<27>

「!?」
 突然弾かれるように感じた気に、神殿の庭にいた二人はハッと反応して顔を上げた。
 彼らのいる場所から遥か下界の、北の方角に位置すると思われる方向。
 そこから急に立ち昇った気と、その強さは。
「これは……ベジータさん!?」
 それが探していた人物のものであることをすぐに察知した悟飯だったが、今の今まで微塵も感じられなかった気配がどうして急に?と疑問符を浮かべた。
 しかしその考えは、その直後にもうひとつの気の存在を認めたことで中断される。
「この気は……お父さん?」
 ベジータの気のすぐ傍によく知った気配があることに気づき、先に父がベジータを見つけていたのかとホッとする。
「……え? ……でも、これは……」
 だが、安堵の色を浮かべかけたのも束の間、同じ場所にいると思われる二人から発せられる荒い気の波を感じ、悟飯の表情が硬くなる。
 二つの気は今や互いの所在を隠そうともせず、はっきりと居場所を示していた。
 ──いや。これは、むしろ──。
「そんな……どうして?」
 交差し、ぶつかり、離れ、そのたびごとに震える大気の波。これでは、まるで────
「ベジータさん……お父さん、どうして!?」
「待て、悟飯!」
 戸惑いと、不穏な予感に背を押されて飛び出そうとした悟飯の肩を、しかし咄嗟に強い力が掴んで引き止める。
「ピッコロさん!? どうして止めるんですか、このままじゃあ……!」
「……」
 何も言わずとも、今ベジータと悟空がどういう状況にあるのか直感的に悟っている悟飯が、咎めるような目で見返してくるのをピッコロは黙って受け止め、首を横に振った。
 彼も、今二人の身に起こっていることがわからないはずはなかった。しかし……いや、むしろ、だからこそ。
「今はオレたちが口を挟む時ではないだろう。……あいつが何を考えているのかはわからん。だが、悟空がそこにいる以上、最後まで……あいつらだけに決着をつけさせてやるべきじゃないのか」
「……それは……」
 改めて諭されると返す言葉がなく、悟飯は唇を噛んでうつむいた。
 彼とて、今この場で自分が動いても、何の解決にもならないかもしれないことは察していた。
 悟空がそこにいるのならば、父に任せるしかないだろうということも。
 だが──。
 あの日の、一枚の写真に収められた穏やかな彼らの姿と、トランクスの心から嬉しそうな笑顔が再び脳裏をかすめ、ぐっと拳を握りしめる。
「……すみません、ピッコロさん。……それでも、僕は……僕には、このまま黙って見ていることなんてできません!」
 押し殺した声でそう絞り出すと、悟飯は師の手を振り切り、下界へと向かって飛び去っていった。
 それ以上は引き止めることもせず、彼の気が次第に遠ざかっていくのを、ピッコロは黙って見送った。
 ──悟飯の性格を考えれば、無理からぬことだろう。かつて自らも、一度目の前で父親を失う苦しみを負い、悲しむ母の姿を目の当たりにしてきた彼にとっては。
 悟天同様弟のように可愛がっているトランクスや、親しく付き合いのあるブルマが、ベジータを失った時にどれだけ悲しみに暮れるか。それが痛いほどわかる悟飯に、何もせずに傍観していることなど、できるはずもないのだろう。
(……)
 頭上に浮かぶ、真円には少し満たない不完全な形の月を仰ぎ、彼は沈黙する。
 ──敵として悟空たちの前に立ち塞がった出会い。更なる脅威に対抗するため、やむなく結んだはずの共同戦線。そうして不本意ながら共に行動していたはずの時間。それらが過ぎていく中で変わっていった感情と、いつしか自分の中で大きな存在となっていた守るべき者──。
 自分と似ていながらも決して馴れ合うことのない、奇妙な縁を持つ相手のことを思い、彼は無言で目を閉じた。
 今、自分にできることがあるとしたなら。最後まで、あいつの意志を見届けてやることだけだろう。
 あの時と、同じように──。
 地上よりも遥かに近い月明かりに包まれる白い神殿の片隅で、静寂と共に佇む彼のマントの裾を、冷ややかな風が音もなく揺らして過ぎ去った。


「待て、ベジータ! やめろ!!」
 次々と飛んでくる気弾を懸命に避けながら、悟空が険しい表情で切羽詰った声を上げる。
「ベジータ、よせ! 今の身体で超サイヤ人になんかなったりしたら、おめえは……!!」
「問答無用!!」
 しかし彼は殺気を秘めた鋭い眼光で悟空を睨み、一切攻撃の手を緩めようとはしなかった。
「どうした、カカロット! いつまでも逃げてばかりじゃ勝負にならんぞ!」
 言うが早いか、彼は両手を左右に広げ、一瞬気を溜める動作を見せたあと、立て続けに気の塊を投げつけてきた。
 いくつものエネルギーの波が弧を描いて夜の闇を裂き、四方から悟空目がけて飛んでくる。
「くっ!!」
 咄嗟に両腕を胸の前で交差させ、短い気合いを発したのと同時に、集中した気功波が次々と炸裂し、爆風と轟音が辺りの空気を揺るがした。
 ビリビリと爆発の余波が放射状に響き渡り、舞い上がった煙がうねりをあげて風に押し流されていく中から現れた、揺らめく金色の光を認め、ベジータの口の端がかすかに上がる。
 瞬間的に気を高めて身体の周りに気のバリアを張り、攻撃を防いだ悟空が険しい眼差しで上空を見上げる。
「ようやくその気になったか」
 同じく超サイヤ人へと変身した悟空の姿に、満足げに薄く笑みを浮かべ、彼はゆっくりと降下する。
「どうした、おまえの力はそんなものじゃないだろう? 超サイヤ人3になったって構わないぜ、全力で来いよ!」
「やめろ、ベジータ! 待っ……!」
 だが、悟空にそれ以上の時間を与えず、ベジータは一瞬地に足を着けたかと思うと、一気にスピードを上げて間合いを詰め、拳を繰り出してきた。
「くっ!!」
 鋭い風圧と共に唸りを上げる拳や蹴りを既(すんで)のところで左右にかわすが、反応が遅れた手刀の先が肩口をかすめ、道着の切れ端がわずかに宙に舞った。
 上体を逸らした反動を利用して片手を地面につき、身体を反転させて何度か後ろに跳び、間合いをはかる。
 ちっ、と小さく舌打ちを零してベジータは悟空に向き直るが、そのほんの数十秒の動きだけで、彼が不自然に息を乱しているのはすぐに見て取れた。
 体調が思わしくない時の超サイヤ人への変化がどれだけ身体に負担をかけるか、悟空は身をもって知っている。まして、今のベジータはあの時の自分以上に危険な状態のはずだ。
 これ以上、こんなことを続けたら。
 息を飲む悟空の背を、冷たいものが走り抜ける。
「やめろベジータ! 頼む、落ち着いてくれ!」
「……落ち着け、だと?」
 くっ、と喉の奥を鳴らし、射抜くような眼光を向け、低く、底冷えのする声音で彼が呟く。
「きさまにわかるか? 身体がまるで言うことを聞かなくなっていく、この感触が……自分の身体が自分のものでなくなっていくこの気分がどんなものか、わかるか!?」
 ぎりぎりと重く押し出された言葉に悟空が表情を強張らせた瞬間、ベジータがわずかに目を見張り、舌打ちする。
「勘違いするなよ。オレは死ぬことに対してそんな甘っちょろい未練など持っちゃいない。……ただ……、歯痒いだけさ。もう一度、この手できさまをぶちのめしてやりたかった……それが叶わなかったことだけがな!!」
 言下に彼の全身から再び鋭い気が発せられ、飛び交う火花が陽炎のように揺れる。
「戦え、カカロット!! それがあの時、オレを生かしておきながら逃げ続けたきさまに残された、最後の決着だ!!!」
「……!!!」
 もう、引き返す道はない。そう突きつけるかのように鼓膜を打った宣告。
 叩きつけられた咆哮に悟空が言葉を失い、呆然と立ち尽くしたのも束の間、ベジータは立ち昇らせた気を両手に集中させ、悟空目がけて撃ち放った。
 はっと我に返り、当たる寸前で気弾の雨をかわしながら跳躍するが、一瞬注意がそがれた隙を突いて、一気に距離を詰めたベジータの拳が襲いかかる。
「はあっ!!」
「!!」
 眼前に迫った拳を紙一重で交わした刹那、熱風が頬をかすめて空を切る。
 矢継ぎ早に繰り出される拳や蹴りの嵐を、悟空は必死に避けようと精神を集中させる。
 この状況では、たとえ自分が攻撃を受けただけだとしても、その衝撃の反動はそのままベジータに撥ね返ることになる。ましてや、反撃などできるはずもない。
 しかし、通常なら既に何発も食らっていてもおかしくない彼の攻撃を、ギリギリとはいえかわし続けていられること──その事実が、逆に悟空の焦りに拍車をかける。
 今まで何度も拳を合わせ、互いの手の内や癖をよく知っている相手だからこそわかってしまう、その違い。
 全体の動きにキレがなく、常ならばもっと速く、重かったはずの拳の応酬も精彩を欠いている。
 だが、それでも。
 彼らを取り巻く熱気と烈風が交差する刹那、対峙する眼差しの鋭さは、変わらぬまま。
 そう、初めて相見(まみ)えたあの時と──。
 瞬間、過去の残像が閃光のように脳裏をよぎる。
 もう一度、彼と戦いたい。決着をつけたい。最初にそう願ったのは、間違いなく自分だったはずだ。
 だけど、今。直面した目の前の現実は。
(違う! オラが……オラが望んでいたのは、こんな形じゃ……!!)
 彼の言う通り、自分が願っていることは虫のいい話かもしれない。でも。
「待て、ベジータ! 頼む、待ってくれっ!!」
 とにかく彼の攻撃を止めさせようと、避けた勢いを利用して大きく身体を逸らし、そのまま一旦岩肌の上へ着地する。
 肩で息をしながら自分を見下ろすベジータを真っすぐに見上げ、悟空は叫んだ。声の限り。
「わかった、ベジータ! 戦おう、気の済むまで! ……けど、今は駄目だ!」
 その言葉に、ベジータの表情がぴくりと動く。
「今は駄目だ! いつかまた、おめえが元気になってから……そうしてから、ちゃんと戦いてえ! そうでなけりゃ、オラは嫌だ!」
 しかしその台詞を聞いた途端、彼の眼差しが一層険しくなる。
「……まだそんな寝言を言ってやがるのか……。つくづく火付きの悪い野郎だ」
 ぎり、と食い縛った歯の奥から低い声が呻くように洩れる。
「違う! そうじゃねえ!!」
 焦りに思考を押し流されそうになりながら、彼は懸命に声を張り上げる。
 どう言えばいい。どう説明すれば彼はわかってくれる?
「早まるな、ベジータ! まだ終わっちゃいねえんだ! きっと……きっと、おめえの病気も治る方法がある! ブルマだって、まだ諦めちゃいねえ! あいつがオラにそう言ったんだ!」
「……!」
 ブルマの名前を耳にした瞬間、張り詰めていた彼の面差しがかすかに揺れ動いた。だが、すぐにその感情の色は押し殺され、殺気を交えた視線が投げつけられる。
「黙れ! 薄っぺらな同情などいらん! きさまに憐れみを受けるくらいなら、死を選んだほうがマシだ!」
 激昂した感情をありのままに吐き出し、彼は荒い息を零しながら、ふ、と薄い笑みを洩らした。
「所詮、どこまでも生温い甘さから抜け切れんきさまに、少しでも期待すること自体が間違いだったな。……きさまにはつくづくがっかりしたぜ、“孫悟空”」
「……!!」
 今まで頑なに、サイヤ人としての名を呼び続けた彼が、初めて自分に向けて口にした、その名前。
 あえて今ここで、この時に、それが意味するものは。
 しかし、思わず思考の止まりかけた悟空にそれ以上の間を許さず、彼は徐に右手を掲げ、全身の気を集中させ始めた。
「もういい。これ以上、きさまに用はない。さっさとこの場から消え失せろ……!」
 だが、全ての感情を振り切った、それでいて凄烈な光だけを宿した翡翠の瞳が、悟空を見下ろした刹那。
 不意にベジータの表情が強張り、言葉が途切れる。
「……っ! ……っ、ぐぅっ!!」
「!! ベジータ!!?」
 突然苦しげな声を洩らし、胸を押さえて身体を折るベジータに、悟空の顔色がさっと変わる。
「っぐ……、が、はっ…!!」
 彼が前かがみに激しく咳き込んだ途端、薄闇の中に飛び散った真っ赤な鮮血。それを目の当たりにした悟空の表情が、その場に凍りつく。
 空中でバランスを失った身体がゆらりと揺れ、傾く。そのまま重力に引かれて落下した身体は、しかし地面に衝突する寸前で彼自身が辛うじて地面に手をつき、持ちこたえる。同時に彼を包んでいた金色のオーラがかき消え、髪の色も超サイヤ人のそれから本来の黒髪へ戻る。
「ベジータ!!」
 すぐさま傍に駆け寄ろうとした悟空の足元を、バシッと音を立てて閃光が弾いた。
 はっと立ち止まる彼の前で、ベジータは荒い息を吐き、今にも崩れ落ちそうになる身体を辛うじて支えながら、声を絞り出す。
「近……寄る、な……!!」
 ギリッと歯を食い縛り、投げつけられる声。手をついた地面に、点々と落ちていく真紅の跡。
 ゆっくりと上げられた漆黒の瞳は、見る者を射竦めるような光に満ち、立ち入ることを拒絶していた。
 その鋭い視線に、悟空は息を飲み、立ち尽くす。
「けど、おめえ……!!」
「いいか…ら、失せろ……! きさま…の、情けなど、受けんと……言った、はずだ……!」
 もう余力など残っていないはずの身体で、それでも彼は力を振り絞って両脚を叱咤し、立ち上がろうとする。
「これ……以上、オレに、構うな……! …っ…、ぐふっ……!!」
 だが、そこまでだった。再び嫌な音の咳と共に地面が血に染まった刹那、張り詰めていた緊張の糸がふっと途切れ、力の抜けた身体がぐらりと揺れる。
「!!」
 支えの芯を失ったシルエットが、ゆっくりと、スローモーションのように傾いていく。
 その時、無意識に瞬間移動を発動させていたのかもしれない。瞬時に間の距離を飛び越え、傍へ駆け寄った悟空が真っすぐに差し出した両腕の中に、彼の身体は崩れ落ちた。
「ベジータっ!!」
 辛うじて抱き留めた身体のぐったりした重さに、悟空の顔からさぁっと音を立てるように血の気が引く。
「ベジータ! ベジータ、おい! しっかりしろ!!」
 だが、懸命に揺すって呼びかけても、返ってくる応えはなく。
 真っ青で生気のない顔、胸元を赤く染める鮮血。ずるりと滑り落ち、力を失ったまま、何一つ反応を示さない手。
 そして、腕の中でみるみるうちに弱まり、小さくなっていく気。今まさに、自分の目の前で消えようとしている、最後の──かすかな、命の鼓動。
 冷たい戦慄が、悟空の身体を突き抜ける。
「駄目だ、ここで……こんな形で死ぬな、ベジータ!!」
 しかし、応えはなかった。力なく瞼の伏せられた両目は、彼の姿を映すこともなく。
「頼む、まだ……まだ行くな! 逝くなベジータ!!」
 返ってくることのない呼びかけを繰り返す掠れた声だけが、空しく夜の無言(しじま)に谺する。

「ベジータぁぁぁぁ────!!!!!」

 乾いた砂塵が巻き、紅い月の光だけが支配する静寂の闇の中を、悟空の絶叫が裂くように響き───沈黙の空に、吸い込まれていった。

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