目の前を覆っていた暗がりに、ふと光が差した気がした。
「……ん」
顔に当たるその明かりに眩しさを感じ、沈んでいた徐々に意識が浮上し始める。
下りていた瞼が動き、やがてゆるゆるとブルマは目を開けた。
最初に視界に入った見慣れない白い色をぼんやりと見返し、怪訝そうに顔を上げる。
そこでようやくはっきりと頭が回り、少し考えて「ああ、そうか」と胸の内で呟く。
窓から差し込む明るい光に目を細め、気だるげに立ち上がると、軽く首をさすって肩を動かす。
慣れない姿勢でついうたた寝をしてしまったせいか、鈍い痛みが関節に残っている。
少し顔をしかめるが、傍らに視線を向けた時、そんなこともすぐに霧消していった。
「……」
整った眉を憂いの形にひそめ、そっと片手で彼の頬に触れる。
昨夜よりは幾分か顔色がよくなったように思えるが、瞼は伏せられたままで、普段の彼からは想像もできないその翳りのある面差しに、知らず目の奥が熱くなり、唇が噛みしめられる。
──そして、その傍らで、彼の手を握ったまま寝入っている小さな息子に視線を落とし、少しだけ表情を緩めた。
『しっかりしてよ、パパ! 嫌だ、死んじゃ嫌だよ、パパぁ……!!』
意識のない父にすがり、涙を浮かべて叫んでいた息子の顔が思い起こされ、ぐっと喉が詰まり、ブルマは無言でトランクスの頭を撫でた。
昨夜、トランクスからの電話を受けたあと、ブルマはすぐさま行きつけの総合病院へ緊急の連絡を入れ、全力でカプセルコーポへの道を急いだ。
普段から何かあった時のためにいつでも対応できるよう、医師とも連絡を取り合っていたため、医療スタッフが駆けつけるのが早かったことが救いだった。
幸い、処置が早かったこともあり、病院へ運ばれてから数時間後にはベジータの容態も落ち着きを見せ始め、ひとまず危険な状態は脱したと医師から告げられた二人は、心底安堵の表情を涙混じりに浮かべ、それからずっと、殆ど寝ずに彼の傍についていたのだった。
こんな日がいつか来るかもしれないと、頭ではわかっていたつもりでも、いざその事態に直面してみると、頭が真っ白になって何も考えられなくなるものなのだということが、改めて身に染みる。
あと少しで、望みを繋げられるかもしれない。その矢先に突きつけられた、目の前の現実。
怖かった。
二年前の、あの時──彼がもう二度と戻ってこないのだと告げられたあの瞬間に、自分の周りの全てを覆い尽くした悲嘆と絶望感。
それが再び訪れるかもしれないという恐怖。
それを考えるだけで、彼女は震える自らの身体を、かき抱かずにはいられなかった。
自分を落ち着けるようにひとつ深呼吸をすると、陽の光が薄く差し込む窓際に歩み寄る。
カーテンの隙間から覗く外の景色にぼんやりと目を向け、彼女は昨日のことを思い出していた。
『今は、何とか小康状態を保っています。ですが、次に大きな発作が起きた時は、危険かもしれません。心肺機能もだいぶ弱っているようですから、私としては入院が最良だと思うのですが……』
昨夜遅く、ベジータの状態が何とか安定を取り戻したあと、トランクスを病室に残し、ブルマは説明を聞くために医師と対面した。
その時、医師から告げられた言葉が、それだった。
『入院……』
『ええ。今までは自宅療養という形で、薬で辛うじて症状を抑えてきましたが、もうそれも厳しい状態になりつつあります。今度強い発作が起きたら、対応が間に合わない場合も考えられます』
淡々と、できるだけ静かな口調で、初老の医師はブルマに現状をありのままに語った。
それは、彼の身体が、既に日常の生活すら難しい状態にまできているということ。
頭ではわかっているつもりだった。決して見通しのいい話が聞けるはずはないということも。
だが、改めて告げられると、やはりその事実は彼女を打ちのめさずにはいられなかった。
入院など、ベジータの性格からすれば、そう簡単に受け入れるはずもないだろう。だが、そうしなければ危険が増すことも事実。
もう、迷っている時間はない。
しばしの逡巡のあと、ブルマは意を決して面を上げた。
『……ドクター。この間のことなんだけど……ひとつ、私の話を聞いてくれる?』
そうして、彼女は自分の考えをすべて医師に打ち明けた。ただひとつ、一縷の望みを賭けた、最後の方法を。
さすがにそれを聞いた医師は、最初は信じ難いといった顔で彼女を凝視していた。
それが確かに、医療分野の研究の一環として存在していることは知っていた。だが、今まで成功例があったという話は一度も聞いたことがなく、今の技術ではまだ現実には遥か遠い方法だと思っていたからだ。
しかし。
たとえ、限りなく成功する見込みの少ない方法だとしても。それが、望んだ結果を結ばなかったとしても。
できることがわずかでも残っているなら、最後まで諦めることは、したくない。
そう告げるブルマの表情とその決意が紛れもなく真剣そのものであることを認めると、戸惑いを見せながらも、可能な限り協力すると、申し出てくれたのだった。
ブルマは旧知の医師に礼を述べると、既に設備そのものはほぼ完成しつつあること、最終調整が終わり次第、すぐにでも実行に移したいと思っていることを告げた。
最初は半信半疑の感が拭えなかった医師も、話が核心に触れるにつれて真剣な表情になり、すぐに必要な情報を用意して万事に備えることを約束してくれた。
具体的な手筈の説明を一通り伝え、ブルマはその部屋を後にしたのだった。
──それが、昨夜、彼女と医師との間で交わされた会話だった。
自分でも、突拍子のない話だと思う。
目を丸くした医師の顔を思い出し、ブルマは小さく苦笑する。
けれど、自分にできることは、それしかないのだ。
時間を稼ぐことで、望みを繋げることができるかもしれないなら。
そのためなら、何でもするつもりだった。
ただ、最後にひとつ──難題があるといえば、あった。だが、彼女はわかってもらうつもりでいた。
ガラスの向こうの空を見つめる目を細め、踵を返して静かにベッドサイドに歩み寄る。
椅子に腰を下ろし、息子が握っている夫の手にそっと自分も手を重ね、想う。
それでも、自分とトランクスには、彼が必要なのだと。少しでも可能性があるなら、それに賭けたいと。
もう、失いたくない──その気持ちが、今の彼にならきっと、わかってもらえるはずだと。
ただ、それだけを願って。
風が巻き、雲が揺れた。
陽も西に傾いた時刻、ひと気のない山のふもとに広がる平原。その上を、シュン、と一筋の鋭い空気の刃が走り、細い音を揺らめかせて消える。
「……」
小さく息を弾ませながら、しばしそのままの体勢で静止したあと、悟空はゆっくりと腕を下ろした。
確かな手応えを感じなくなって久しい拳を徐に見つめ、視線を上げる。
帯状の流れを作って移動する薄い雲に覆われた空を仰ぎ、彼は知らず硬い表情で、先刻の会話を思い出していた。
昨夜から、あの胸騒ぎがどうしても頭を離れず、かといって夜遅くからブルマを訪ねるのも気が引けていた悟空は、今日になってから修行の前に彼女の家に寄ることを決めていた。
何もなければいい。それが確認できれば、長く邪魔をするつもりはなかった。
だが、陽が高く昇った頃を待ち、急ぎ西の都へと向かった彼は、注意深く探したブルマと、一緒にいるらしいトランクスの気が、カプセルコーポレーションの自宅ではなく、先日訪れた病院の方から感じられることに気づき、表情を曇らせた。
そして、病院の廊下で会ったブルマから、昨夜ベジータが強い発作を起こして倒れたことを聞かされ、悟空は息を飲んだ。
『もう、かなり身体が弱ってるらしいわ……入院しないと、危ないかもしれないって』
『入院……?』
疲れた面差しでそう呟く彼女の言葉に、半ば呆然とした顔で立ち尽くす。
最初はなかなか実感が沸かなかった。だが、こんなに近くでも感じとるのが難しいほどに弱々しくなっている彼の気を探り当てた時、悟空は直感的に悟らざるを得なかった。
医者から入院しなければ命の保障はできないと、そう告げられるほどに、ベジータにはもう、時間がない。
更に、追い討ちをかけるかのように、ブルマの口から語られた事実が、悟空に衝撃を与えた。
ベジータが患っている心臓病の特効薬の開発。その研究に関しても、援助を惜しまなかった彼女の元に、医師からつい先日もたらされた知らせ。
以前の悟空の協力もあって、ウイルスに対する免疫抗体の研究は従来よりも遥かに進んだのは確かだという。
──だが、その薬を実用化するには、どうしてもあと半年以上の時間がかかる。
安全性の確率されていない無理な治療に踏み切っても、それはかえって命を縮める結果にしかならないこと。
それが、今、この時に出せる最終的な結論だったと──彼女は言った。
(……それじゃあ……)
薬が完成するまでは、少なくともあと半年以上が必要になる。
だが、ベジータにはもう、そんな時間の猶予は残されていない。
──それは、つまり。
口に乗せる言葉も見つからず、押し黙る彼に、ブルマは「でも」と顔を上げた。
『でも、まだよ。まだ、できることがある。わたし、そう信じてる。孫くんが協力してくれたことも、無駄にしたくないもの。だから、孫くんも、そんな顔しないで。最後まで、やれるだけやってみるわ。わたしたちの──そして、あいつ自身のためにも』
憔悴の色を浮かべながらも、はっきりと彼女は言った。
強い意志の光を秘めた青い瞳は、余計な言葉を差し挟む余地もないほど、毅然としていて。
彼女が何を考えているのかはわからない。けれど、今ここですべてを任せられるのは、彼女しかいないと思った。
自分が来たことでベジータの気に障るといけないからと、悟空は病室には向かわず、何か役に立てることがあったらいつでも連絡してくれと言い残し、病院を後にした。
それからしばらくの間、平野に出て修行を続けていても、どうしても思い出さずにはいられなかった。
考えても仕方のないことだとわかっている。自分にはどうにもできないことだと。
けれど。
今まで幾度となく相見(まみ)えた時間、何度も鎬(しのぎ)を削りあった拳を見つめ、力をこめる。
『どうした、その程度か? 今日はきさまもこんなものじゃ暴れ足りんだろう?』
『己の望む限り、どこまでも高みを目指す。壁があるなら、超えるまでだ。それまで首を洗って待っていろ』
いつか、彼らしい不敵な笑みでそう言われた日の光景が脳裏をよぎった。
──己の望む限り。
そう。
誰よりも強くありたいという思い。強い相手と思いきり戦いたいと望む心。
生粋のサイヤ人であるが故の本能──自分と同じ、強さへの希求を共有できる、ただ一人の相手。
けれど。
彼の道は今、閉ざされようとしている。かつて自身が同じ危機に立たされたように、自らの力の及ばぬ理由によって。
もう一度、必ず。
いつしか暗黙のうちに互いに思い描いていたその望みも、二度と果たされることのないまま──。
暮れゆく太陽が投げかける茜色の中に、佇む薄く長い影が伸びる。
唇を引き結び、拳を作った手を更にかたく握りしめ。
真っすぐに空を見上げた漆黒の瞳が、強みを増していく朱の光を映して揺れる。
──叶うものなら、今はただ。
もう一度、この拳を交える日が来ることを。
口に出さずとも多くを語り合えるその瞬間(とき)が、もう一度巡ってくることを。
願わずには、いられなかった。