光が、反転した。
白い闇に包まれた世界が揺れた次の刹那、彼の目に映ったのは、抜けるような蒼穹だった。
二度と見ることはないと思っていた、澄んだ青。
もう還ることはないと思っていた場所。
しかし、何の業(ごう)か、因果か、それとも縁(えにし)か。
運命の神は彼に、今一度の時間を与え、生きることを許した。
全宇宙の生命の存続を賭けた、最後の魔人との壮絶な戦いの末に。
彼は戻ってきた。彼がただひとつ、初めて守りたいと願った者たちの元へ。
神の宮殿に姿を現わした自分を認めるなり、歓声を上げて転がるように飛びついてきた幼い息子。
そして、少し遅れてゆっくりと歩み寄った、空の色を映して揺れる眼差し。
思うことも、言いたいことも、きっと山ほどあっただろう。それでも、彼女は黙って彼の傍に寄り添い、額を彼の肩に預けるようにして顔を伏せ、ただ一言、囁いた。
『──おかえり、ベジータ……』
──ああ。
震える細い肩に手を置き、いつもなら嫌がっていた抱擁を引き離すこともせず、彼もまたそれだけを返すと、黙って彼女を抱きとめた。
再び、この温もりに触れることが許されるなど、思ってもみなかった。
一度は捨てたはずの光景。己のプライドのため、こだわりのため、もう二度と顧みることはないと背を向けた、静かな日々。
──それでもこうして、今、自分はここにいる。
それが何と呼ぶ力の引き合わせなのかは、わからないけれども。
今、ここにこうして生きている瞬間があることに。何よりも、彼女と息子に、またあんな顔をさせずに済んだことに。
彼は心の底から安堵し、生まれて初めて──それまで抗い続けてきた運命に、ほんの少しだけ──感謝をしたのかもしれなかった。
そうして戻ってきた、しかしそれまでともまた違う色を持った、穏やかな日々。
それは今までの彼の人生でも、最も心落ち着いた日々だったと言えるだろう。
強さを求める意志を捨てた訳では決してない。無論、あの男を超えることを諦めたつもりも毛頭ない。
ただ、自身が自身であることの誇りを持ち続けること、強くあるべき己の目標を貫くこと。そして今の自分が悪くないと──失いたくないと願っている存在を守ること。
それらが決して相反する感情ではなく、どちらも手にすることができるものなのだと。
あの時、確かに理解できたから。
今、こうして与えられた時間を、共に生きる。
どんなに時が流れようと、その中に映る景色が変わり行こうと、自分は自分だ。
その自分が今、手にし、悪くないと思っている日々を生きていく──それでいい。
そう、思っていた。
最も、その時間の終わりは、思ったよりも早く──そして予想もしていなかった形で──来てしまったけれど。
よもや自分が、あの男と同じ病によって倒れるとは思ってもみなかった。
だが、案外そんなものなのかもしれんな、と小さく笑う。
そもそも、あの男が患った病ならば、自分が発症したとて不思議はない。それだけのことだ。
ただ──。
ゆらり、と光が色を変え、その中に映った彼女と息子の顔を思い出し、少しだけ彼の面差しに陰りがよぎる。
結局、泣かせずにいることはできなかったが。……それでも、あの二人なら、きっと大丈夫だろうと信じられる。それだけの強さを、彼女たちは持っている。
自身の病のことを知ってからも、努めてそれまでと変わらぬよう振舞った。
残り少ない、限られた時間の中で共に過ごし、視線を交わし、そして無言のうちに伝えてきたこと。
それらは決して無駄ではなかったと思っている。彼女たちなら、きっと。
ありのままの、変わらぬ自分であり続けること。それが、自分が見せてやれる、最後の姿だと思った。だから。
カプセルコーポの屋根で、彼女と二人で佇んだ夜。三人で出かけた初めての旅、あの小さな島で過ごした、短くも穏やかな時間。ひた向きに自分を見上げる幼い眼差しに、己の記憶を語って聞かせた日々。
淡い発光の帯が結ぶ映像は、水面(みなも)の波紋に踊る影のように揺らめきながら、浮かび上がっては薄れ──何度か明滅を繰り返した後、俄に紅い空を映し出した。
(…………)
朧な紅い月。乾いた砂塵の吹く寂れた荒野。
遠い記憶と重なる、くすんだ赤に染まった大地。
感じるはずのない風の音(ね)に耳を澄ますように、彼は静かに目を閉じる。
残った時間がもうわずかだと悟った時。自分は最後に、あの場所を選んだ。
勿論、彼女たちのことが頭をよぎらなかった訳ではない。──けれど。
そう長くはない生涯の多くを、戦いの中でひとり生きてきた自分の、これは最後の我侭だった。
……そして。
終生の目標と見定めた相手との、一対一の対峙。
割り切ったつもりでも、抑えられなかった衝動。
意外と諦めが悪かったもんだな、オレも。
この期に及んで、意味がないことだと頭ではわかっていた。……それでもなお、何もせずに終わることを拒んだ己の行動に、自嘲気味な笑みを零す。
だが、それでも構わない。
最後まで果たされることはなかったが──自分が選んだことだ。
悔いはない。それだけで、それ以上望むことは、何もなかった。
ひとつ深く息を吐いて目を開けた彼の前で、徐に揺らいだ光は、幾重にもその色を変えながらちかちかと瞬き……やがて一点に集まったかと思うと、ぱっと弾けた。
光の欠片は尾を引くようにきらきらと四方へ舞い散り、虹色の残滓を閃かせて消えていく。
やがて、残った一握りの雫が、無意識に差し出された彼の掌に落ちたのを最後に──すべては、闇に溶け、見えなくなった。
己の手の中ですぐに消え去った、ほんの小さな、刹那の煌きを握りしめるかのように。
彼は徐に拳を握り、もう一度目を閉じた。
────と。
ボッ、とくぐもった音が聞こえたのを感じ、彼は振り返る。
見ると、それまで深い闇だけが降りていたそこに、一対の青白い炎のような光が現れた。かと思うと、それが次々と連なるように増えていく。
左右対称にどんどんと伸びていく焔(ほむら)の明かりと共に空間がぐらりと揺れ、暗闇の中から、徐々に周りの情景が浮かび上がる。
身を切る冷気に吹かれ、陽炎のように踊る蒼い炎。その火影が照らし出すのは、細く伸びる一筋の道。
岩が削られてできた山道にも似た、ひび割れて荒れたそれの両端は切り立った崖のように真っ暗で、そこから吹き上げる風の唸りが足元を揺らすかの如く響き渡る。
逆巻く気流は、まるで怨念に満ちた呻き声のような──いや、もしかすると嗤(わら)っているのかもしれない──不気味な鳴動にも似た響きを上げ、伸びた道の向こうへ流れ、吹き荒ぶ。
それはさながら、地の底から轟く亡者の誘(いざな)いであるかのような、底冷えのする音色だった。
闇に閃く蒼い火影の揺らめきと、頬を撫でる冷たい風を、彼は正面から受け止め、見据える。
──なるほど。ここを通っていけ、ということか。
ゆらゆらと宙に浮かび、闇の中で行く手を照らす炎は、さしずめ黄泉の世界への水先案内人といったところか。
冷気に煽られて立ち昇り、帯状に伸びて弧を描く青白い光は、その時を待ち望む死神が携えた鎌の切っ先のようにも見えた。
揺れる蒼の焔を見つめ、彼はふっと小さく笑った。
むしろこの荒寥たる世界こそが、自分には相応しい光景だろう。
闇へと続く道の前で、それでも彼の心には漣(さざなみ)ひとつ立ってはいなかった。
後悔も、恐怖も、迷いもない。
たとえこの魂が砕け散り、塵と成り果てたとしても。
その最期の一瞬まで、忘れはしない。──きっと。
──さあ、行くか。
ひとつ、深く息を吐き。彼は徐に、己を待つ闇の世界へ、ゆっくりと踏み出そうとした。
瞬間。
……!……
(──!)
鳴動する風の音に混じり、かすかに──本当にほんのわずかな刹那だったが──声が、聞こえた気がした。
思わず足を止め、彼は振り返る。
だが、振り向いた先にも、広がっているのは漆黒の闇だけで。
細く唸りを上げる冷気の音だけが、耳を掠めて通り過ぎる。
(……)
気のせい、といえばそうに決まっているのだが。
こんなところで聞こえる声など、亡者か死神のものである以外になかろうに。
何を勘違いしているんだ、と自身に小さく苦笑し、再び踵を返そうとした、その時。
………、……タ……!───
もう一度、今度はもっとはっきりと。
確かに“その声”は、覚えのある響きをもって彼の意識に届いた。
(……!?)
反射的に身を翻し、彼は目を見開いた。
気のせいではない。
今、確かに。何者かが、呼ぶ声がした。
それも、怨念と呪詛に満ちた恨みがましい叫びではなく。ただ真っすぐに己に向かう、惑いのない声色で。
こんな場所で、一体誰が──?
訝しさと、驚きの色とがよぎる目を瞬き、彼は耳を澄まそうとした。
すると。
不意に、闇に塗りつぶされていた空間の中に、針の穴のように小さく、細い、白い点が浮かび上がった。
(!?)
目を見開く彼の前で、それは徐々に大きさを広げ、次第に強い明滅へと変わっていく。
一筋の発光は長く縦に伸び、やがてその中から更に幾条もの光の帯が零れ始める。
暗闇に突然起こった変化に、思わず目を細めて片手を顔の前にかざした彼の前で、光はどんどんその明るさを増し、目映いばかりの煌きをもって彼を照らした。
……ベジータ……!……
そして今度こそ、間違いなく。己の名を呼ぶ声を、感覚の中で確かに感じた瞬間。
押し寄せる眩しさの波動に揺られ、ふわりと身体が宙に浮き───白が、弾けた。
すべての色を覆い尽くし、どこまでも広がっていく白い世界の中で。
かすかに、光の中から差し出された淡い掌の影が……見えた、気がした。
そこにまず見えたのは、再び目の前に広がる白い色だった。
深く沈んでいた意識が、浮上感と共に明るんでいき、うっすらと感覚が戻り始める。
霞か靄(もや)がかかったようにぼんやりと、不鮮明な視界に映る色の白さに、まだ夢の続きを見ているのかと頭のどこかで思う。
瞼がひどく重く感じられ、目をはっきりと開けることも億劫な気分だったが、視線を覆うそれが、さっき感じたような眩しさを伴った白ではなく、わずかに黄色がかった人工的な光にも見えることを、ふと怪訝に思う。
── ………… ──
加えて、小さく飛び交う声のような、機械音のような音。
それは、今しがた自分が見て感じていた情景のどれとも違う感覚で。
ついさっきまで身を置いていた世界とは違う奇妙な違和感に、彼はまだ不明瞭な意識を何とか鮮明にしようと、重い瞼をこじ開けた。
ふわふわと定まりのない視界に目を凝らしていると、やがてぼやけていた輪郭が徐々に像を結び始める。
最初に認識したのは、白い壁と天井に、周りを照らす黄白色の光。
そこで人の手が入った部屋であることを理解した彼が、次に認めたのは。
ふっと明かりを遮り、視線の先に現れた影。
そして、周囲と同じく白に身を包んだその人影の、真っ先に目を惹いた青い瞳。
彼が目を開け、自分を見ていることに気づいたのだろう。その瞳は最初信じられないものを見るかのように見開かれ、呆然とした表情で彼の傍に近づいた。
間近に歩み寄ったことでよりはっきりと、そして鮮やかに映る青。
────ああ。
頭で理解する前に、懐かしさにも似た感覚がそれを思い出す。
数え切れないほど彼を見つめ、泣き、笑い、時に困惑させた青。
常ならば、雲ひとつない蒼穹を思わせる澄んだ眼差しが、今はかすかに湿り気を帯びて、彼を見つめていた。
静かに彼の傍に顔を寄せると、彼女は震える手を差し出して、壊れ物でも扱うかのようにそっと彼に触れた。
「……ベジータ……。……わたしよ。……わかる?」
ひとつひとつ、確かめるように。震える声を絞り出し、彼女が呟く。
意識はあるものの、身体全体が鉛のように重く、声も出すことができなかったけれど。
辛うじて動いた左手を懸命に持ち上げ、彼はその手を、自分の頬に添えられた華奢な手に、ゆっくりと重ねた。
その瞬間、彼女の表情が今にも泣き出しそうにくしゃくしゃに歪み、両手でぎゅっとその手を握り返す。
夢でも幻でもない、今確かにそこに感じる、あたたかい掌の感触。
ああ……そうか。
どうやら自分が三たび死神に追い返されたらしいことを知り、彼は胸の内で小さく笑った。
余程嫌われちまったらしいな。頭の隅でそんなことを考えつつ、身体が思うように動かないことにもどかしさを覚えながらも、視線だけはじっと傍らへと注ぐ。
──もう、触れることはないと……そう思っていたが──。
一心に自分を見つめる青い眼差しを無言で柔らかく見つめ返すと、堪えきれなくなったのだろう、みるみるうちに真珠のような粒が目尻に溢れ、ポロポロと頬を伝った。
夢でも、幻でもなく。今確かに彼はここにいて、彼女を見ている。他の誰でもない、彼自身の、あの真っすぐな眼差しで、彼女だけを。
喉まで出かかった嗚咽を懸命に飲み込み、彼女は囁いた。泣き笑いのような顔で、噛みしめるように、ゆっくりと。
「おかえり……ベジータ……」
返事の代わりに、もう一度、彼女に触れている手に、少しだけ力をこめる。
彼女も、それに応えて両手に力をこめ、彼の手を包み込み、かたく──かたく握りしめた。
言葉は、要らなかった。
ただ、今はそれだけで。
今、ここにいる。そのことだけで。
他には何も────要らなかった。