重く、のろのろとまとわりつくようにして過ぎていく一日が終わりを見せ始めた頃。
西日の名残りも徐々に夜の帳へと変じていく中、病室では変わらずベッドの傍らに寄り添う二つの影があった。
窓から差し込んでいた朱色の明かりも次第に弱まり、仄かな薄闇が落ち始めた部屋で、ブルマはちらりと時計を見やり、口を開いた。
「トランクス。あんた、今朝から殆ど何も食べてないでしょ。ここはわたしが見てるから、少し休んだほうがいいわ」
「……ううん。いい。オレ、パパが起きるまで、ここにいる」
母の気遣いの言葉にも小さく首を振り、トランクスはベジータの傍から動こうとしなかった。
幼いとはいえ、彼もれっきとしたサイヤ人の血を引いている戦士なのだから、地球人のそれとは疲労の感じ方も違うのかもしれないが、それでも子供であることに変わりはない。ブルマが心配するのは至極当然のことではあったが、それでもトランクスは可能な限り父についていることを望み、ベジータの手を握りしめ、そこから離れようとしなかった。
昨夜ベジータが倒れた時、その場にいたトランクスの動揺と不安を思うと、ブルマは少し困ったように目を細めつつも、それ以上は何も言えなかった。
と。
視線を落とした先で、トランクスがベジータの左手に重ねて握っている両手を、かすかに淡い光が覆っているのに気づいて、彼女は目を瞬いた。
怪訝そうに少し眉を寄せた表情が、それが彼女の仲間たちが“気”と呼ぶ力の表れであることを思い出すと、少し間を置いて「ああ」と納得顔に変わる。
戦う技術に関してはそれほど詳しいわけではなかったが、彼らが言うところのその“気”の力が、大元の原理を言えば、人間が持つ生命力とも繋がる力であることは、何となくだが理解できていた。
自分の力を分けることで、少しでも、パパが元気になってくれるなら。
そう言ってベジータの傍にいる間中、ずっと彼の手を握っている息子の懸命な表情に、ブルマは目頭が熱くなるのを禁じえなかった。
同時に、その姿を見ていると、自分にはない、父と息子であると同時に、また戦士としての師弟でもある彼らだけの特有の強い絆を感じるようで、そういった特殊な力を持たない彼女は、少しだけ羨ましさを覚えるのだった。
──その時。
トランクスからベジータにもう一度視線を移すと、彼の伏せられた瞼がかすかに動きを見せたのを認め、ブルマははっと目を見張った。
トランクスも、握った手から何かを感じたのか、弾かれたように顔を上げる。
「……」
固唾を飲んで見守る二人の前で、少しの沈黙のあと、ベジータがゆっくりと薄く目を開けた。
「ベジータ……!」
「パパ!」
何度か瞬きを繰り返し、ようやく意識が浮上してきた様子で、彼は涙ぐんだ表情で自分を覗き込んでいる妻と息子を見つめた。
「……おまえたち……? ……ここは、どこだ?」
まだ現状が完全には飲み込めないのか、少し怪訝そうに呟く。
「病院よ。あんた、ゆうべ家で倒れたの。覚えてない?」
「……ああ……」
ようやく見慣れない場所にいる訳を理解し、彼は気だるそうに息をついた。
「……時間は、どれくらい経った?」
「え? えっと……まだ一日よ。あんた、ずっと眠ったままだったから」
「……そうか」
一言ずつ、ゆっくりと飲み込むように呟くベジータの顔を、トランクスが心配そうに覗き込む。
「パパ、大丈夫? まだ、どこか苦しいの?」
「──いや。大丈夫だ」
半べその顔で尋ねる息子に視線を向け、彼は小さく笑みを見せた。
「ずっと、ここにいたのか?」
「う……うん。オレ、何もできないけど……少しでも、パパが元気になってくれれば、って」
父の手に重ねた両手をぎゅっと握り、心細げな声で呟く息子を見つめるベジータの眼差しが、柔らかく細められる。
自分の手を握る小さな手の温もり。ずっと無意識の中で感じていた気の存在を思い、彼は「そうか」ともう一度呟き、息子の頭をぽんぽんと叩いた。
その言葉と仕草に、ぐっと喉を詰まらせてかぶりを振るトランクスを静かに見つめ、次にブルマに視線を上げる。
「おまえも、ずっとここにいたんだろう。殆ど寝てないって顔してるぞ」
「え……ええ。当たり前じゃない……こんな時に」
寝てなんかいられるわけないわよ。そう続けようとしたが、その言葉は飲み込んだ。
自分の病気のために彼女たちに心労をかけることを、彼が避けたがっているのは知っているから。
「でも、昨夜よりはずっと顔色がよくなってるみたいね。先生も今は安定してるって言ってたし……気分はどう?」
「ああ、悪くない」
「そう……よかった」
安堵の溜め息をつくブルマの面差しが少し青白く見えるのは、落とした照明のせいだけではないだろう。それを認めたベジータの眉が、かすかに寄せられる。
「オレのことはもういいから、おまえたちこそ少し休め。間近でそんな辛気臭い顔されてたんじゃ、こっちの気まで滅入っちまう」
「──もう」
こんな時くらい、もう少し気の利いた言い回しできないの。
つっけんどんな台詞にブルマは思わずムッとしたが、彼なりに彼女たちを気遣った精一杯の言葉なのだろう。不器用な彼らしい言い草に、苦笑を浮かべつつ少し表情を緩める。
トランクスも、いつもの調子に戻った父の口調を聞いてようやく緊張が解けたようで、ホッとした表情になった。
「もう少ししたら一休みするわ。だから、あんたも無理しちゃだめよ」
「……ああ」
実際には一日しか経っていない、けれどそれより遥かに長く感じた重苦しい時間。
まだ何も解決したわけではないけれど。それでも、ようやく少しだけ訪れた、ひと時の安息。
今はそれだけでも、いいと思った。
陽も完全に沈み、闇に包まれた都の冬空に、かすかに星が瞬き始めた時刻。
「トランクスはどうした?」
病室に戻ってきたブルマに、少し前に休憩を取っていたはずの息子が一緒にいないことを見て、彼が尋ねる。
「今、一旦家に戻ってるわ。あの子も昨日からずっとここにいたし、一度家に帰って何か食べて休んでくるように言って帰したの。もう少ししたらまた来ると思うけど」
ベッドサイドの椅子に腰を下ろし、ブルマは自販機から買ってきたコーヒーを一口啜りながら答えた。
彼はその返答に、少し眉を寄せる。
「おまえはどうするんだ。まだ全然休んでないだろうが。あいつは多少のことでへばるようなヤワな身体じゃなかろう」
「大丈夫よ。心配しなくても、トランクスが戻って来たら、わたしも少し休むから。……今は、ね。あの子も、本当は帰りたがらなかったのよ。あんたの傍にいたいって」
「……」
「だから、わたしたちのことは気にしないで。大体、あんたがそんなんじゃ、こっちの調子まで狂っちゃうんだから」
「……ふん」
──だから、早く元気になって。
思わずそう続けようとした言葉を、ブルマは舌先で止めた。
そんな簡単な問題ではないことは、重々わかっていた。このまま症状が安定したとしても、医師からは入院を勧められている状態だ。無理に家に戻ったところで、また同じことが起こるのは避けられないだろう。
だが、彼がおとなしくそれを受け入れるとは思えない。
どうやって切り出せばいいものか、彼女は考えあぐねていた。そのまま正直に伝えても、「必要ない」の一言が返ってくるのは目に見えている。
「気を遣わせたな……あいつにも」
ぽつりと洩れた彼の小さい呟きに、はっと顔を上げた彼女の目に、彼が徐に左手を顔の前にかざして見つめているのが映った。
常とは違う、翳りを帯びた漆黒の瞳は、掌を通り越して、どこかここではない場所を見つめているようで。
この状況に、一番歯痒さを覚えているのは他ならぬ彼自身なのだということが伝わってくる。
「……」
何も言えず押し黙る彼女に、彼はふと表情を緩めて視線を向けた。
「疲れたから、少し寝る。おまえも時間をみて休め。いいな」
「え? ……え、ええ」
そして、部屋の中に再び沈黙が下りる。
瞼の伏せられた彼の面差しが、今は余計に痛々しく見えて。
ぎゅっと唇を噛みしめ、彼の手を取り、握りしめる。
時の流れを示す針が、淡々と歩みを刻んでいく。
今、そこにあるのは、息を飲む音すら聞こえそうな静寂だけだった。
「少し時間かかったわね……トランクスも、もうそろそろ来る頃かしら」
腕時計にちらりと視線を落としながら、ブルマは急ぎ足に病室への廊下を進んだ。
外来の時間はとっくに終わっているし、入院患者の見舞い客もまばらになり始めたのだろう。病院の中は時折パタパタと過ぎる足音の他は、ひっそりとした静けさが漂っていた。
エレベーターのボタンを押し、乗り込んだ後ろで扉が閉まる。
身体にかすかな浮上感を覚えながら、小さく息をつく。
先ほどの電話の内容を思い出しながら考えを巡らせたあと、彼女は意を決したように顔を上げた。
ベジータが、次に目を覚ましたら。
はっきりと話そう、これからのことを。
先ほど指示を出すために研究所へ入れた連絡で、現場の実質的な技術チェックを担当している部下から、設備の最終的な調整はほぼ終わりに近づいていることを聞き、彼女はそう決心した。
彼の性格を考えれば、そうすんなりと受け入れてくれるとは思えなかったが、それでも。
話せばわかってくれる。今の彼なら、きっと。
確固たる自信があるわけではないけれど、それでも。
病室の前まで来て、気持ちを落ち着かせるようにひとつ深呼吸をしてから、彼女は静かにドアを開けた。
──瞬間。
「……え?」
刹那の沈黙のあと、目を見開いたそのままの表情で、彼女の身体がその場に凍りつく。
ひゅる、と細い音を立てて冷たい風が頬を撫で、開いたドアから吹き抜ける。
呆然と立ち尽くす彼女の目に映ったのは。
ベッドの上に誰もいない、もぬけの殻の空間だけ、だった。
「……ベジータ?」
思考が止まり、呆然と固まっていた唇からかすれた声が洩れ、その自分の声に反応したかのようにはっと我に返る。
「……そんな……」
青い瞳が動揺に揺れ、ぞくりと悪寒が背筋を走った。
駆け寄ったベッドは、人が寝ていた痕跡が残っているだけでシーツに既に温もりはなく、外気に晒されて冷え切っていた。
どうして。さっきまでここにいたのに。どうして。
混乱に陥りかけた頭を振って自分を叱咤し、部屋中を巡らせた視線の先を、風に煽られて揺らめくカーテンの裾がかすめる。
反射的に駆け寄ると、半分ほど開け放たれた窓から、冬空の冷たい空気がゆるゆると吹き込んできた。
彼は出て行ったのだ。ここから。
何のために?
わからない。でも。
何も告げることなく、彼は黙って出て行った。──誰にも知られないように、ひとりで。
……まさか!
嫌な予感が胸の中の蓋を押し上げ、一気に溢れ出す。
弾かれたように彼女は顔を上げ、踵を返すとそのまま病室を飛び出した。
夜の闇に紛れ、カプセルコーポへとたどり着く頃には、既に月が東の空から顔を出し、昇り始めていた。
少し離れた場所から気配を探り、トランクスもいないことを確かめてから、彼はカプセルコーポの丸い屋根の上に降り立ち、そこから自室の窓へと回った。
ベランダに足をつけ、壁に手をついてしばらく息を整える。
ずっと空を飛んできたわけではなかったが、人目につかないように気を消しながら移動してきたせいか、今はそれでも疲労感を感じずにはいられないようだった。
小さく舌打ちを零し、ガラス戸を開けて部屋の中へ足を踏み入れる。
明かりもつけていない室内は薄暗く、冷え冷えとした空気が漂っていたが、気に留めずそのままクローゼットへ真っすぐに歩み寄り、扉を開ける。
彼は今着ていたものを脱ぎ捨て、奥から取り出したそれを手に取った。
濃い藍色の戦闘スーツと白のブーツ、そして手袋。
彼にしてみれば、もう随分長いこと使っていなかったそれらを、順番に、感触を確かめるように身に付けていく。
最後に手袋をはめた手を徐に握り、そして開く。
常に彼と共にあったその感触は、三ヶ月近くも空白があったとは思えないほど、彼にぴたりと馴染んだ。
開いた掌をじっと見つめ、そしてまた握る。
──すまん。
刹那、脳裏を妻と息子の顔がよぎり、胸の内で彼は一言、呟いた。
あいつは今頃、気づいているだろうか。或いは自分の勝手に怒り、呆れているかもしれない。
だが、オレは結局、最後までオレ自身から離れることはできなかった。
それに、これ以上、おまえたちに沈んだ顔をさせたくなかった。──そんな顔を、見ていたくなかった。
何より、このまま弱っていくだけの自分を、これ以上見せたくなかった。
泣くかもしれない。けれど、これは自分の最後のプライドだった。
勝手な奴。
我が侭で、意地っ張りで、いつもいつも心配ばかりかけて。
そう悪態をつく彼女の顔が浮かび、彼は小さく笑みを浮かべた。
時間はかかるかもしれない。けれど、あいつなら。
あいつらなら、いずれわかるだろう。誰よりも長きを自分と共に過ごした、あの二人なら。
握った拳をゆっくりと下ろし、彼は目を閉じて息を吐いた。
そして、徐にベランダへと歩み寄る。
空を仰げば、まだ真円には満たない形の月が、薄雲に見え隠れしながら、仄かに紅い光を放っていた。
頬を撫でる冷たい空気と、淡い月明かりをしばしその身に感じながら。
彼は無言(しじま)の中に佇み、顔を上げる。
──行くか。
凪いだような静穏と、ほんの少しの微笑みと共に。
薄い影が音もなくふわりと浮かび、徐々に夜の闇に溶け──人の気配の消えた部屋には、月のおぼろげな光を受けて床に落ちるカーテンの影だけが伸び、静かに……風に揺れていた。