時折吹く冬の風も徐々にその冷たさを和らげ、少しずつ芽吹き始める若い緑の息吹と共に、春の足音が聞こえる頃。
まだ少し肌寒さの残る、三月の晴れた日。東大陸のとある一軒家から、田舎には珍しい大人数の来客の声が、賑やかに響いていた。
「誕生日おめでとう、悟天!」
「悟飯も、大学合格おめでとう!」
朗らかな声が飛び、小さなクラッカーの音がポンと鳴る。
「うん、ありがとう!」
「どうもありがとうございます、皆さん」
悟天が満面の笑みで嬉しそうに答え、悟飯がはにかみながら遠慮がちに会釈した。
おなじみの面々が集まったそこは、パオズ山の孫一家宅。悟天の十歳の誕生日と、悟飯の大学合格祝いを兼ねて、ささやかなホームパーティーが開かれていた。
リビングに設けられた広いテーブルの席を囲んで皆がそれぞれに祝いの言葉を述べ、小気味良い音でグラスが鳴る。
「しかし、悟天もそうだけど、あのちっさかった悟飯がもう大学生かぁ。オレたちも年を取るわけだなぁ」
しみじみとクリリンが呟いた台詞に、皆が思わず苦笑する。
彼を幼い頃から知る者としては、同じような気持ちを抱いているだろう。
中でも、最初に悟飯を鍛え上げた戦いの師であり、ある意味実の父である悟空以上に近い視線で見守ってきたピッコロにおいては、また別の感慨があるに違いなかった。
「こうして見ると、悟空と背恰好も殆ど変わんないもんな。悟飯でこれだけ似てんだから、悟天が大きくなったら悟空と見分けつかないんじゃないか?」
「ふぇ?」
冗談交じりにヤムチャが呟いた言葉に、皆がそうかもしれないと同調する中、当の本人はテーブルの上の料理をかき込むのに夢中のようで、いっぱいに料理を頬張ったままきょとんとした顔を上げた。
その、父親の小さい頃そっくりの仕草に、かつての彼を知る付き合いの長い面々は思わず吹き出す。
「……ま、そうは言ってもまだまだ子供、か」
「──だな」
顔を見合わせて笑う一同のところへ、奥から追加の料理を運んできたチチとブルマ、それにビーデルが大皿を並べながら声をかける。
「さあ、今日はうんと手をかけただからな。まだまだあるだよ、遠慮なくどんどん食べてけれ」
「はい、どうぞ」
「うわぁ、おいしそうですね」
女性陣の力作の山を前に、それぞれが舌鼓を打ち、和気藹々とパーティは進んだのだった。
「しっかし、おまえらほんとよく食べるよなぁ。ビーデルも大変じゃないか? 将来こんなに大食らいの家族ばっか増えると」
「!!」
「えぇ!?」
孫親子が次々と空になった皿を積み上げていくのを呆れ半分に眺めながら、冷やかし半分にクリリンが言った拍子に、悟飯が盛大にジュースを吹き出し、ビーデルが頬を紅くする。
「ちょ、な、なな何言ってるんですか、クリリンさん!」
悟飯が慌てふためいて詰め寄るのを、クリリンが「ははは、冗談だよ、冗談」と受け流す。
「あら、でも台所に立ってるとこなんか、結構様になってたわよ? ねえ、チチさん」
「んだ。きっといいお嫁さんになるだぞ、ビーデルさんは」
「ちょ、もう、ブルマさんまで!」
「お、お嫁さんだなんて」
大人たちの(悪気はない)からかいに、若者二人が頬を真っ赤にしてしどろもどろに口をぱくぱくさせる様子に、和やかな笑いがその場を包み込む。
そんな一幕もありつつ、概ねそのようにして祝いの席は穏やかな雰囲気で進んだ。
そして、テーブルの上の料理も半分以上が空になり、程よく皆の腹が満ちた頃。
せっかくのお祝いの日なのだから記念に、というブルマの提案で、皆が揃っての写真を撮ることになった。
最初は孫一家が一緒に、そして次は悟飯とビーデルが二人で。最後に、みんな揃って。
通常ならば快諾する申し出を、しかし悟空や悟飯たちは少しだけためらった。
誕生日を記念する、みんな一緒の写真。いつかと同じ、どこにでもあるはずの──平穏な、家族の光景。
それは、少なからず、彼のことを二人に思い出させずにはいられないはずだから。
けれど、事前にブルマから「わたしたちに気を遣わなくていいから」と伝えられていた以上、それを面(おもて)に出すわけにはいかなかった。
やや遠慮がちに、けれど当のブルマに背を押され、家族が一同に並んで立つ。
「悟天くん、孫くんに肩車してもらいなさいよ。牛魔王さんが大きいから、そのほうが丁度いいんじゃない?」と、笑顔で彼女が提案する。
彼女の後ろにいるトランクスも、何も言わずに親友の家族の幸せを喜んでくれている。
その好意に、今は少しだけ、甘えながら。
朗らかな声と、穏やかな笑顔と。──そして、ほんの少しの、愁いの瞳と。
思い思いの眼差しを、今ここにある瞬間に、心に留めながら。
シャッターの音と共に、「どこにでもある、けれどかけがえのない」平和な光景が、またひとつ残された。
やがて陽も西に傾き始め、山鳥が家路を急ぐ細い声が山の麓に響き始めた、黄昏時。
パーティも滞りなく終わり、参加していた面々も「じゃあ、またな」と口々に言い、三々五々に散っていった。
「今日は手伝ってくれて助かっただよ、ブルマさ。改めてお礼言うだ」
「そんなことないわよ。わたしも久々に息抜きできたし、楽しかったわ」
母親同士が挨拶を交わす間、見送りに出てきた悟空や悟飯もそれぞれに「また遊びに来いよ」と声をかける。
「うん、みんなもまた、うちに来てね。……うわぁ、ここからだと夕陽がよく見えるなぁ」
笑顔で頷き、西の空を染め始めた夕陽に向かって伸びをしていたトランクスが、ふと視界の隅をかすめた何かに気づき、目を瞬いた。
「……あ、ほら。見ろよ悟天、あっちに兎がいるぞ」
「え、どこどこ?」
庭から見える小高い丘の傍らの草原から、ひょっこり顔を出した二匹の野兎の長い耳が揺れているのを、目ざとく見つけたトランクスが指差し、悟天が目を凝らす。
おそらく親子だろう、大小二つの茶色い毛並みを見つめ、足音を立てないようにそっと近づいた悟天が「うわぁ、かわいいね」と声をあげる。
「しーっ、大きな声出したら逃げちゃうぞ」
トランクスも少し近づいて覗き込みながら、唇に指を当ててたしなめる。
「この兎たちも今からうちに帰るのかな?」
「そうかもな」
そこで二人に気づいた野兎の親子は警戒の仕草を見せ、しばらく彼らを見ていたが、そのうちすぽっと顔を引っ込めると、がさがさと草を鳴らして走り去っていった。
「あ、行っちゃった」
少し残念そうに呟く悟天の傍らで、何かを考えるように黙っていたトランクスが、徐に口を開いた。
「……今なら……」
「え?」
悟天が振り返った先には、唇を少しだけへの字にしたトランクスの表情があった。
「今なら、おまえの気持ちが、少しわかる気がするよ。……よかったな、悟天。今年は、ママも……パパも、一緒にいてくれて」
「え……」
一瞬その言葉の意味を掴みかね、聞き返す悟天に、トランクスはにっと大人びた──それでいてどこか寂しげな──笑みを浮かべ、くしゃっと親友の頭をかき回した。
「今のうちにうんと甘えて、色々教えてもらっとけよ?」
(…………)
だが、その先に浮かんだ言葉を音にすることはなく、トランクスは立ち上がった。
「いいや、なんでもない。じゃ、オレもそろそろ行くよ。またうちに遊びに来いよな!」
「あ、待ってよ、トランクスくん!」
手を振ってブルマのところへふわりと飛んでいくトランクスに、悟天も慌ててその後を追った。
賑やかな一日が終わりを告げ、また普段通りの空気が戻ってきた自宅で、それぞれがくつろぎの時間を過ごす夜。
皆から贈られたプレゼントをひとつずつ開けながら、時折歓声を上げている悟天の後ろから、風呂上りの悟空がひょいと顔を覗かせる。
「お、早速開けてんのか? 悟天」
「あ、うん」
「よかったな、こんなにたくさんもらえて」
「うん……」
だが、そこでふと表情を曇らせ、声を落とした悟天に、「ん、どした?」と悟空が首を傾げる。
すると、悟天が立ち上がり、ややためらいがちに悟空の手を取って彼を見上げた。
「ねえ、お父さん。お父さんはもう、どこにも行かないでしょ? ずっと、ここにいてくれるよね?」
「──え?」
それは子供ながらに真剣な、どこか祈るような響きすら覚える呟きだった。
「……どうしたんだ、悟天。急にそんな顔して」
先ほどまでの嬉しそうな雰囲気から一転した表情を怪訝に思った悟空が、徐に彼を抱き上げる。
「トランクスくんが言ったんだ。今のうちに、うんとお父さんに甘えとけって」
「……え」
その言葉はテーブルに座っていた悟飯とチチにも届いたのだろう、二人の眉がわずかに動く。
「でも、もう、おとうさんはどこにも行かないでしょ? もう、いなくなったり、しないよね?」
「……あぁ……」
悟天が言わんとしていることの真意を察すると、悟空は柔らかい笑顔を見せ、次男の頭をぽんぽんと叩いた。
「心配すんな。オラはどこにも行かねえぞ。これからは、おめえたちと一緒にいるからな」
「ほんと? もう、どこにも行かない? いっぱい、一緒にいてくれる? うんと、遊んでくれる?」
「ああ」
幼い眼差しから憂いの色が消え、はにかんだ笑顔を浮かべて悟天は悟空に抱きついた。
悟飯とチチも、その様子を黙って見つめていた。
父親がいない寂しさを、悟天は生まれた時からずっと抱えて育ってきた。きっと、トランクスのことを、羨ましく思ったこともあっただろう。勿論、悟飯というしっかりした兄がいることが助けになったには違いないが、やはり父親の存在というのはまた別のものなのだ。
悟天も、幼いながらに理解している。今の自分の周りにある存在の大切さ。そして、それをもう二度と手にすることができないかもしれない、トランクスの寂しさを。
大切な人を失ったことがあるからこそわかる、ブルマとトランクスの辛い気持ち。
いや、むしろ、彼女たちが置かれた心境は、自分たちのそれよりも苦しい日々のはずだった。
待つことしかできない時間の向こうに待っているのは、希望なのか──それとも。
──それとも──。
何も言うことはできなかった。
ただ。
今この時に、傍にいる大切な者の存在を噛みしめながら。
彼女たちを笑顔にできる唯一の存在が、戻ってくることを。
今の自分たちと同じ平穏が、もう一度彼らに訪れる日が来ることを。
心の底から。今は、ただ。
想う分だけ、せめてそれが届けばいいと。
そう強く、願いながら。