夢を、見ていたような気がする。
もうずいぶん前から、いつから始まったのか、いつ終わるのかもわからない、長い夢を。
──いや、どちらが夢で、どちらが現(うつつ)だったのか。
闇の中に、ぼんやりと漂いながら眺めているような、覚束ない感覚。
上も下も、右も左も。前後の区別も、空気の流れも、時間の感覚すらおぼろげな世界の中に。
ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか。
何かを懸命に追うように、ずっと走り続けていた気がする。
或いは得体の知れない何かに飲み込まれそうになり、逃れようと必死にもがいていた気もする。
それでいて、時折温かな何かに触れていたような。
様々な感覚だけが水泡のように浮かび上がり、しかしその手に掴むことはできないまま、掻き消える。
思い出そうとしても、すべてが深い霧の中に包まれたかの如く不鮮明で、不透明だった。
と。
暗闇の中に淡い光が不意に現れたのを感じ、彼はそこへ意識を向けた。
光は徐々にその大きさを増しながら、ゆっくりと、その形を現わにしていく。
次第に彼の目に──否、意識の中に──映し出されたそれは、どこかの城の中だろうか、王座の前に敷き詰められた真紅の絨毯の上に経つ、まだ幼い体躯と面差しに、鋭い瞳を備えた小さな人影。
──ああ。
紅いマントを背に、謁見の間に控えた従者や側近たちを冷たい目で見据えるその眼差しに、彼は遠い記憶を思い起こす。
あれは、昔の自分だ。
霞みがかっていた映像が、徐々に脳裏に甦り始める。
王子として生まれ落ちたその時から、一族の上に立ち、戦いの中に生きることを定められた日々。
それに何の疑いも持たず、ごく当然のこととして受け止め、その通りに生きてきた。
戦闘民族の長たる王族の嫡子として、その足で眼前に傅(かしず)く一族の前に立った日。その類稀なる力で、見る者を刮目(かつもく)させた初陣の日。今は無き故郷の星で過ごした、ごく短い時間。
陽炎の如く浮かび上がるそれらは、淡く明滅しながら過去の残像を映し出し……一瞬視界が暗転した後、別の光景に変化した。
(…………)
それは長い時間を経ても決して忘れ得なかった、屈辱と忍従の日々。
フリーザを初めて目にした瞬間。その圧倒的な力の前に不本意とはいえど従わざるを得ず、奴に命じられるまま惑星フリーザへ赴いた日のこと。
そして、惑星ベジータの消滅。
還るべき星が消えて無くなったと、スカウター越しに伝えられた時も、ことさら特別な感情は沸かなかった。
所詮はフリーザの力の前に魂までも屈し、奴の手駒になることしか選べなかった奴らのことなど、どうでもよかった。隠した牙を磨くことすら忘れ、下等な猿と陰で罵られながらも、奴の下に付き従うことに何の疑念も持たなかった連中など、最初から滅びる道しかなかったというべきだろう。
親も兄弟も、仲間もない。半端な情けなど、己の足を引っ張るだけのくだらない感情だ。
必要なものは、ただひとつ。信じられるのは、己の可能性のみ。
今はフリーザの下につくことに甘んじていても、いつか必ず奴を超える力を身に付け、奴の首をこの手で獲る。
自分を生かしておいたことを、必ず後悔させてみせる。
そう自身に誓い、戦いに明け暮れた日々。
たとえ母星にいたとしても、王子という身分上、自分には満足な手合わせの相手もおらず、目に見える戦闘力の向上は大して望めなかっただろう。
ならば、外へ出て実戦経験を積み、力をつけるには、フリーザ軍にいることはかえって好都合ともいえた。
常に最前線へ赴いては、数え切れない敵を屠(ほふ)り、無数の瓦礫の山を築き、己の経験の糧としていった。
すべては、この手でフリーザを倒すために。
そのためなら、利用できるものは利用するのみ。そのためなら、何を犠牲にしても構わない。
そう考え、ただひたすらに“力”のみを追い求めていた過去の残像が次から次へと浮かび、揺らめいては消えていく。
そして、再び視界が暗転したかと思うと、また別の色をした光が姿を見せた。
そこに広がっていたのは、荒涼とした岩肌が無数に連なる光景。乾いた風が細く唸りを発して吹き過ぎる不毛の大地に、正面から向かい合い、佇む、一対の影。
──そう。
フリーザの命令のまま星の制圧に赴く日々を費やしていた中、不意にもたらされた情報に興味を持ち、訪れた辺境の碧い星。
そこで初めて相見(あいまみ)え、その後の彼の運命を大きく変える結果となった、最後の同族との出会いと、死闘。
それはある意味、今までの彼の存在意義そのものすら根本から揺るがせる、決定的な転機となった。
同族の、しかも一下級戦士に敗れたという事実は彼のプライドを打ち砕き、決して忘れ得ない屈辱となって彼の記憶に刻み込まれることになる。
追い詰められ、やむなく撤退するしかなかった地球での戦い。必ずこの手で借りを返すと誓った雪辱の思い。
しかしその願いはすぐに果たされることはなく、決着をつける前に彼の運命は再び大きく流れを変えることになる。
光が揺れ、次に浮かんだのは、視界に広がる寂寥とした緑の大地と、水の星。
それもまた、彼に取っては忘れ得ぬ場所のひとつ──ナメック星。
今の自分の力では、未だフリーザには及ばない。だが、ドラゴンボールの存在をフリーザが知った以上、放っておくわけにはいかなかった。
フリーザがナメック星へ向かったと聞いたその瞬間に、賽(さい)は投げられた。
永遠の命を奴に渡しはしない。それを手に入れるのはこの自分だ。
確固たる決意を胸に、ただひとりで反旗を翻し、降り立った惑星。
そこでドラゴンボールを巡って繰り広げられた、いくつもの戦いと駆け引き、共闘。
そして、この手で倒すべき者と定めた相手との再会。
何度も危機に直面し、しかしそれを乗り越えるごとに更なる力を手にしていった。
その自分の前に、かつて同等以上の力を持っていた連中が呆気なく敗れ去っていく様は愉快だった。
誰にも邪魔をさせはしない。永遠の命を手に入れ、フリーザを倒すのはこの自分だ。超サイヤ人になる資格は、あの下級戦士などにではなく、この自分こそにある。何の迷いもなく、そう信じて進むだけだった。
だが。
すべての思惑を覆すほどに、フリーザの力はあまりにも圧倒的すぎた。その脅威の前に、初めて心の底から味わった恐怖、そして絶望感。
今となっては、なぜあれほどまでに恐れる必要があったのかと思う存在にすら、及ばなかった己の無力。
──焦っていたのだろう、すべてに。
急変していく状況に、底の見えぬ支配者の哄笑に。目の前にちらつく同族と、その後ろに浮かぶ伝説の影に。そして、何より自分自身に。
焦りは誤算を生み、敵の底を見誤った。──だから、届かなかった。
力尽きる間際、霞む視界の中で、無念と悔恨に最初で最後の涙を流しながら──それでもなお、彼は願った。
たとえそれが憎い相手であっても。サイヤ人の手で、フリーザを倒してほしいと。
望むのはそれだけだった。……そして、最後の同族に願いを託し、彼の意識は闇に包まれ──すべてはそこで、終わったかに思えた。
だが。
ゆらり、と光が踊り、その色を再び変化させる。
浮かんだのは、突き抜けるような青。──二度目に見上げた、地球の空。
何の因果か、運命は彼に再びの生を与え、その足が降り立つ場所にかの辺境の星を選んだ。
彼はそこで、あの男がフリーザとの戦いの末に、超サイヤ人になったことを知る。
それ以来、彼がフリーザに対して抱き続けてきた敵愾心と闘争心は、そのままあの男へ向けられる形となった。
何も変わったことなどない。ただ、倒すべき目標が変わっただけ。
どこにいようと、相手が誰だろうと、自分がすべきことはただひとつ。何者をも超える己自身の力を手に入れること──ただそれだけ。
それ以外は、何も変わらない。……変わらないはず、だったのだ。