春の息吹はやがて新緑の季節へと移り、若い緑を潤す雨の時期を経て、早いところではかすかに蝉の鳴き声が聞こえようかという初夏の折。
一見、そんな季節の巡りとは程遠い景観を持つ、とある無人の荒野。
乾いた風と舞い散る砂塵の音のみが響く大地の真ん中に、大小二つの影があった。
上空を横切る細い風の唸りが、耳をかすめ、髪を揺らして通り過ぎる。
向かい合った二つの影の間には、どこか張り詰めた空気が漂い、それが閑散とした光景に、ぴりぴりと緊張感を生じさせていた。
「──いくよ、おじさん」
小さい影が言葉を発し、少し腰を落とすと、真摯な眼差しで身構えた。
「ああ。思いっきり来い」
もうひとつの影もそれを受けて立つように構えを取る。
そして、一時の間を置いた直後。
「──はっ!!」
短い気合と共に、トランクスが地を蹴って跳躍した。そのまま勢いに乗ってまっすぐに、眼前の相手に突っ込んでいく。
バチッ、と熱気が弾け、二つの影がぶつかり合った。
直進してきた一撃を腕で防御し、続けざまに飛んでくるパンチを左右に避ける。
拳を受け止めた腕がわずかながらビリビリと痺れを覚えたのを感じ、悟空は思わず目を見張った。
「たぁああっ!!」
連打される突きを受け流し、蹴りを避け、振り下ろされる手刀を腕でガードする。
そのたびに風圧がびりびりと周りの気流を揺らし、空を切る音が走った。
しばらく至近距離での拳の応酬が続いたのち、双方の腕が交差した瞬間高まった気の熱が火花を散らして弾け、二人は一旦後ろへ引いて間合いを取った。
(さすがに強いや……オレ、かなり本気でやってるのに、まだ一発もまともに当たってないなんて)
かすかに息が弾んでいる自分に比べ、少しも呼吸を乱していない悟空を見つめて胸の内で呟く。
しかしそれも当然のことだ。何しろ、自分が親友とフュージョンしてやっと太刀打ちできるかできないかの勝負だった魔人ブウに対し、目の前にいる相手は一人で互角以上の戦いを見せたというのだから。
当然、最初から勝てるとは思っていない。けれど、やってみなきゃわからないことだってある。
父譲りのプライドが頭をもたげ、トランクスはキッと眦(まなじり)を決して顔を上げた。
一方、悟空もわずかに痺れの残る右腕の感触を覚えながら、目の前の少年の成長ぶりに目を見張らずにはいられなかった。
悟天より一歳年上とはいえ、身体つきはまだまだ子供だ。しかし、その拳から繰り出される一撃の重さは予想以上で、おそらく悟天のそれよりも上だろう。
実際にトランクスと本気の手合わせをしたことなどないのだから、簡単に比較するのは難しいが、魔人ブウとの戦いがあったあの頃より、確実に腕を上げているだろうことが肌で感じられた。
(大したもんだな、まだこんなに小っせえのに……相当鍛えたんだろうな、きっと)
小さな身体から発せられる力強い気と、闘志をみなぎらせた表情に、悟空は驚きながらもどこか頼もしさを感じていた。
話は、一時間ほど前にさかのぼる。
程よく晴れ渡った青い空が広がり、外出には持ってこいの天気だったその日の昼下がり。
チチや悟飯、悟天は休日を利用して街へ買い物に出かけており、残った悟空も修行へ出ようかと準備をしていたところへ、トランクスが一人、突然彼らの家を訪ねてきたのだった。
彼が来ることは聞いていなかったために意外な顔をしつつ、悟飯や悟天は街へ出かけてしまったことを詫びる悟空だったが、トランクスは首を横に振った。
聞けば、何でも自分に用があるのだという。
『え、用って、オラにか?』
『──うん』
真面目な顔で頷くトランクスに、悟空は首を傾げながらも問い返した。
『そんなら、いいけど。で、どうしたんだ?』
その質問に、トランクスは少しためらうような仕草を見せたが、意を決すると顔を上げて言った。
『オレと、勝負してほしいんだ。本気で』
『──へ?』
思わず間抜けな声を出す悟空に、彼は真剣な眼差しを向け、続けた。
『おじさん、前にパパと戦ったことがあるって、言ってたよね』
『え? ……あ、ああ。何度か、な』
トランクス自ら口にした、ベジータの話に悟空は一瞬戸惑う。
それは、自分たちからは極力触れないようにしていたことだったから。
しかし、目の前の少年は真摯な瞳で、彼に重ねて問いかけた。
『パパは、強かったんでしょ?』
『……ああ。強かったぞ』
『だったら、見てほしいんだ。オレがどれだけ、強くなれたか。少しでも、パパに近づけたかどうか、おじさんならわかると思って。だから、本気で勝負してほしいんだ、オレと』
予期していなかった突然の申し出に、悟空は答えに窮する。
何と答えればいいのかすぐには浮かばず、しばし彼を見つめていた悟空だったが、よく見れば、トランクスの格好も、前によく着ていた色の道着ではなく、自分のよく知っている色に──いつも彼と共にあった、深く青い色のそれに──酷似した服を身に付けていることに気づく。
父に似た眼差しはじっと、真っ直ぐな視線を上げ、自分の答えを待っている。
少しの時間をかけて、彼の行動と、その頼みの真意をようやく理解した悟空は、同じく真剣な表情になると、「……わかった」と一言、答えたのだった。
それから、二人は無人の荒野へと場所を移した。
「本気で戦ってほしい」というトランクスの願いに応えるためにやってきたそこは、ベジータとも何度か共に修行を積んだことのある場所でもあった。
無論、トランクスはそのことを知らない。けれど、あれ以来訪れることも少なくなっていたその場所が、なぜか今は相応しいような気が、悟空はしていた。
そうして、一対一で向かい合った真剣勝負。
勿論、いくら本気でといっても、トランクス相手に全力を出すわけにはいかない。だが、手を抜くつもりは毛頭なかった。
それが、トランクスと──そして、彼への最低限の礼儀だと思ったからだ。
小柄な身体を生かして回り込み、矢継ぎ早に攻撃を繰り出してくるトランクスの動きの先を読みながら、左右に身体を揺らして避ける。
それでも時折、熱風のような拳の軌跡が肌をかすめ、知らず受け止める手にも力が入る。
何度か接近戦が続いたあと、再び二人は距離を取って離れ、間合いをはかった。
「やるなぁトランクス。前よりずっとウデ上げたじゃねえか」
「おじさんこそ、やっぱり強いや。……でも、まだまだこれからだよ!」
「ああ!」
短く会話を交わすと、二人はもう一度正面からぶつかり合った。
トランクスのパンチと蹴りを右腕で一度にガードし、一瞬できた隙を突いた悟空の反撃がトランクスの鳩尾に決まり、動きが止まったところへ顎へ拳が叩き込まれる。
「うわっ!!」
自分より遥かに速く、重い一撃にのけぞり、弾き飛ばされたトランクスは、辛うじて身体を反転させると空中にぐっと踏みとどまる。
(くそーっ、負けるもんか!)
「はぁあ──っ!!」
内心で己を叱咤し、トランクスはぐっと両手を引くと気合を溜め、全身からビリビリと揺れる気を立ち昇らせると、両手からエネルギー波を悟空に向けて撃ち放った。
「!」
広範囲に広がる爆風ではなく、しかしその分威力の凝縮された気の塊が、鋭く目標のみに的を絞って直進してくるのを見据え、悟空もすかさず両手に溜めた気を撃って切り返す。
ぶつかり合ったエネルギーの波動が上空で弾け、衝撃と火花がビリビリと空気を揺るがしながら四方に飛び散る。
しかし気弾が相殺された瞬間に視界を覆った光と白煙が、一時の間を置いて晴れたかと思った時、そこにトランクスの姿がないのを認め、悟空がはっと目を見張る。
熱風の残滓が細く尾を引いて消える音だけが辺りを包み、静けさがそこを覆った刹那。
(──!)
咄嗟に集中させた精神が、気の流れを察知する。
自分の背後に不意に現れた気配に振り返り、防御の構えを取るが、それは一瞬だけトランクスの姿を浮かび上がらせてすぐにかき消えた。
はっと目を見開く悟空の頭上で、間髪いれずもうひとつの影が現れる。
「はーっ!!」
「!! うわっ!」
上空からまっすぐに突っ込んできたトランクスの蹴りを既(すんで)のところでかわすが、完全には避けきれずに鈍い痛みと熱気が右腕をかすめた。
そのまま勢いで地上に突っ込みかけた身体をくるりと反転させ、トランクスが中空で急停止し、悟空も避けた反動を利用して距離を開けた。
(──今の、は……)
瞬間的に脳裏をよぎった既視感に悟空が目を瞬く中、トランクスが唇を噛みしめて上を仰ぐ。
「くっそー、もう少しだったのに……やっぱり、まだ完全にはいかないや」
悔しげにそう呟き、トランクスは拳を握った。
(……そうだ、今のは……)
かつてベジータと手合わせした時、彼が自分に見せた技術のひとつ。自分の姿に見せた気の塊を囮に使い、相手の不意を突く戦法。
(間違いねえ。あの時、あいつが……)
瞬間的に気を消し、相手に悟られず死角に回る技術こそまだ未熟なものの、トランクスは紛れもなく父から受け継いだ戦いの知識を実践してみせたのだ。
蹴りがかすめた右腕に、じわりと伝わる熱を感じながら、悟空は何とも言えぬ気持ちで眼下の少年を見つめた。
かすったとはいえ、完璧に成功できなかったことが悔しいのだろう。トランクスが、唇を引き結んで鋭い表情で自分を見上げている。
父親譲りの闘志と眼差しは、大きな力の差を前にしても、微塵も揺らぐことなく。
(──こういうところも似てるなあ、あいつに……)
そんな感慨を覚えていると。
「おじさん、超サイヤ人になってよ」
「え?」
トランクスが突然口を開いたことで、我に返る悟空。
「本気で勝負してって、言ったじゃないか。オレも、今から本気出すからさ!」
言うが早いか、トランクスの周りにビリビリと気の波が立ち昇り、一寸の気合と共に、金色の光が弾けた。
「いくよっ!!」
「え、ちょ……うわっ!」
驚く間もなく、一気にスピードを上げたトランクスが悟空目がけて突進した。
咄嗟に胸の前で交差させた腕に振り上げた拳がぶつかり、火花と衝撃がビリビリと飛び散る。
「くっ!」
さすがに変身する前とは速度も重さも格段に違う。勢いに押され、悟空の身体が後退する。
「たぁああ!!」
続けて、息をつく間も与えまいとするかのように、連続攻撃が矢のように飛んでくる。
それらを辛うじて避けながら、悟空はしばし迷っていた。
が、自分の持てる力のすべてを賭けて挑んでくるトランクスの真剣な気持ちに応えるためには、自分も同じ力をもって戦うことが当然だろうと、心を決める。
「──はぁっ!!」
一瞬気を溜める仕草を見せた直後、悟空の周りにも金色のオーラが浮かび上がり、衝撃と共に空気が一転した。
「うわっ!」
至近距離で急変した気圧に押されて後退しながら、トランクスは悟空を見つめ、わずかに息を飲んだ。
同じ段階への変身とはいえ、その身体の奥から発せられる威圧感は、やはり自分のそれとは違う。
気の弱い者ならば見るだけでも圧倒されるだろう、幾多の戦いを経てきた者のみが持つ、無言の風格。
まっすぐに自分を見据える眼差しには、その力の差を推し測って手を抜くような色は一切ない。ただ、真剣に向き合う闘志だけ。
──父も確かに持っていたその空気を肌で感じながら、トランクスがぐっと身構える。
「そうこなくっちゃ。いくよっ!!」
「来いっ!!」
短い呼応と共に、再び火花が空中に散る。
双方が超サイヤ人へと変身したことで激しさを増した攻防戦が、辺りの岩山を揺るがしながら繰り広げられる。
身軽さを生かし、高速移動を駆使して挑んでくるトランクスに対し、悟空は極力無駄のない動きで攻撃を見切り、時折反撃を撃ち返す。
拳がぶつかり合う刹那、交差する鋭い視線。同じ色の髪と瞳に変化したことで、更に父親そっくりになった容貌は、より鮮明な既視感を悟空の心中に沸き立たせる。
(まるで、小っせえ頃のあいつと戦ってるみたいだな──)
ふと、そんな感慨がよぎった。
やがて時間の経過と共に、動きが激しい分スタミナの消費が早いトランクスの動きが、徐々に鈍り始める。
(くそーっ、でも、まだだ! 最後にせめて……!)
連続攻撃でエネルギーを消耗し、気弾を撃ち続けたせいで、体力も既に残りは少ない。けれど。
「最後に、これでどうだぁっ!!」
拳の衝突で拮抗した力が跳ね返った反動を利用し、大きく後ろに引いて間を取ったトランクスは、両手を大きく広げ、一気に全身の気を高める。
「はぁ──っ!!」
「!」
急激に高まるその気の大きさに悟空の目がはっと見開かれ、反射的に迎撃体勢を取る。
「くらえーっ! ビクトリーキャノ──ンッ!!」
気を極限まで集中させた両手を胸の前で瞬時に合わせ、収束させたエネルギーを一気に撃ち放った瞬間──その小さな身体の向こうに、悟空は確かに『彼』の影を見たと、思った。
「──あーあ、結局オレの完敗かぁ〜。一発くらいはまともに当てたかったなぁ。ちぇ、わかってても悔しいや」
黒く煤けた顔をやや不満げに膨らませ、トランクスは草原の上にごろりと寝転んだ。
「せめて最後のくらいはもう少しダメージあるかと思ったんだけどなぁ。ちょっとショックかも」
「そんなことねえさ。最後のは結構効いたぞ? 一瞬だけど超サイヤ人2になっちまったしな、オラ」
「ほんと?」
「ああ。それくらい強烈だったぞ。おめえ、すげえな。相当修行してたんだな」
「……うん。でも、まだまだだなー。先は長いや」
不貞腐れたようにぼやく少年の傍に腰を下ろし、悟空は苦笑しつつ正直な感想を述べた。
実際のところ、最後の攻撃はそうでもしないと完全に押し切ることは難しかっただろう。それくらいの威力があったのは確かだ。
それに、何より。彼の得意としていた気功波の技。それにそっくりな攻撃の型に、一瞬だが彼の姿が重なって見えたのは、幻だっただろうか。
(よく見てたんだな、あいつを──)
少しずつ、だが着実に目標へと近づいている少年の一途な想い。それは拳を合わせる中で、ひしひしと伝わってきた。
「おじさんもそうだけど、強かったんだなぁ、パパは。……まだまだ追いつけないや、オレ」
ぼそりと呟かれた言葉に、悟空の表情が少し曇る。
「──ねぇ、おじさん。昔のパパは、どんなだったの?」
「え?」
「パパが昔、悪いこともやってたんだって話は、ママからも聞いてるよ。……けど、それ以外の話、してもらったことないから。昔のパパのこと、殆ど何も知らないんだ、オレ」
真面目な瞳に見上げられ、悟空は思わず言葉に詰まった。
改めて問われると、何をどう話せばいいものか、急には出てこない。
──それに。
(昔の、あいつか……)
思い浮かぶのは、初めて彼と対峙した日の光景。
そして、ナメック星での戦い。
それから地球へ来た頃のこと。
けれど、考えてみれば、自分も彼自身の過去は、殆ど知らないことに気づく。
かつて存在したサイヤ人の惑星、その星の王子だったことは知っている。そして、母星が消滅してからは、フリーザの配下で宇宙を渡り歩いていたことも。
だが。
実際に彼がどこで何を見、何を思い、どうやって生きてきたのか。
確かにかつては冷酷で、非情な男だった。敵同士として出会った自分たちの間に、最初は嫌悪と憎しみしかなかったのも事実だ。
だが、彼のその生き方の奥に何があったのか、自分は知らない。
──知らない、けれど。
「……強かったさ。昔から……あいつは、どんな時でも──自分の誇りを失わない、強い奴だったよ、きっと」
ぽつぽつと、言葉を選びながら呟く自分の話を、トランクスは真剣な目で見つめ、聞き入っている。
本来なら、自分の役目ではないのかもしれない。むしろ、話を聞いたことがあるという分、ブルマのほうが何か知っているのではないだろうか。
それでも。
少しでも、父のことを知りたい。自分が知らないことを、もっと。
そんな一途な視線を向けてくる少年の心情に、自分が答えてやれることがあれば。
そう考えながら、悟空もまた思いを馳せる。
(おめえも、いい息子を持ったじゃねえか。──なあ、ベジータ……)
今は遠く、深い眠りの中にいるのだろうただ一人の同胞に向かって、心の内でそっと呟く。
トランクスがこれだけ彼を慕い、目標として追いかけていることからみても、ベジータがあの無関心そうな面差しの奥で、どれだけ家族に対して深い情を持って接していたのかがわかる。
知っているようで知らなかった、彼が持つもうひとつの表情のかたち。それを改めて気づかされたような、何とも言えぬ感慨を覚えながら、悟空は確かに彼の面影を受け継ぐ少年を、目を細めて見つめるのだった。
そうしているうちに時間は過ぎ、高く昇っていた陽も西に傾き始めた頃に、トランクスが「オレ、そろそろ帰るよ」と腰を上げた。
「今日はありがとう、おじさん。また、オレがもっと力をつけたら、もう一度勝負してほしいな。いい?」
「ああ。勿論だ。いつでも待ってるぞ」
悟空は笑顔で頷いた。
──出来得ることなら、次にその希望を叶えてやるのは、自分でなければいいと思いながら。
「じゃあ、今日はこれで帰るよ。悟飯さんや悟天にもよろしくね。……っと、うわ」
そう言ってふわりと宙に浮かんだトランクスは、しかし思わずふらついてバランスを崩した。
「! おい、大丈夫か?」
それを見た悟空が慌てて手を差し出す。
「あはは、へーきへーき。ちょっと体力使いすぎて疲れただけだよ。このくらい何とも……わっ!」
明らかに疲労の色を濃く残す顔で、それでも強気に笑みを見せるトランクスにかすかに眉を寄せた悟空が、彼の手を引っ張って引き寄せる。
「えぇ? ちょ、ちょっと、おじさん!」
「いいからいいから。おめえ、そんなんじゃ飛ぶのも相当疲れるだろ。オラがおめえんちまで送ってくよ」
少々強引に背中に乗せられ、トランクスが慌てる。
「い、いいよそんなの! 一人で帰れるからさ!」
気恥ずかしさから逃げようとするトランクスだったが、その手をしっかり掴んだ悟空が、少し落とした声音で後ろを振り返りながら言った。
「ムチャすんな。あれだけパワー使えば、もう立ってるのもきついはずだろ。それくれえわかるさ。さ、行くぞ」
にかっと笑って返事を待たずに悟空は地を蹴り、西の都へ向かって飛び立った。
「うー、もう」
頬を膨らませながらも、トランクスはそれ以上抵抗しようとはしなかった。
正直なところ、殆ど全力を使い果たした身体は、早めの休息を必要としていた。
何より、不本意ながらも、乗せられた背中の温かさにどこか安堵感が沸き起こり、緊張が緩む。
同時に、ある記憶がふっと脳裏をよぎり、彼は無言になる。
それはいつかの──たった一度の、大切な思い出。
「…………」
無意識に作られた拳が悟空の道着を握りしめ、小さな背中がかすかに震えた。
「ん? どうした、どこか痛むのか?」
それに気づいた悟空が心配そうに振り返るが、トランクスはうつむいたまま、首を横に振った。
「違う、よ。……ただ、思い出したんだ。前に、一度だけ……こうして、パパに背負ってもらったこと」
「……!」
息を飲む悟空の背中で、わずかに掠れた声がそう告げる。
「パパと一緒に、外で修行してて、さ。オレがドジだったんだけど、防ぎきれなかった攻撃を思いっきりもらっちゃったんだ。それで、しばらく立てなくなっちゃって。そしたら、パパが」
『──まったく、だから目に見える攻撃ばかりにとらわれるなと言っただろう。……大丈夫か』
そう言って差し出された手の力強さ。有無を言わさず背負われた時の驚きと、一瞬遅れてやってきた嬉しさ。初めて頬を寄せた、逞しい背中の温もり。触れた肌から間近に感じた、穏やかな気。
言葉を途切れさせ、耐えるようにぐっと手を握りしめるトランクスの背中を、広い手がぽんぽんと優しく叩く。
「いいんだ、我慢すんな。泣きてぇ時くらい、思いっきり……泣いたっていい」
「……」
それでも頑なに堪えようとしていたトランクスだったが、やがて抑えきれなくなった嗚咽が零れ始める。
「……パ、パ……」
しわがれた声が洩れ、水滴がぽつぽつと手の甲を濡らした。
「帰って、きてよ……。……会いたい……、会いたいよ、パパぁ……」
普段抑えていた感情の波が一気に噴き出したのだろう、道着にしがみつきながらしゃくり上げる声を、黙って受け止める。
──今はそれしかしてやれない自分に、歯痒さを覚えながら。
影はゆっくりと、西の空を目指して飛んだ。
今は、ただ。
せめて自分がこうしてやることで、背負った小さな温もりの、辛い気持ちが少しでも和らぐようにと。そう、願って。
それから程なくして西の都へ辿り着いた悟空は、半ば泣き疲れるような形で寝入ってしまったトランクスを、簡単な事情を説明してブルマに預けた。
事の次第を悟空から聞いたブルマは、「……そう。──ありがと、孫くん」と複雑な面持ちで息子の頭を撫でながら、小さく呟いた。
短い挨拶を彼女に告げてカプセルコーポを後にした悟空は、パオズ山への家路を辿りながら、無意識に握った拳を見つめ、開いてはまた握る。
その時西の空から差し込んだ光を受けて、彼はふと飛行を止めた。
眼下に広がる草原も海も岩山も、すべてを一色に染める紅い光の中に佇み、思い起こす。
──自分に向かってきた小さな身体の、あのひた向きな眼差しの向こうに、確かに垣間見えた面影。
何度も己の力を競い、正面からぶつかり合った重い拳の感触。
淡い月明かりの元、共鳴しあうかのように交差した昂揚感。
本能ゆえに時折戸惑うこともあった自分の感情を、唯一、ごく自然のこととして受け止めていた眼差し。
まるで昨日のことのように甦るそれらの記憶を噛みしめ、ぐっと拳を握る。
もし──。
何度も自問した、答えの出ない問い。
聞き入れる者も、答えを知る者もいない思いを、抱えたまま。
ただ、明日へと繋がるこの朱の光に、一縷の願いを託すほかはなく。
頬を切る上空の風は冷たかったが、茜色に溶けこむように浮かぶ影は、無言のまま、その場から動こうとしなかった。
どの空にも等しく、太陽と月は巡る。
時の流れを交互に刻み、まだ見ぬ明日へと繋げながら。
季節は緩やかに、大地と、人と、街の上とを通り行く。
蝉の声高く響く真夏と、徐々に陽の影が変化を見せ始める晩夏と。
そして木々を染めた彩りがひらひらと舞い落ちる、落葉の頃を過ぎ。
都を包み始めた冷かな風の息吹と共に、それから再びの冬が──密やかに、訪れようとしていた。