寂然(せきぜん)とした薄闇が、細い風の音(ね)と共に荒原を包む。
風化した岸壁の一部が時折からからと音を立てて崩れ、砂塵となって散っていく。
踏み入る者などいるはずのない無人の赤い大地の中、彫像のように立ち尽くす二つの影。
ベジータは、悟空を。悟空は、ベジータを。
互いにこの世でただ一人の同族を見つめたまま、発する言葉もなく。
実際にはほんの数秒だったかもしれない。けれど、悟空にはとてつもなく長く、永遠に続くかのように感じられた無言の時。
だが、静寂の均衡は、彼がふと小さく笑みを洩らしたことで破られた。
その瞬間、悟空もはっと意識を引き戻される。
「話を聞いた、と言ったな。なら、オレがここにいる理由もわかっているはずだ。もう一度言う、これ以上邪魔をするな。帰れ」
「……」
淡々と、抑えた声音で告げられる言葉は、余計な感情を差し挟む余地など微塵もないように感じられた。
わかっている。彼がなぜひとりで姿を消し、ここへ来たのか。
何を想い、この場所を選んだのか。
わかっているつもりだった。
だからこそ──。
「……できねえよ。おめえだけを残して戻ることなんて、オラにはできねえ」
電話の向こうから伝わってきた、ブルマの必死の声を思い出す。
藁にも縋る思いで待っているだろう彼女の心境を思えば、このまま帰ることなど到底できない。
それに、何より──。
だが、どう言えば彼を説得できるのか。
自分にそれができるだろうか。
考えあぐねて口をつぐむ悟空を見やり、ベジータは小さく息をついて再び口を開いた。
「……ならば聞くが、おまえがオレの側だったなら、どう思う?」
「え?」
唐突に尋ねられた言葉に、悟空は思わず目を瞬いてベジータの顔を見返した。
「もしおまえが今のオレと同じ立場だったとしたら、どう思うのかと聞いているんだ」
「どういう、って……」
「同じ病のことならわかると、言っただろう? なら、もしおまえが同じ状況になったとしたら、どうする? 満足に動かすことすらできない身体のまま、情けない姿を人目に晒すことができるか? 最後まで家族の泣きそうな顔を見ながら、ただ寝ているだけの日々に耐えられるか?」
「……それは……」
改めて問われると、返す答えに窮する。
あの時自分は、幸いにも薬によって病を治すことができたけれど。
もし、それが叶わなかったのだとしたら。
病が発症したばかりだったあの時でさえ、あれだけ苦しい思いをしたのだ。それが、治す手立てもなく、進行を止める術(すべ)すらなかったとしたら。
自分とてそんなことになれば、弱っていく身体を歯痒く思い、家族の心配そうな眼差しを重荷に感じたかもしれない。
その先に待っている事実を変えることができないのならば、せめて最後は……と、今の彼のように……思うかもしれなかった。
だけど。
それも、本当に覚悟を決めなければならないその時が来たなら──の話だ。
「……そりゃ、オラだって……おめえと同じことを考えたかもしれねえ。……だけど、今はまだその時じゃねえ。だから頼む、ベジータ。戻ってくれ。おめえと一緒じゃなけりゃ、オラは戻らねえ。そう約束したんだ」
てこでも動く様子のない悟空に、ベジータは大きく溜め息をつき、徐に物憂げな──そして、怪訝そうな目を向けた。
「……なぜだ」
「え?」
「ブルマやトランクスならともかく、なぜおまえがそこまでオレに構う必要がある? オレがどうなろうと、おまえには直接関わりのないことだろう」
真っすぐな、けれど本当に不思議そうな視線を真正面から受けて、悟空は言葉に詰まった。
「それは……だから、ブルマに」
「連れて帰ると言ったから、か? それなら、おまえが心配する必要などない。──あいつなら、いずれわかるはずだ。あいつとトランクスなら……きっとな。それより、おまえ自身がそこまでこだわる理由を言え」
「理由って……」
「さっき言っただろう、もし同じ立場だったなら、同じ行動をしたはずだとな。……ならばなぜ、放っておかない? なぜおまえがそこまで食い下がる? それがオレには理解できん」
少し苛立った声で、彼はじっと目の前の男を──今やただ一人の同族であり、生涯の目標だった男を──見据え、重ねて問いかけた。
「オレは結局おまえには勝てなかった。だが、オレは自分の生き方にも、今まで自分で選んできた道にも、後悔はしていない。……ああ、ひょっとすると、オレを憐れんでお得意のお情けでもかけたくなったか?」
「違う! そうじゃねえ!」
自嘲気味な彼の言い草に、悟空は思わず声を荒げた。
「そんなんじゃねえよ! ……理由なんて……理由なんて、うまく言えねえけど……だけど、オラは……オラも、おめえには死んでほしくねえんだ……!」
彼の命が限られた時間しかないと知った時の、あの衝撃。
もう二度と、彼と拳を交わす日は来ないかもしれない──そう実感した時の、言葉にならない感情。
思えば、考えの見えにくい無表情さや、言葉を交わせば始終不機嫌そうな態度を崩さないところは変わらないけれど、魔人ブウとの戦い以来、かつてのような鋭い殺気が張り詰めた雰囲気は影を潜め、以前のような距離感も隔たりも、彼との間にはとっくになくなっていた。
自分がこの世に戻ってきて以来、何度か共に修行を積んだ日々。無意識に血が騒ぐ満月の夜には、振り向けばそこに感じていた存在。
いつの間にか、当たり前のようになっていたのかもしれない。けれど、それは自分がそう思っていただけに過ぎなかったのだ。
同じ高みを目指し、同じ月を見上げる夜も。同じ高揚感に満ちた瞳で向き合い、思い切り拳をぶつけ合える日も。もう、二度と来ない。
──考えたこともなかった。そんな日が来ることすら。
だから。
生きていてほしい。
それが、今の本心だった。どう言えば彼に伝わるかわからないけど、悟空はただ今の気持ちをありのままに言うしかなかった。
ベジータは束の間少し驚いたように目を瞬いたが、すぐにまた訝しげな面差しに変わり、次にふっと小さく笑みを浮かべて言った。
「──ずいぶんと勝手な言い分だな。それこそ、今まで自分の都合で勝手に死んだり生き返ったりしてきたきさまが言えた台詞か」
「……!」
悟空は一瞬何のことを言われたのかわからずぽかんと目を見張ったが、彼の言葉が指していることに思い当たり、表情が強張る。
──あの時。十年前の、セルとの戦いの時。
地球を救うためとはいえ、自ら消滅の道を選び──そして、自分がいないほうが地球のためだと、蘇生を拒んだ。
それから七年後、魔人ブウとの戦いの中、彼は思わぬことから再びの生を得て、この世に戻ってきた。
勿論、全てが彼の意思で起きたことではない。けれど。
自分が死んだ時──あれほどまでに自分との決着を渇望していたベジータが、どんな思いでいたのか。
はっきりと言われたわけではないが、ブルマからもそれとなく聞いている。
それに、何より。
二年前の戦いのさなか、彼の口から直接語られた激情。
たった一日だけになるはずだった邂逅の日、彼がどれだけそれを望んでいたか。
それまで得たもののすべてを切り捨て、再びその手を血に染めようとも。そうしてまでも、自分との決着に臨んだ彼の決意を。
少なくとも自分はその時、知ったはずだった。彼が長年心の底で抱き続けていた、魂の叫びを。
だが。
「十年前のあの時、おまえはあっさりとオレの前から消えた。決着をつけることもせずにな。そして、魔人ブウとの戦いの前に……オレがそう望んだように、全力を出すことさえしなかった。最高の力で戦うと言っておきながら、更にその上の力があることを隠したまま、な。──違うか?」
「……」
「もっとも、本気を出させるにはオレの力が及ばなかっただけの話だがな。それは事実だ、今更どうこう言うつもりもない。──だが、少なくとも、自分がその価値を認めたことにしか動かなかったはずのおまえが、今頃自分の都合でオレの中に踏み込んでくるってのは、虫のいい話なんじゃないのか?」
「……」
反論はできなかった。
声高に叫ぶわけでも、激しく非難するわけでもない。
ただ、冷静に、淡々と告げられるベジータの言葉は、むしろそれだけに、悟空の胸に苦しさを伴って突き刺さる。
そんなつもりじゃなかった、と言っても、多分それは何ひとつ彼を動かすに足る重さを持ってはいないのだろう。
たとえどんな状況でも、自分が彼の決意を欺くような真似をしたのは、ある意味では事実なのだから。
押し黙る悟空を見やり、ベジータはふっと笑みを零し、空に視線を向けた。
「まあ、それも今となっては大したことじゃないさ。──あの時、目標を見失ったオレに、違う道を気づかせたのは……まだ生きる意味が残っていることを教えたのは、あいつらだ。……迷ったこともあった。だが結局、オレ自身も認めざるを得なかったがな」
今までの自分が生きてきた道とはまるで相容れない、平凡な、ぬるま湯のような穏やかな日々。
こんなものはいつでも壊せる。いつでも消し去れる。
ただ、その理由がないだけだ。
そう思っていたはずだった。
だが、霧の中を漂うように漠然と過ぎていった七年の間に、いつしか自分の中で大きくなっていた存在。
それに気づいている自分と、受け入れることに悩む自分と。
認めることに恐怖にも似た感情すら覚え、一度はすべてを捨てる覚悟をしたはずだった。
けれど。
結局、あの時。自分は最後に、彼女たちのために戻ることを選んだのだ。
生まれて初めて、本心から失いたくないと思った存在を守るために。
そして同時に、自分のために泣かれることの後ろめたさと、後味の悪さを知った。
だから。
「……だからもう、これ以上オレのことであいつらを煩わせたくない。自分ができることは、自分で始末をつける。それが唯一、オレが最後にあいつらにしてやれることだ」
「……」
独白のように呟くベジータの気は穏やかで、透き通っていた。何もかもを受け入れ、覚悟を決めた眼差しは──かつて見たことがないほどひた向きで、真っすぐな光を秘めていて。
そんな彼に、今の自分に言えることがあるだろうか。
悟空は黙って唇を噛みしめ、拳を握りしめることしかできなかった。
今、彼の心を動かすことができるとすれば、それは多分──。
でも。
「……確かに、オラが頼むのは虫のいい話かもしんねえ。……でも、それだけじゃねえんだ。だから、おめえだけを残して帰ることは、オラにはできねえよ……絶対」
唇を噛み、頑としてそこを動こうとしない悟空に、ベジータは再び目を細めて視線を投げ、やれやれと気だるそうに溜め息をついた。
が。
「……まったく、きさまもいい加減、諦めの悪い奴だな。……なら、そのしつこさに免じて、考えてやってもいいが」
「……え?」
少しの沈黙を置いて彼が唐突に発した言葉に、悟空は思わず目を瞬く。
一瞬その答えの意味を掴み損ねて呆けるが、その表情に理解の色がよぎった途端、悟空の眉が上がる。
「ほんとか、ベジータ!?」
「ああ。……ただし……」
だが、安堵を覚えかけたのも束の間。
彼の表情に浮かんだ微かな笑みと、身体からゆらりと立ち昇り始めた光に、はっと面差しが強張る。
「今ここでオレを倒すことができたら、だがな!」
冷気を破り、鋭い声が走った刹那。
紅い月明かりだけが照らしていた闇を裂くように、目映い光が衝撃と共に悟空の前で弾ける。
「なっ…!!?」
急激に変化した周りの気流が鋭利な風の刃となり、細い唸りを響かせて尾を曳く幾筋もの光と共に四散していく。
風圧を受け止めるために咄嗟に両足を踏ん張り、眩しさに顔の前にかざした片手の下で、驚愕に見開かれた悟空の目に映ったのは。
火花を散らし、焔(ほむら)の如く揺れる金色のオーラを全身にまとい──凄烈な光を帯びた翡翠の瞳を彼に向けて立ちはだかるベジータの姿、だった。
「!!?」
突然、神経に直接触れるように走った感覚に、トランクスは空中で急停止した。
弾かれたように振り向き、夜の帳の向こうへと視線を巡らせ、凝視する。
遥か北の方角で、急にその存在を指し示すかのように湧き上がった強い気。
今の今までまったく感じなかったはずのそれは、紛れもなく必死に探していた人のもの。
(──パパ!!?)
間違えるはずのないその気をとらえ、トランクスはようやく父を見つけたことに束の間安堵するが、すぐに疑問を覚える。
でも、どうして急に?
さっきまで全然感じなかったのに。
ごく自然の疑問だったが、今まで感じなかったそれが、これほど急に現れたということは、何か普通ではない事態が起こっているのかもしれない。幼いながらも鋭い彼の直感はそう告げていた。
(パパ!!!)
息を飲んで即座に向きを変えた小さな身体は、今この時にでき得る限りの速さで、脇目も振らず一直線に、父の気を感じる場所へ向かって飛び去った。