地上高くそびえ立つ聖地カリンの象徴・カリン塔。それよりも遥か上空に浮かぶ神の宮殿の外に、長身の影が姿を現した。
「……来たか」
先ほどからここへ真っすぐに向かってくる気の存在を察知して、ピッコロは独りごちた。
程なくして、遮るもののない夜空の中に明るい光が浮かび、それは徐々に大きさを増しながら接近し、やがて神殿の上空へとたどり着いた。
「ピッコロさん!」
中空で一旦留まった悟飯は、丁度神殿の外にピッコロが立っているのを認め、降下する。
「どうした、悟飯。おまえが連絡もなしに、こんな時間にここへ来るのは珍しいな」
宮殿の庭へ降り立つと、急ぎ足に自分に歩み寄る弟子に、ピッコロは怪訝そうに尋ねた。
「え……ええ、すみません、急いでたので」
「──何かあったのか?」
どこか緊張を帯びた悟飯の表情に、ピッコロの口調もおのずと抑えめになる。
「いえ、僕は大丈夫です。それよりピッコロさん、ベジータさんが今、どこにいるかわかりませんか?」
「ベジータが? ……それは、探してみないとわからんが……どうした。あいつに何かあったのか」
意外な相手の名前が出てきたことに不思議そうな顔をする師に、悟飯は真剣な顔で頷いた。
「ええ、実は……」
そして、悟空から聞いた事情をかいつまんで説明する。
その知らせに最初こそ驚きの表情を見せたものの、ピッコロはすぐに思案顔になり、少し間を置いて口を開いた。
「そうか。……やはりな」
その呟きに、今度は悟飯が「え」と目を見張る。
「やっぱり……って、ピッコロさん、そのことを知って……?」
思わず詰め寄る悟飯に、ピッコロは「いいや」と首を振る。
「違う。そこまで詳しい事情を知っていたわけじゃない。……ただ、ベジータが、何かを悟っているような……どこか覚悟を決めているような様子があったのは、薄々感じていた」
「え?」
ますます訝しげな顔になる悟飯に、ピッコロは諭すように視線を向けた。
「おまえも覚えているだろう、悟飯。トランクスの誕生日の、あいつの様子を」
「……あ……」
そう言われて、ピッコロの言葉通りに記憶の糸を辿った悟飯が、はっと息を飲む。
そういえば。
少し前の、トランクスの誕生パーティーがあった、あの日。
いつもなら、決して自ら進んで大勢の人の前には出ようとしないはずのベジータが、あの日に限って、どこかしらに姿を見せていたことを思い出す。
そして、記念写真を撮りたいと望むトランクスに応えて、初めて彼が人前で覗かせた父親らしい姿。
今までの彼を知るものならば、おそらく誰もが驚き、意外に思っただろう行動。
もし彼が、その時、既に自分の病のことを知っていたのだとしたら。
普段なら絶対に有り得なかっただろう、家族へ向けた穏やかな笑みを、初めて他人の前で見せた記念写真。
あれは、トランクスのために自分が祝ってやれる最後の誕生日だと、わかっていたから……?
「……あの日、ベジータが家族に向けていた表情と同じ眼差しを、前にも見た気がしていた理由が、今、わかった。あの時のあいつと、似ていたんだ」
「……え?」
回想に沈んでいた悟飯は、ピッコロの静かな声にはっと引き戻される。
自分を見返して次の言葉を待つ悟飯に、彼は少し考え、続けた。
「二年前の、魔人ブウとの戦いの時だ。──初めて、自分が守りたいと思った者のために、死を覚悟して捨て身の攻撃を決意した、あの時のあいつと……同じ目をしていた」
「え……」
悟飯の目が見開かれる。
ベジータが、二年前の戦いで一度死んだことは知っている。だが、その時の詳しい事情までは悟飯は知らなかった。
(死を、覚悟して……? それじゃあ……)
「おそらく最初から知っていたんだろう、自分の命の残りが限られた時間しかないことを。だが、あいつのことだ。そのことを誰にも知られまいと、素知らぬ顔で振舞っていたんだろうな。他人の前では無論、家族の前でも」
「……そんな……」
悟飯の疑問を肯定するかのように、ピッコロが淡々と語る。
あの記念写真を撮った時の、心底嬉しそうなトランクスの満面の笑顔を思い出し、悟飯は思わず奥歯を噛みしめた。
あんなに喜んでいたのに。大好きなお父さんが一緒にいてくれる、それだけであんなに嬉しそうだったのに。本当に。
「そんなのって……」
こんな形で、もう二度と逢えなくなるなんて。そんなの、辛すぎる……!
歯噛みする愛弟子の肩に手を置き、はっと顔を上げる彼を見返すと、ピッコロは言った。
「仮に探し出せたとしても、おそらくベジータに戻る気はないだろう。弱っていく自分の姿など、誰にも……たとえ家族にでも、見せたくないはずだからな。プライドの高いあいつなら、尚のことだ」
「……」
否定はできなかった。彼ならきっと、そう思っているだろう。仮に自分が説得したとしても、それが意味を成さないであろうことも。
「でも……」
「おまえがベジータやトランクスを気遣うのはわかる。……だが、これはあくまであいつ自身の意思だ。ベジータがそう望んでいるのなら、今はひとりにしておいてやるしかないんじゃないのか」
「……」
師の言うことは、多分、間違ってはいない。これは自分が関わるべきことではない。
唯一、彼を動かすことができる相手がいるとしたら、それは多分──。
(……でも……)
返す言葉は見つからなかった。でも──。
あの日の、写真の中の彼らが脳裏をよぎり、やりきれない思いを抑え切れぬまま、悟飯はぐっと拳を握りしめる。
無言で立ち尽くす二人の頭上に、おぼろな月明かりがぼんやりと浮かび──静寂の風がかすかに流れ、夜の空に消えていった。
薄く辺りを覆っていた雲は風に流され、遮るもののない夜空に浮かぶ紅い色をまとった月が、赤茶けた大地を照らしていた。
時折螺旋状に舞う風が砂塵を吹き上げ、細い唸りを残して虚空に吸い込まれていく。
生けるものの気配もなく、風の音ばかりが吹き抜けるその赤い荒野の中を、薄い影がゆっくりと横切っていく。
高度を少しばかり上げ、可能な限り速度を緩やかにしながら、悟空は懸命に視線を巡らせていた。
──ここなら、もしかしたら。
直感に押されてたどり着いたその場所を、隅々までじっと確かめるように見つめながら移動する。
いつかベジータが言っていた、彼らの故郷の星に似ているという赤い大地。
ここになら、彼がいるのではないだろうか。
確信はなかった。だが、もしも彼が最後に選ぶ場所があるとすれば、ここしかないような気がしたのだ。
彼と共に訪れたあの時と同じように、仄かな紅い光に包まれ、乾いた風の音が吹く月夜。
今日のような夜なら、きっと──。
逸る気持ちをこらえ、できる限りゆっくりと、気を抑えながら移動する。
もしベジータがここにいたとしても、自分の気に気づかれれば、また姿を隠してしまう可能性もある。
本当は完全に気を消して、歩いて探したほうがいいのかもしれないが、そうして探すにはここは広すぎる。
だから、悟空は極力気を小さく抑えつつ、なるべく遠くまで見通せるように少し高めの位置から地上の様子を探っていた。
──頼む。ここにいてくれ……!
月が位置を変えていくに従って刻一刻と過ぎていく時間に焦りを覚えながら、見落としのないように、少しずつ、少しずつ進む。
そうして、いくらかの時間が過ぎた頃。
ずっと神経を集中させて眼下の風景を見渡していた悟空の目が、はっと見開かれた。
突出した赤い岩肌が連なる荒れ野の中、少し高台に位置する、切り立った岩の上に開けた地面。
その先に見える、点のように浮かぶ、ひとつの影。
(──!!)
息を飲み、思わずその一点を凝視する悟空の目に映ったそれは。
遠目からでもわかる、逆立った黒髪と、濃い色の戦闘スーツに包まれた身体の輪郭が落とす影。
間違いなく、見慣れた彼の背中。
──ベジータ!!
見つけた。やっと。
知らず安堵の溜め息が洩れ、眉を上げた表情から少し緊張が抜ける。
が、すぐに唇を引き締めると、悟空はゆっくりと、その影が座する地面に向かって真っすぐに下りていった。
そこまで来ているのは、わかっていた。
少し前から、徐々にここへ近づいてくる気。
嫌というほど知っているそれが、誰なのかはすぐに察しがついた。
彼は内心舌打ちし、思案したが、そこを離れることはしなかった。
姿を隠そうと思えばできた。しかし、彼はここを動こうとは思わなかった。
なぜそう思ったのかはわからない。
ただ、動く必要がないと感じたのは、確かだった。
程なくして、彼の背後で土を踏む乾いた音と共に、その気配が降り立った。
地面に着いた足が、細かな砂を踏みしだき、ざり、と音を立てる。
髪を揺らす冷たい風を頬で感じながら、岩の先に座したまま微動だにしない人影を見つめる。
自分に気づいていないはずはないけれど、まったく動かない彼の背中に、何と声をかければいいものか迷いながら、悟空は彼の名を呼んだ。
「ベジータ……」
「何しにきた、カカロット」
だが、振り返る素振りすら見せずに彼が発したのは、その言葉だけだった。
あまりにも彼らしいといえば彼らしい反応に、悟空は一瞬呆気にとられるが、すぐに真剣な面差しに戻る。
「探したぜ、ベジータ。おめえなら、多分……ここにいるんじゃねえかと思った」
「……何しにきた、と言ってるんだ。用がないなら帰れ。邪魔だ」
その声はあくまで冷たく、何の感情も含まれていなかった。後ろを振り返る気配すらなく、背中を向けたままのシルエットは、無言の拒絶を示していて。
「いいや、帰らねぇ。おめえを連れて戻るまではな」
「……」
ぴくり、と彼の気配が動いたように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
「ブルマから話は聞いてる。いなくなったおめえを探してくれって、ブルマもすげぇ心配してたんだ」
「……」
「戻ろう、ベジータ。こんなとこにいたら、身体によくねえ」
「断る。おまえには関係ないことだ。余計な世話を焼くな」
依然として拒む姿勢を崩さないベジータに、悟空は眉を寄せた。
そう簡単に彼が動いてくれるとは思っていなかったが、今はそんな悠長なことを言っている場合でもないのだ。
「オラだけじゃねえ。ブルマもトランクスも、必死におめえのこと探してたんだ。あいつらのためにも、戻ってやってくれよ。頼む」
「……それが余計な世話だと言ってるんだ。あいつから何を聞いたかは知らんが、オレがどうしようとおまえには関係ない」
「そんなことねえ。オラだって、おめえが心配なんだ。あの病気がどれくらい苦しいかってことくらいは、オラにもわかる。だから……」
「……心配?」
ふっ、と呆れの混じった声が洩れ、ベジータは小さく喉を鳴らして笑った。
「おまえにまで心配されるとはな。オレも情けなくなったもんだぜ。それで、オレの無様な姿でも見物に来たというわけか?」
「……! ちが……!」
そんなんじゃない、と言い募ろうとした悟空の言葉は、しかしそこで彼が徐に立ち上がり、ゆっくりと振り向いたことで遮られる。
淡い月明かりの下、真っすぐに向かい合う漆黒の瞳。
あまり感情を見せない面差しも、身につけた戦闘スーツも。いつもの見慣れた姿のはずだった。
だが、今、目の前に本人がいることではっきりとわかってしまう、決定的な違い。
それが、本当にもう、彼には時間がないのだという事実を改めて実感させ、悟空は息を飲んだ。
静かに自分に向けられる視線は、何の感情も見えないようで、それでもなお、彼の意思を表すかのように強い光を帯びていて。
静寂の糸が結ぶ距離の間に、言葉はなく。
同じ色の髪が冷やかな風に揺れ、同じ色の瞳が互いを見据え、沈黙の中で静止する。
一対の無言の影が佇む赤い大地を、十三夜の紅い月明かりだけが、ただ静かに……見つめていた。