時は、過ぎる。
様々な人の想いを乗せ、急くことも、歩みを緩めることもなく、誰の上にも等しく、静かに。
移りゆく季節と景色と、決して変わらぬ想いを共に、その流れの中に抱きながら──。
暦の上では真冬を迎え、街行く人も寒さに身を縮めながら足を速める二月の半ば。
ここ数日は大陸全体が大きな寒気に見舞われ、比較的緩やかな気温の変化を見せていた山の天気も一転し、一面に雪化粧を施した白い景色が広がっていた。
「それにしても、急に冷えちまっただなあ。すまねえな、ブルマさ。わざわざこんな雪の中、来るのも大変だったんでねえか?」
湯気の立つ茶器を運んできたチチが、テーブルの上にトレイを置いて言う。
「ううん、そうでもないわ。気にしないで。トランクスなんか、むしろ大喜びよ」
パオズ山の孫一家宅に着くなり、早速雪合戦をするんだとはしゃぎながら、親友と外へ繰り出していった息子の顔を思い浮かべ、ブルマは苦笑した。
「昨夜のうちにずいぶんと積もってただからなぁ。今頃、二人して雪に埋もれてるべ、きっと」
まだまだ幼い我が子の無邪気なはしゃぎ様を思い、母二人はクスクスと笑った。
「悟飯ももうすぐ買い物から帰ってくる頃だし、ゆっくりしてってけれ」
「……そういえば、悟飯くんの受験ももう終わったのよね」
「んだ。結果はまずまずだって言ってたから、きっと大丈夫だべ。これでやっと一息つけるだよ」
ほっと顔を綻ばせるチチに、ブルマもつられて微笑む。
「そしたら、何かお祝いしなくちゃね。今年は年明けにも、忙しくて何もできなかったし」
「そんな、気にすることねえだよ。ブルマさも仕事とか大変だろうから、気遣わねえでけれ」
遠慮がちに言うチチに、ブルマは小さく笑って首を振った。
「いいのよ。むしろ、わたしの方こそみんなに気を遣ってもらってるみたいで何だか悪いし、暗くなってばかりもいられないわ」
「ブルマさ……」
専門的なことまではわからなくても、今ブルマたちがどういう状況にあるのかは、チチも悟空たちから聞いてある程度は知っていた。
表面は努めて平静を保っているように見えても、言葉の端々やふとした拍子に覗かせる、曇りのある表情に気づかないわけはなく、彼女もできるだけそのことには触れないよう、気をつけてはいたのだが。
それでもなお、周りに気を遣わせないよう気丈に振舞うブルマの様子が、今はかえって痛ましげに映った。
と。
「ただいまー! お母さん、今戻りました」
玄関のドアが開いた音と同時に、重くなりかけた空気を振り払うかのような明るい声が届いた。
「あ、お帰り、悟飯ちゃん。ご苦労さまだ」
「いえ。……あ、ブルマさん! 来てたんですね。いらっしゃい」
「こんにちは、お邪魔してるわよ」
両手に買い物の荷物を目一杯抱えて会釈する悟飯に、ブルマも軽く挨拶する。
「寒かっただろ、今お茶淹れるだ。外はまだ雪降ってるだか?」
「ええ、少し。でもさっきよりは小降りになってますよ。これ、キッチンに置いてきますね」
「ああ、お願いだ」
「──ひゅーっ、さみいさみい! 結構積もってたなぁー」
悟飯が買い物袋を抱えてキッチンへ消え、チチが別のカップを出そうと腰を上げたところで、もうひとつの底抜けに明るい声が玄関から飛び込んできた。
「あ、悟空さ。雪かきもう終わっただか?」
「おう。とりあえず家の周りは全部片付けたぞ。この薪、どこ置いとくんだ?」
「えっと、それは半分ずつに分けてから、片方は暖炉と、もう半分は台所の隅にでも置いといてけれ」
「あぁ」
悟空は言われた通りに薪の束を二つに分け、半分をキッチンへ持っていった。
「さて、材料もきたことだし、すぐに昼めしの支度するだよ。それまでには悟天ちゃんたちも戻ってくると思うから、ちょっと待っててけれ」
「──あ、わたしも手伝うわよ、チチさん」
自分に続いて席を立とうとするブルマに、チチは慌てて手を振った。
「そんな、お客さんに手伝ってもらうわけにはいかねえだよ。気ぃ遣わなくてもええだ」
「ううん、わたしも何かやってたほうが落ち着くし。わたしにできることがあれば、手伝わせて」
そう言って笑うブルマの申し出に、チチはそれ以上断ることができず、少し申し訳なさそうに答えた。
「そうだか? ──悪いだな。じゃあ、お願いするだ」
「ええ。そのうちみんなすぐに騒ぎ出すわよ」
腹を空かせて待っているだろう、大飯食らいの怪獣四匹の顔を浮かべ、母親二人は互いに目を合わせて吹き出すと、腕まくりをしながらキッチンへと足を向けた。
料理が出来上がる頃には、外で雪まみれになって遊んでいたチビ二人も、匂いに誘われて家の中に戻ってきた。
リビングのテーブルに所狭しと並べられた料理の山を囲み、賑やかな昼食の時間が始まった。
「あー、ずるいぞ悟天! そのシューマイ、オレが食べようと思ってたのにっ」
「だってトランクスくんも、さっき最後の春巻き食べちゃったじゃないかー」
「ほらほら、そんなことで喧嘩しないの、二人ともっ」
好物の残りを巡って皿の取り合いを繰り広げる子供二人に、ブルマの優しい小言が飛ぶ。
「チチ、これおかわり頼む」
「あ、僕もお願いします」
「はいはい、わかっただ」
揃って大きな丼を差し出す大きな手に、こちらもチチが慣れた手つきでおかわりをよそう。
サイヤ人の食欲の旺盛さは周知の事実だが、その中でもやはり悟空の食べっぷりはひと際目を引くものがあった。
「相変わらずねえ、孫くんの大食いも」
子供の頃から見慣れている、その大人になってもまったく変わらない旧友の仕草に、ブルマが呆れ半分に苦笑する。
「ん?」
まるでリスのように口いっぱいに食べ物を頬張った顔を向ける悟空に、「ううん、なんでもないわ」と呟く。
──もっとも、大食らいってとこは、あいつもいい勝負だったけどね。
思わず口を突いて出かけたその言葉をはっと飲み込む。
せっかく久しぶりに明るい空気に触れているのだ。トランクスもいるこんなところで、暗くなるわけにはいかない。
テーブルの上の料理があらかたなくなったところで、空になった皿を下げながら、チチが「そろそろあれ出してくるだか?」とブルマに訊いた。
「ええ、そうね」
そう言って立ち上がり、キッチンへ足を向けたチチとブルマは、程なくして大きなトレイを両手に抱えて戻ってきた。
「何だ、それ?」
悟空や悟飯が目を瞬き、悟天が興味深そうに首を伸ばす。
「丁度材料があったから、チチさんにも手伝ってもらって作ってみたの」
そう言って卓上に置かれたトレイを覗き込んだトランクスが、小さく「……あ」と呟いた。
「お、いい匂いだな。これ、おめえが作ったんか?」
鼻をひくつかせて尋ねる悟空に、「ええ、そうよ」とブルマが答える。
「おらも前に食べさせてもらったことがあるけど、ブルマさの作ったお菓子はうめえだぞ」
「本当だ、おいしそうですね」
「口に合うかどうかわからないけど、どうぞ。食べてみて」
見慣れぬデザートに顔を綻ばせる三人に、ブルマが笑って勧める。
「わーい、いただきまーす!」
皆がそれぞれに手を伸ばす中、なぜか複雑そうな表情をしていたトランクスに、悟天が「トランクスくん、どうしたの?」と怪訝そうに尋ねる。
「……う、ううん。何でもない。いただきまーす」
「うん、うめえ!」
「すごくおいしいですよ」
「うん、おいしい!」
甘さを控えたアップルタルトと、木苺を乗せたさくさくのパイ。普段はあまり口にすることのない味に、皆が素直な賞賛を述べると、ブルマが「ありがと」とはにかんだ笑みを見せる。
「へぇ、ブルマが料理してんのってあまり見たことなかったけど、うめえんだな」
「……そうね、普段は忙しいからあまりやらないんだけど、母さんがお菓子好きだから、これは自然と作れるようになったわ。……あいつも、甘いものは基本的にあまり食べなかったけど、これだけはよく食べてくれてたっけ」
何気なくぽつりと洩らした一言に、皆の表情がはっと動く。
一瞬止まったその場の空気に、ブルマが「…あ」と目を瞬き、思わず心情を洩らしてしまったことに気づく。
「ごめん、何でもないわ。気にしないで」
沈んだ心を隠すように笑みを作る彼女に、悟空たちは次の言葉に迷った。
──おそらくこれは、ベジータも好んでいた、彼女たちにとっては思い出があるものなのだろう。トランクスが何かを堪えるような、複雑な面持ちをしていたのも、家族で過ごした日常の時間を、思い出したからなのかもしれない。
「うん、これならみんな好きになるのもわかるぞ。もっと食っていいか?」
「え、ええ。キッチンにもまだあるから。みんなも、どうぞ」
「……あ、はい」
迷ったものの、結局そう気の利いた台詞が思い浮かぶわけもなく、そのまま率直な感想を口にした悟空の呑気な声がかえって幸いしたのか、重くなりかけた空気がふっと和らいだのを感じ、皆の顔も緩む。
──どんなに平常を装っていたとしても、ふとした拍子に見え隠れする、彼女たちの背負った影。
何かできることがあるなら、してやりたい。その思いは皆同じだった。──でも、何もできない。
その重さを感じるたび、やり切れない歯痒さを、覚えずにはいられなかった。
賑やかな食事を終え、ひと心地ついた頃、トランクスと悟天は雪合戦の続きをするべく再び外へ飛び出していった。
もちろんその際、寒いのは苦手だとぼやく悟空と悟飯をしっかり引っ張っていくことも忘れずに。
底抜けの体力を発揮するチビ怪獣たちと、彼らに振り回されながら引っ張られていく年長組の後ろ姿を見送り、ブルマとチチはくすっと笑った。
「ほんと、元気ねえ。……でも、普段はなかなか思いっきり遊ぶ機会も少ないから、トランクスもはしゃいでるんでしょうね」
「そんなら悟天ちゃんも同じだよ。遠慮することなんかねえだ、またいつでも遊びに来てけれ」
「ええ、ありがと」
食後のお茶を啜りながら談笑していたとき、ふとチチが真面目な顔になる。
「──なあ、ブルマさ」
何かを思案する表情で、チチは少しためらいがちに口を開きながら、そっとブルマの手に自分の手を重ねた。
「おらたちの前でまで、無理することはねえだよ。……そりゃ、何もできることはないかもしれねえけど……たまには、思い切り本心を打ち明けてくれたってええんだ」
言葉を選びながら、それでも一言一言に真摯な気持ちをこめてそう呟くチチに、ブルマは最初虚を突かれたように目をぱちぱちと瞬いたが、彼女の真意を察すると、柔らかい眼差しを見せた。
「──ありがと、チチさん。……でも、大丈夫よ。わたしもトランクスも、そんなにヤワじゃないわ。それでなくても、チチさんや孫くんたちにはずいぶん助けられてるもの。……大丈夫よ、心配しないで」
「ブルマさ……」
そう言って重ねられた手をそっと握り返し、小さく微笑むブルマの、その痛ましいまでの気丈さに、チチはそれ以上、何も言えなかった。
朝から細々と降り続いていた雪も、午後になるにつれて止み始め、薄い雲の切れ目から差し込む茜色の光が、一面の銀世界に反射してちかちかと煌めく夕暮れ。
また近いうちに会いに来ることを約束し、帰途に着くブルマとトランクスを乗せたジェットフライヤーの機体が夕焼けを映してきらりと翻り、次第に小さくなっていくのを、悟空たちは手を振りながら見送った。
「……ブルマさ、少しやつれたみたいだったな」
西の空へ向かって飛んでいく機体の影が遠ざかり、殆ど見えなくなった頃、チチがぽつりと呟いた。
その小さな声に、悟空や悟飯の顔がわずかに曇る。
「……そうだな」
いかに鈍い悟空といえども、時折陰のある面差しで自分たちを見つめていたブルマの視線に気づかないわけにはいかなかった。
だが、今の自分にできることも、言えることも、あるはずがなく。
努めて、いつも通りに振舞うことしかできなかったのだけど。
「……きっと、辛いと思うだ。──どんなに望んでも、もう絶対に帰ってこねえんだってはっきりわかってるなら、いっそ諦めもつくかもしれねえだ。……けど、戻ってくるかどうかわからない人を、ただ待つことしかできない、いつまで続くかわからない時間のほうが、諦めることより、もっと──ずっと辛いにちげえねえだよ」
「……」
一言ずつ、噛みしめるように呟くチチの、どこか重みのある声音に、皆が一様に神妙な面差しになる。
「強いだな、二人とも」
「──そうですね。ブルマさんも……トランクスくんも」
悟飯が静かに、母の言葉に同調する。
過度な期待を寄せることも、かといって諦めることもできない、希望と絶望の狭間で揺れ動く日々。それがどれだけ彼女たちの心を疲弊させているかは、察するに余りある。
「オラも、多分……おめえたちに、あんな顔させちまってたんだろうな。ずいぶん、すまねえことしちまったな……長い間」
ぼそりと、ともすれば聞き逃しそうなくらいの声色で洩れたその呟きに、チチと悟飯が目を瞬き、間を置いてその表情に理解の色と、少し困ったような、それでいて穏やかな眼差しを浮かべ、黙って彼に微笑む。
つい昨日まで、当たり前のように傍にいた相手が、突然いなくなるという現実。
それが残された者にとっては、どれほど受け入れ難く、深い傷を引きずることなのか。
あいつらなら、きっと大丈夫──何とかやっていけるさ。
何の根拠もなくそう信じていた自分が、結局わかっているようで何もわかっていなかったのだと、今になって思う。
そんな簡単なものではないことは、今のブルマたちを見ていれば、痛いほどに伝わってくる。
おそらく、十年前、自分がいなくなったときのチチと悟飯の嘆きは、自分には計り知れないものだっただろう。
それでも、何も言わずに柔らかな笑みを向ける妻と長男に、ぽりぽりと頭を掻きながら次の言葉を探していた悟空の傍らで、次男が「くしゅん」と小さくくしゃみをする音が響いた。
「ああ、ほら、外はまだかなり冷えるだぞ。そんな薄着じゃ風邪ひくだ。中に入るだよ、みんな」
「はい」
鼻をすする悟天の背を優しく押してチチが家の中へ足を向け、悟飯が後に続く。
「お父さん? 中へ入りましょう、寒いですよ」
玄関のドアに手をかけた悟飯が、空を仰いだままの悟空を振り返り、声をかける。
「……ああ」
少し遅れて踵を返し、扉の前まで来て、ふと足を止める。
勝手にいなくなり、そして突然戻ってきた自分を、それでも昔と同じように迎えてくれた場所。
待っている人と、帰る場所があること。
当たり前のように思っていることこそが、かけがえのないものだと。
今、この時になって、ようやくわかったのかもしれない。
そして、それを気づかせたのは──。
(こんなことまで、おめえに教えてもらっちまったみてえだな……)
素っ気ないように見えて、自分が思うよりもずっと強く、遥かに深い絆が、彼らにはあったのだろう。
だからこそわかる想いの強さと、それ以上に伝わってくる辛さ。
自分はかつて、同じ顔を家族にさせてしまった。だから、同じ思いをさせないよう、自分ができることをしてやりたい。少なくとも、今の自分には、それができるだけの時間がある。
だけど。
今、辛さに耐えている彼女たちを支えてやれるのは、自分ではない。
彼女たちを笑顔にできるのは、彼しかいないのだ。
だから。
戻って来いよ。きっと────
冬の一日の終わりを告げる夕焼けの中、沈黙の影が薄く伸びる。
音になることのなかった呟きは、細い風の音に紛れ──誰に届くこともなく、無言の茜色に溶けていった。