おぼろな月も南の空高く届こうかという刻限の、東大陸の夜。
夕食時を終えたばかりの孫一家の自宅で、一本の電話が鳴った。
「……っと。はいはい」
テーブルの上の食器を片付けていたチチが、手を止めて前掛けで手を拭きながらパタパタと走り寄り、電話に手を伸ばす。
「もしもし?」
『──あ、チチさん? あたしよ、ブルマ』
「ああ、ブルマさ」
「!」
妻の口から聞こえた名前に、湯飲みを口に運びかけていた悟空がはっとなり、手が止まる。
『ねえ、孫くんいる!? お願い、いたら代わってほしいの!』
「え?」
どうしただ、と続けようとしたチチの言葉は、受話器の向こうのブルマの妙に焦ったような声に遮られ、彼女は首を傾げる。
「悟空さだか? 今そこにいるけど」
『お願い、すぐに代わって!』
「……わ、わかっただ」
戸惑いつつも、ブルマのただならぬ様子に問い返すのをやめ、チチは後ろを振り返った。
「悟空さ、ブルマさからだ。なんか、すぐ代わってけれって、急いでるみたいだ」
「……ああ、わかった」
表情を硬くして立ち上がり、チチから受話器を受け取る。
「ブルマか? オラだ。どうしたんだ?」
『孫くん! お願い、あいつを……ベジータを探して!』
「え?」
『あいつ、ほんの少し目を離した隙にいなくなっちゃったの! いないの……どこ探しても、どこにも……!』
「なんだって!?」
急に声を大きくした悟空に、後ろにいたチチと、悟飯たちが怪訝そうな目を向ける。
『どうしよう、あいつ、もう戻ってこないつもりかもしれない……そんな気がするの……!』
「落ち着けよ、ブルマ。何があったのか、簡単に話してくれ」
自分も嫌な汗が浮かぶのを感じながら、悟空はブルマをなだめるように言葉を継いだ。
『……あいつ、昨日倒れてからずっとあの病院にいたんだけど、さっき、少し病室を離れた間に、いなくなっちゃったの』
「さっきって、どれくらい前だ?」
『もう、一時間くらい経つわ。一度家に戻ったみたいなのはわかったんだけど、そのあとはもうどこにもいなくて……トランクスが一生懸命探してるけど、気配も全然感じないからわからないって……』
「わかった。オラも今からすぐ探しに行く」
ブルマの震える声から、逼迫した状況であることを直感した悟空はすぐにそう応えた。
『お願い、孫くん……わたし、まだあいつに言ってないの……! わたし、まだ諦めてないって……まだ終わってなんかいないって、言ってないの……!』
「ああ、わかってる。ベジータはオラが必ず探して連れ戻す。だから、心配すんな、ブルマ。おめえがこんな時にしっかりしねえでどうすんだ」
『……そう、ね。ごめんなさい』
悟空に言われて少し冷静になったのか、ブルマの声のトーンが下がる。
「オラも急いで探しに行く。見つけたらすぐおめえのとこに連れて戻るから、おめえはいつでも大丈夫なようにして待っててくれ」
『うん……わかったわ』
じゃあ、と短く返すと、彼は厳しい表情で受話器を置いた。
「お父さん? どうかしたんですか? ブルマさんに、何かあったんですか?」
先ほどから洩れ聞こえた、短い会話の端々からも伝わるただことではない雰囲気に、悟飯が少し遠慮がちに声をかけてきた。
振り返ると、悟飯の後ろにいる悟天とチチも、何かあったのかと気がかりな顔で彼を見返している。
「ああ……」
家族の気遣わしげな視線を受けて、悟空は少し思案顔になる。
悟飯たちも、今の電話が何か緊張を孕んだ内容であることは察している。話してもいいものかとしばし迷うが、今は一刻を争う状況だ。人手は少しでも多いほうがいい。
そう判断した彼は、意を決して顔を上げると、彼らに向き直った。
「悟飯、悟天。わりぃけど、おめえたちも力を貸してくれねえか」
「え?」
「実はな……」
怪訝な眼差しの家族に、悟空は引き締めた面持ちで口を開いた。
ベジータがかつての自分と同じ病を患っていること、確実な治療法がない今は、彼に残された時間がもうわずかしかないこと、身体が弱っている状態で病院から姿を消してしまったこと──ブルマから聞いた事情を、手短に伝える。
最初驚きに息を飲んだ彼らは、しかしすぐに真剣な表情へと変わり、即座に椅子から立ち上がった。
「わかりました、お父さん。僕も一緒にベジータさんを探します」
「ボクも!」
悟飯も悟天も状況をすぐに飲み込んだのだろう、悟空同様に眼差しを引き締めて申し出る。
「すまねえ。オラ一人じゃ時間がかかっちまうだろうから、何かわかったら知らせてほしい」
「わかりました」
「……チチ、そういうわけだから、わりぃけどちょっと出てくる。遅くなっちまうかもしんねえけど」
「ああ、大丈夫だ。おらのことはいいから、早く行ってやってけれ」
振り返って少し遠慮がちに言う夫に、チチは真面目な顔で頷いた。
「……ブルマさ、元気がなさそうだったのはそういう訳があったからなんだな。きっと、すごく心配してるだ、早くベジータさを探しに行ってやってけれ」
「すまねえ。悟飯、悟天、行くぞ!」
「はい!」
「うん!」
妻に頷き返すと、悟空は息子たちを促して踵を返し、玄関のドアに向かった。
悟空との電話を切ったあと、ブルマは震える手で受話器を置き、思わずその場にへたりこんだ。
無人のリビングに流れる静寂が、痛いほどに張り詰めた精神に突き刺さる。
──あれから、病院の中を探し回ったものの、ベジータの姿があるはずもなく、一旦カプセルコーポへと戻ってきた彼女は、まず一番にベジータの部屋へ駆け上がった。
そこにいるわけがないのはわかっていた。だが、確かめずにはいられなかった。
彼女はそこで、彼がここへ立ち寄った証拠を見つける。
脱ぎ捨てられた院内着と、開けられたクローゼットの扉。そして、そこからなくなっているもの。
それが彼がいつも着ていた戦闘服やブーツ、手袋であることはすぐに察しがついた。
常ならば絶やすことのなかった、しかしもう長い間彼が使うことなくしまいこまれていたそれらが、一揃い取り出されているのがわかった。
彼が一度ここへ戻ってきたのは間違いない。
でも、なぜ?
なぜ、今この時に、彼は戦闘服を身に付けて出て行ったのだろう?
勘のいい彼女は、その理由を直感していた。けれど、必死にそれを打ち消すようにかぶりを振る。
まだよ。まだ決まったわけじゃないんだから。
自分自身に言い聞かせ、冷静になろうと努める。
本当は自分も、彼を探しに今すぐにでも飛び出したかった。
けれど、空を飛べるわけでもない自分が探せるところなど限られているし、トランクスたちのように気配を探れるわけでもないのだから、自分が見つけることは到底無理だ。
ベジータは、トランクスや悟空たちが、きっと探してくれるはず。そう信じるしかなかった。
彼らを信じて、たとえどんな状況になっても対応できるよう、自分にはやらなければならないことがある。
自分にしかできないことが。
そう心の中で何度も呟くと、彼女は強張った面差しを上げ、立ち上がる。
──お願い、みんな。
祈りにも似た願いをこめ、ぎゅっと両手を握り、ブルマは不安を振り切るように両脚を叱咤し、リビングを走って後にした。
明かりもまばらな田舎の夜の闇は深い。月明かりがあるだけまだいいほうかもしれないが、それでも条件が悪いことに変わりはない。
夜の帳に目を凝らしながら、悟飯は平原の上を緩やかに飛んで横切った。
自宅を出たあと、闇雲に探し回っても効率が悪いので、ある程度範囲を決めて三人で手分けして探したほうがいいと提案したのは悟飯だった。
そこで、悟空は東大陸周辺を、悟天は中央大陸寄りの地域を、そして彼は西に位置する大陸周辺をあたることになり、ひとまず一時間後に落ち合うことを決め、それぞれ三方に分かれて散った。
心当たりというほどのものはなかったが、都の近くなどの賑やかな場所よりは、おそらく人の気配が少ない場所を探したほうがいいかもしれないと判断し、それから人里離れた森林地帯や岩山などを中心に飛び回っていたものの、手がかりはまったくといっていいほどなかった。
今の彼らからすれば、地上全部を移動するだけなら大した距離でもないし、時間もそうかからない。
だが、あまりスピードを出して飛べば地上の様子を見落としてしまうかもしれないし、何よりこちらの気が近づいてくるのをベジータに気づかれたら、また行方をくらませてしまうかもしれない。
状況が切羽詰っているのはわかっているが、他に方法がなく、悟飯は焦りが沸くのを抑えられなかった。
悟空の話の様子から、ベジータに時間がないことははっきりと伝わってきた。そしておそらく、彼がもう、家族の元には戻らないつもりで出て行ったであろうことも──。
本来ならば、自分が関わってはいけないことなのかもしれない。
だけど。
今頃、必死で父の行方を探しているだろうトランクスのことを思う。
こんな形で、もう二度とお父さんに逢えなくなるとしたら。
彼がどれだけ悲しむか痛いほどわかる悟飯に、放っておけるはずはなかった。
(どうしよう……、どうすればベジータさんを見つけられる……!?)
しかし、見晴らしが悪い上に、完全に気配を消している人ひとりを探すのは、正直、この広い地球上では不可能に近い。
彼が行きそうな場所、というのもそう心当たりがあるわけではないし、このままでは埒があかないのはわかっていた。
おおよその場所でもいい、なにか手掛かりが見つかれば。
一般には目の届かない場所、広い範囲を見通せる方法──。
(……あ、そうだ……!)
そこで悟飯の脳裏にはっと閃きが走り、彼は空中で停止するとくるりと向きを変え、カリン塔がある西大陸へと向かってスピードを上げた。
(ベジータ……どこだ、どこにいるんだ……!?)
薄い明かりを頼りに目を凝らし、ひと気のない山林の上空を、悟空は焦燥感に押されながら飛行を続けていた。
悟飯たちと手分けしてベジータを探しているうちに、既に半時ほどが過ぎようとしている。
ベジータが行きそうな場所、というのも、それほど心当たりが多いわけではない。というより、普段彼らがよく鉢合わせすることが多かった修行場所くらいしか、悟空には思いつかなかった。
彼の性格からして、人目につく可能性のある街の近くにはおそらくいないだろう。となれば、滅多に人が近寄らない山岳地帯や荒野か、大陸から離れたところにある無人島が連なる海域か。咄嗟に浮かぶのは、そういった場所くらいしかなかった。
しかし、今のベジータの身体の状態からして、そう遠くへ行けるかどうか。
昨日、病院で感じた彼のあまりにも弱い気を思い出し、表情が更に硬くなる。
逸る気持ちに押され、悟空は知らず飛行の速度を上げた。
動くものの影ひとつ見逃すまいと目を凝らし、またほんの少しでも何かを感じることができれば、と神経の糸を張り巡らせる。が、そういった人里離れた場所は当然のことながら明かりがなく、より深い夜の帳に包まれている分、視界が悪い。まして、彼が気配を完全に絶っている状態ならば、気を探っていくことも不可能だ。
そのため、悪条件下でも肉眼で探すしか方法がない。気を探ることに慣れている悟空にとっては歯痒いばかりの状況だった。
そうして飛び続けているうち、薄い雲の切れ目から、不意に明るめの光が零れ、辺りを照らした。
少し明るくなった視界に一旦空中に留まり、眼下の光景を見回す。
そこは濃い茶色の岩肌がところどころ剥き出しになり、時折砂塵が舞うほかはまったく生き物の気配のない荒野だった。
高度を下げ、慎重に視線を巡らせているうちに、悟空の脳裏をふとある感覚がよぎった。
「……ここは……」
そういえば。
どことなく特徴を持った、覚えのある景色と風の匂いを思い起こし、ああ、とその既視感の正体に思い至る。
(ここは確か……、初めてあいつと戦った……)
そう。周りを荒れ野に囲まれ、滅多に人も動物も通らないだろうこの不毛の大地。
──そこは紛れもなく、彼らの最初の戦いの舞台となった場所。
いつの間にかたどり着いていたその場所に、悟空はゆっくりと降下していった。
地面に足をつけ、徐に辺りを見回す。
細く空を切る風の音と乾いた土の匂いが、遠い記憶を呼び起こす。
敵同士としての出逢い。互いに持てる力のすべてをぶつけ合い、死力を尽くした激闘。一対一で対峙したあの時、圧倒的劣勢の中ですら身体の奥から湧き上がるのを抑えられなかった、あの血が騒ぐような高揚感。
もう一度、戦いたい。
あの時そう願ったのは、他の誰でもない、自分自身の意思だった。突然の自分の言葉に戸惑い、迷う親友を止めてまでも、いつか必ず──と、彼との再戦を望んだのは。
──けれど。
(…………)
無意識に拳を握り、奥歯をぐっと噛みしめ、悟空は上空を仰いだ。
視界に映ったのは、仄かに紅い光を帯びた月明かり。
──紅い月。乾いた風。砂塵の舞う、赤茶けた大地。
(……!!)
瞬間、ある光景の残滓が、彼の瞳の奥をよぎった。
──そうだ!
あの場所なら、もしかしたら。
直感に背を押され、すぐさま地を蹴って上空まで浮かび上がる。
向きを変えた影の周りを一瞬ビリビリと鋭い空気が包んだあと、ひとすじの閃光の帯が冷えた空気を裂いて走り──真っすぐに、薄闇の中を飛び去っていった。