『あんたも来たらー? どうせ宿賃もないんでしょ?』
不意に空の色に重なった、同じ色の髪、同じ色の瞳。
一度は自分を殺そうとした相手に向けたとは思えないほど、屈託のない笑顔。
思いも寄らぬ場所での、二度目の──そして、のちに思わぬ関わりを持つことになる女との──出逢い。
ある日突然、地球を襲った危機と、それを退けた謎の少年。
未来から訪れた、己の息子──勿論その時は知るよしもなかったが──からもたらされた、不吉な予言。
いずれ現れる脅威に対抗するため、そして何より、奴を超え、この手で倒すため。
自分がすべきことは、ただひとつ。そう見定めて過酷な特訓を繰り返す日々。
強くなる。その目的のためなら、利用できるものは利用するまで。
彼女の存在とて、例外ではなかった。己を鍛え、力をつけるためには都合のいい、利用価値のある存在。だから、生かしておく。
最初は本当に、ただそれだけのはずだった。
──けれど。
『何やってんのよ! あんた、そんな身体で無茶したら、本当に死んじゃうわよ!』
『後悔なんて、しないわよ。わたしが自分で選んだことだもの』
『やーね、あんたに父親らしいことなんて期待してないわよ。そんなのあんたらしくないし、第一想像できないわ』
時に怒り、時に笑い、時に涙を流し。
表情のくるくる変わる、下品であつかましい、彼にとってまったく理解しがたい性格の持ち主。
都合がいいから生かしておく、ただそれだけの存在だったはずの女。
──いつからだろう。
気が付けば、自分の要求に負けじと答えを出してくる彼女の有能さを認め、近くにいることを咎めもせず、いつしか己の身に触れることすら許すようになっていたのは。
そして、彼女の名を呼ぶようになったのは。
それまでの修羅の日々の中にぽかりと浮かんだ、奇妙な女との奇妙な関係。それはいつしか、彼にとってもまったく予期していなかった結果へと結びついていく。
『トランクス。あんたの、おとうさんよ。……こういう目つきの悪いとこって、ほんと、そっくりねぇ。今から心配だわ、わたし』
触れるだけで壊れてしまいそうな、脆い姿形をした赤子を抱いて、彼女は笑った。
──くだらん。
自分の子が生まれると知った時も、彼は大して気にも留めなかった。
オレはそんな感情に興味は無い。冷たく言い放った自分の背に、彼女はただ静かに寄り添い、呟いた。
『わかってるわよ。……でも、ひとつだけ言わせて。死なないでよ、絶対』
当たり前だ。オレを見くびるな。
即座にそう返した彼を見て、彼女は微笑んだ。『あんたなら、そう言うだろうと思ったわ』──そう言って、朗らかに。
わからん女だ。何度そう思っただろう。
だが今は、そんなことに構っている場合ではなかった。
倒すべき敵を見定め、己の到達すべき場所を見据えて進む。
過酷な特訓の果てに、自分自身への怒りから目覚めた金色の力。待ち焦がれていた光を手にした時の、言葉に尽くせぬ感情。
この力さえ手にできれば、超えられないものなどない。あの男だろうが、人造人間だろうが。
すべてに、この手でカタをつけてやる。
胸の内にその決意を秘め、踏み出した新たな戦いは、しかし彼の予想を大きく裏切った方向へと進んでいった。
想像以上の力を持った敵、そして突然未来から現れたもうひとつの脅威。
刻一刻と変化していく戦況の中、更なる力を求めて訪れた不思議な部屋。そこで未来の息子と修行に明け暮れた時間。
必要以上に馴れ合うつもりなどなかった。だが、過酷な環境の中で、必死に修行に食らいついてくる精神力と闘志、あえて教えずとも技術を素早く飲み込むことのできる格闘センスを目の当たりにしていると、それは確かに自分の血を引いている証なのだと実感する。
こいつは紛れもなく、オレの息子なのだ──そう感じたのは、いつの頃からだったろう。
最初は煩わしさすら覚えた『父さん』という呼び方も、ふとした拍子に自分を追っている視線も、いつの間にか気に留めなくなっていて。
そして、息子を初めて名前で呼んだ時。それは図らずも、彼が己に近しい者として認めた、二人目の存在の証だった。
思えばその頃から、無意識に何かが己の底で芽生え始めていたのだろう。
最初は意識すらすることのなかったその感情を、はっきりと自覚するのに、そう時間はかからなかった。
壮絶な戦いの末に、目の前で、息子の身体を閃光が貫いた、あの瞬間。
つい今の今までそこに生きて立っていた存在が、ほんの刹那の後には物言わぬ亡骸と成り果てた光景。
かつての自分ならば、それこそ飽きるほどに見てきた、ありふれた死の現実──のはず、だった。
が。
──トランクス!!
その光景を目の当たりにしたあの瞬間──己の中で膨れ上がり、全身から一気に噴き出した激情。
初めてだった。
あんな感情を、自分は知らなかった。自分以外のことのために、我を忘れて暴走するなど。
なぜ──?
説明のつかない、それでいて凄まじいほどの衝動で自身を突き動かした感情。そんなものを抱いたこともなかった彼は、困惑した。
しかし、その戸惑いに向き合う間もないまま、彼はそのすぐ後突きつけられた、更なる現実に直面しなければならなかった。
あの男の、不在。
誰もが予想していなかった結末をもって、戦いは終わった。
それは誰もがそうだったように──否、ある意味で誰よりも深い喪失感と虚無感を彼にもたらした。
強くなるためだけに生きてきた。
かつてはフリーザを倒すため。そして、あの男がフリーザを倒してからは、奴を倒すため。
それが彼の存在理由そのもの、そう言ってもよかった。
誰よりも強くあるために、己を超える者がいるならば、更に自分がそれを超えるまで。
過去に己の自尊心に決定的な傷をつけた相手を、この手で倒す。それだけを目標としてきた。
だが、運命はあまりにもあっさりと、彼からその機会を永久に奪い去った。
その事実の前に、一瞬にして放り出された彼の戦闘民族としての矜持は、その時一度死んだといってもいいほどだった。
彼が背負ったものは、それほど大きく、深かった。
あてもなく荒野を流離い、ただひたすらに地平を見つめ続けた日々。
することは、何も無かった。考える必要も、なくなった。
この星に留まる理由もなかったが、さりとて他に行く場所があるわけでもなかった。
ただ──。
『……おかえり、ベジータ』
帰ってきたのね。
数十日ぶりに姿を見せた自分を認めた時、なぜか泣き出しそうな色に揺れた青い瞳。
随分汚れてるじゃないの。大丈夫? 怪我してない? ちゃんと食事してた?
いつものように無言で通り過ぎようとする彼を、しきりに気遣う言葉。
それまでは煩わしく感じただろう彼女の言動も、しかし無下に振り払う気にもならなかった。
聞いてよ、トランクスったらさ、この間いきなりすごい力でおもちゃを壊しちゃったのよ。父さんが作ったものだからそう簡単に壊れないはずなのに、びっくりしちゃったわ。
リビングに用意された大量の料理を黙々と詰め込む彼の向かいに座りながら、彼女は取りとめもない話を笑顔で彼に語りかけた。
まだあんなに小さいのに、血は争えないのかしらね、やっぱり。──あの子も、強くなるのね、きっと。未来から来たあの子みたいに。そのうちわたしじゃ手におえなくなっちゃうかも。
返事を期待しているわけではないのだろう、ただ彼が黙って聞いているだけでもどこか嬉しそうな表情を見せる彼女だったが──時折、妙に不安げな影がその瞳をかすめるのに、彼は気づいた。
自分が立ち去ろうとすると、急に落ち着きのない仕草を見せる表情。いつもの強気な言動はなりを潜めた、ある種彼女らしからぬ様子を怪訝には思ったものの、深く詮索する気もなかった。
そしてある日。間を置いて戻ってきたカプセルコーポの屋根の上で、彼が黙って佇んでいた時。
ベランダから彼に気づくなり、彼女が息を切らせながら駆け上がってきた。
よかった……また、どこか行っちゃったのかと思った。
明らかにホッとした表情を浮かべ、彼女が呟く。
何を言っている、と怪訝に思いながら視線を移すと、彼女は静かに彼に歩み寄った。
無言でそっと腕を取り、彼の傍らに寄り添う。
何だ、と無愛想に問いつつも、それを振り払おうとも思わなかった。
ううん。ただ、こうしていたいの。
小さく囁かれる彼女の声は、なぜかひどく心細そうな響きを帯びていて。
今までの自分の記憶にある彼女とは違うその仕草に、彼は首を傾げた。
彼がそれ以上の反応を示すことはなかったが、彼女はそれでも彼の傍から離れようとはしなかった。
星屑に埋め尽くされた夜空の下、寄り添う影と影。
互いに、言葉はなかった。──今は、ただ。
ここにこうしているだけで、悪い気はしない。今はそれだけでもいいと、なぜかそう思った。
『あんたが、そう簡単に変われないってことはわかってるわ。ここにずっといて、なんて言えないけど。……ただ、わたしは──わたしとトランクスは、いつでも待ってる。今までみたいにふらりといなくなっちゃってもいい、どこに行っても、ただ──最後には帰ってきてほしいの。あんたにできる限りでいい、ここに──帰ってきて』
いつだったか、独白のように呟かれた、彼女の言葉。
おそらく、それまでの自分なら、「くだらん」の一言で切り捨てていただろう。
しかし、その時自分は、なぜかそう思わなかった。
細く脆い、彼にとっては面倒な、ひ弱なだけの存在だったはずの女の声は──なぜか重さを伴って耳に残り、心に留まった。
なぜなのかは、わからない。──だから、あえて答えることもしなかった。
彼女の望みを、逐一聞き入れてやる理由はない。……だが、強いて否定する必要もなかった。
自分の行動が、結果として彼女の望みに叶うことならば、それはそれで、仕方なかろう。
答えは無かったが、今はそれでいいと──確かにあの時、彼は思った。
思えば、あの時から。無意識の「何か」が、既に自分の中にあったのだろうと、彼は思う。
ただ、名前すら知らぬその感情を、彼がそれと認めるには、まだ早すぎた。
それまでの自分と、直面した現実と、不透明なこれからの時間。
様々な葛藤の中に身を置いていたが故に、見えなかった──見ようとしなかった感情。
虚無と戸惑いと迷いと──そして時折、なぜか落ち着きを覚える静かな瞬間と。
それらを乗せながら、新しい時間は、ゆっくりと回り始めた。
知らず知らずのうちに芽生え、育ち始めていたものに、その時はまだ気づくこともなく──。
景色が、揺れた。
七色の光を放ちながら踊る明かりは、ゆらゆらと朧な輪郭を揺らめかせ、明滅した後……再び、像を結び始めた。
そこに広がっていたのは、遠く済んだ青空。かすかに砂塵舞う荒野、霞む地平線の向こうを静かに見据える、真っすぐな視線。
微動だにしない己の傍に立つ、二つの小さな影を認め、彼はわずかに目を細めた。
あの時。
絶望的な状況の中にあってなお、彼は穏やかだった。
選ぶべき道は、ただひとつ。
それを成し遂げるためなら、ためらうことなど何もなかった。
自分でも不思議に思うほどに、彼はそれを当然のこととして受け止めていた。
あれほどに迷い、戸惑い、受け入れ難く感じていたもの。
だが、最後の最後で、自分はそれを守ることを選んだのだ。
紛れもなく、己自身の意志で。
こんな世界、いつでも崩せる。ただ、その理由がないだけだ。
騒がしくも不快ではない、女と共に過ごす時間。自分が教え、与える事柄に対し、期待に応えて強くなっていく幼い我が子の存在。
悪くはない。いつしか、そう思うようにすらなっていた穏やかな日々。
必要がないなら、あえて壊すこともない。そう考え、自分を納得させていた頃。
しかしこんなものは、本当の自分ではないのだ。ただ、差し迫って状況を変える必要性がないだけ。
だから。
あの時、自分は思ったはずだ。
七年の時を経て訪れた、思いも寄らなかった機会。
もはや二度と叶わぬはずだった望みを果たす、ただ一日だけのチャンス。
あの男と、決着をつける。
かつては確かに己の存在理由そのものだった信条を思い出し、彼は拳を握りしめた。
そうだ。
この、身体の奥から湧き上がってくるような昂揚。戦いの予感に震える拳。闘争を愉悦とする本能。
それこそを至上の価値とする存在──それが、自分だったはずだ。
あの男と戦い、倒す。己のこの手で。自分にはそれがすべてだ。その目的に比べれば、他のことなど、取るに足らない些細な事柄に過ぎない。
それを邪魔するのであれば──相手が何であろうと、排除するのみ。
長きに渡って彼の中で燻り続けていた火種は、再び勢いを取り戻そうとしていた。深く、静かに。
同じサイヤ人──それもたかが一下級戦士──でありながら、王子であるこの自分を追い抜いた男。
その上、情けをかけられ、生き長らえた。
許せなかった。断じて。
あの男を倒し、この手がその返り血で染まる時こそ、己が己であることを取り戻せるはずだ。
そのためなら。
利用できるものは利用するまで。誰にも邪魔はさせない。生温い感情など、必要ない。
かつての自分のあるべき姿を取り戻せば、何も迷うことなどない。
そう決意し、すべてを切り捨てた。──少なくとも、そうしたつもりだった。
『みんな殺されちまうぞ、みんなだ! ブルマも、トランクスも!』
『──嘘だ! おめえはまだ、完全に魂を売り渡したわけじゃねえ……!』
忌々しい、と思った。
それで自分が動じるとでも思うのか、と。
──それでも。
古(いにしえ)の眠りより復活した魔人の、その底知れぬ力を感じた瞬間から。
彼の中で、何かが動いた。
違う。
目の前の男を倒すことだけが己のすべて。たとえ世界が滅びようと、関係ない。
そう思い切るように、何度も自身に言い聞かせようとしたはずだった。
しかし────。
青い空の中に、不意によぎった同じ色の眼差し。
最後の最後で、結局、彼は悟らざるを得なかったのだ。
自分には、捨てることはできないと。
すべてを賭して挑んだ戦いを振り切ってでも、戻ることを選んだ自分がいることを。
己が引き起こした事態ならば、己で始末をつける。
たとえこの身と引き換えにしてでも──。
それが、真実だった。
紛れもなく、己自身の意志。望むべきこと。選んだ道。
最初から、捨てることなどできるはずもなかったのだろう。
なぜなら、それもまた自分だったのだから。
“自分でない自分”など、そこには存在しなかったのだから。
ただひたすらに、強さを追い求めていた自分。
必要なのは力だけだと、それだけを信じていた自分。
あの男を倒し、頂点に立つことにこそ、価値を見出していた自分。
そして。
この星での暮らしに、心地よさを覚え始めていた自分。
いつしか己に近しい者の存在を認め、悪くないと思っていた自分。
──何より。
その時を迎えて初めて、彼女と息子が生きることを望み、そのために最後の手段を決意した自分がいることも。
すべては真実であり、“本当でない自分”など、ありはしなかった。
それを悟った時、彼は不思議なほどに穏やかだった。
絶望的な戦況にありながら、凪いだ海のように。
たとえこの身が灰となり、塵と化そうとも。
魂が無に帰すその時まで、自分は自分であり、それ以外の何者でもありはしない。
その自分が選んだ事柄に、後悔などない。
それで、十分だった。
自身の咆哮が空気を揺るがせ、凄絶な光の嵐と轟音が、全てを覆い尽くしていく。
霞む空と地平線と、響く風の音(ね)を遥か遠くに感じながら。
爆発する白い世界の中で、彼はその瞬間、どこまでも──自由だった。