもう、これしかなかった。──自分ができることは、これしか。
 絶えずまとわりつく不安を振り払うように、ブルマはかぶりを降り、なぜか急かすような気持ちに背を押され、早めに家に戻ろうと腰を上げた。


 ブルマがいないこと以外はいつもと変わらない夕食の時間を終え、少しの間リビングで時間を過ごしたあと、一度自室に戻ろうとベジータは腰を上げた。と、
「あ、あのさ、パパ」
「……何だ」
 後ろからかけられた声に振り向くと、トランクスが彼を見上げ、遠慮がちに聞いてきた。
「オレ、昨日の続きの話、聞きたいんだけど……いい?」
「……ああ」
 少し言いにくそうに口を開く息子の問いに、ベジータは視線を和らげた。
 あの日から、自分が教えるひとつひとつの事柄を、トランクスは更に熱心に聞くようになった。
 まだ理解するには難しいだろう異星の高度な言語や学問、宇宙に関する未知の物語。
 それでも彼が語る言葉のただひとつも聞き漏らすまいと、トランクスは真っすぐに彼を見上げ、聞き入っていた。
 今では学校帰りに寄り道もせず、友人の誘いも断って真っすぐに家に戻り、それからできる限りの時間を自分と過ごすようにしていることを、ベジータは何となくだが気づいていた。
 組み手の相手をしてやることはできなくなったが、それでもトランクスが自ら重力室にこもっては技を磨き、それを見てもらおうと懸命になっていることも。
 まだ、これから起こるだろう現実を吹っ切れたわけではないだろう。トランクスが時折、部屋で声を殺して泣いていることも知っている。
 それでも彼は、彼なりに。一生懸命、耐えようとしている。
 ならば、自分にできることは。
 可能な限り、今まで通りに。彼らの望む形で、応えてやること。
 最後まで──いつもの自分で。
 ひた向きな息子の視線を柔らかく受け止め、頭を撫でる。
「昨日まで教えた基礎は、もう覚えたな? だったら、今日はまとめの部分だ。オレが実践方法を見せてやるから、準備して待っていろ」
「うん、わかった! じゃあ、今必要なもの持ってくる!」
 大きく頷き、自分の部屋へ上がろうとリビングを出て行くトランクスの背中を、目を細めて見やった──その瞬間、だった。
 ──ドクン!
「……っ!?」
 突然、胸の奥で起こった強い動悸に、表情が強張る。
 そしてそれは間を置かずにギリギリと引き攣れるような痛みに変わった。
「……ぐっ!!」
 文字通り心臓を直接鷲づかみにされるような、息苦しさと激痛。
 それは今までにない唐突さと強さで、彼を襲った。
(駄目……だ、ま、だ……今、は……!)
 だが、必死に意識を繋ぎ止めようと歯を食い縛り、耐えようとした彼の意思も、そこまでだった。
「ぐっ、ぁ……!」
 軋むような激痛に息が詰まり、視界が揺れる。胸を掴んだ手が震え、支える力を失った身体が大きく傾いだ。
 ガタン!
「!?」
 背後で急に響いた大きな音に驚き、振り返ったトランクスの目に映ったのは、今まさに自分の目の前で崩れ落ちる父の姿だった。
「!! パパ!!?」
 驚愕に目を見開き、トランクスは叫んだ。即座に駆け寄り、倒れた父に向かって呼びかける。
「パパ!! パパ、どうしたの!?」
「あ……ぅ、ぐ……っ」
 身体を揺すって必死に呼びかけるが、ベジータの表情は苦痛に歪み、途切れ途切れの呻きをかすかに洩らすだけで、彼の呼びかけも届いていないようだった。
「パパ!!」
「……ぅ……、ぁ……」
 泣きそうな顔で父の身体を揺するが、洩れ聞こえるのは苦しげな息ばかりで。
 乱れた気が小さくなっていくにつれ、徐々に弱くなっていく声。
「しっかりしてよ、パパ!! パパぁ!!!」
 どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 気が動転するあまり、取るべき行動が咄嗟に浮かばず、涙目で周りを必死に見回したトランクスの目に、壁際のモニターが映る。
 そうだ、ママに……ママに知らせなきゃ!
 何かあったら、すぐに連絡して。そう電話で言っていた母の顔を思い出し、彼は壁に駆け寄ると飛びつかんばかりに受話器を取り、震える手でボタンを押した。


(──!?)
 片付けを済ませ、あとは部屋の電気を消してロックをかけるだけだった、その時。
 急に背筋を悪寒が走ったような胸騒ぎを覚え、ブルマははっと息を飲んだ。
 ──何? この……
 だが、考えるより先に、直感が覚えのある記憶を呼び起こす。
 それは──よく似ていたのだ。あの時の、あの嫌な──。
(……まさか!)
 彼女の表情からさっと血の気が引くのと同時に、机の上に置かれた鞄の中で通信機が鳴り響く。
「!!」
 緊急コールを知らせるその音を耳にした瞬間、ブルマはすぐさま鞄を拾い上げ、通信機に手を伸ばしながらそのまま研究室を飛び出した。


 頬を撫でる空気は冷たく、ひゅう、と細い音が耳をかすめては過ぎ去っていく。
 上空を覆う闇の下、緩やかに流されていく雲とそれに見え隠れする月のおぼろげな明かりが、山のふもとに緩やかに変化していく濃淡の影を落とす。
 うっすらと立ち込めた夜霧の中、常人のそれより遥かに速い勢いで繰り出される拳や蹴りの風圧が辺りを走り、空気の割れる細い音が何度か静寂の中を響き渡った。
 そうしてしばらく、雑念を振り払うように、無心に蹴りや突きの型を何度かなぞっていた時。
 ──ざわり。
 一瞬、彼の周りの空気が揺れ、鋭い風が吹き抜けた。
「──!?」
 はっと目を見張り、動きを止める。
 彼の髪を揺らして走り抜けた風の音が、細く尾を引いて虚空に吸い込まれていく。
 ──ほんのかすかな、刹那のざわめき。
 だが、直接神経に触れるようなその感覚は、彼に「何か」を感じさせるには十分すぎるものだった。
(……今のは……)
 知らず表情を硬くして、視線を巡らせる。
 無言で通り過ぎる疾風に押し流され、重い色の雲が徐々に空を覆っていく。
 その向こうに、かすかな光を残して飲み込まれていく、月の姿。
 ──その中に、見えたのは。
(……ベジータ……!?)
 その呟きも音になることなく、揺らぐ木立の葉音にかき消される。
 地面にうっすらと伸びた、呆然と立ち竦む影が更に薄くなり──やがて、そこにはただ、冷たい風の息吹と共に、静寂をまとった闇だけが残された。

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