<35>

 その日は朝から、淡い粉雪の舞う寒い日だった。
 研究室での仕事を終えたあと、彼女は一日に一度は様子を見に行くことが既に日課の一部となっている建物へ足を向けた。
 機器のチェックをしている作業員に声をかけ、医療スタッフといくつか会話を交わしてから、その部屋へと向かう。
 忙しい時は中まで入らずガラス越しに様子を見るしかできなかったが、彼女は極力部屋の中まで入る時間を作るようにしていた。
 服を着替え、滅菌処理を済ませると、重い扉の向こうへと足を踏み入れる。
 規則的に続く機械音だけが響く空気の中、ゆっくりと歩みを進める。
 視線の先には、最初にここへ移った時と変わらぬまま、眠り続ける彼女の夫の姿があった。
 知らず小さな溜め息をつき、傍らの机の上に重ねてある資料へ、ふと目を向ける。

 ──あれから、一年。

 早いようで遅く、短いようで長い、そんな時間が過ぎていった。
 そう。
 それでも確かに、時間は流れているのに。
 ここだけがまるで、時が止まったかのように。
 あの日からずっと──そのまま。

 コールドスリープに入ったのち、特効薬の実用化を待ってこの部屋での集中的な治療へと移って以来、彼はずっと眠り続けたままだった。
 地球の医学の見解からいえば、あの時既に症状がかなり進行し、体力も相当落ちていた状態で無理をしたがために危険な状態に陥った彼の容体を思えば、回復の可能性は低いだろう──そういう意見が殆どだった。
 ……それでも。
 限りなく成功する確率の低い賭けだということは、わかっていた。
 それでも。
 過去に幾度となく重傷を負い、時に死の淵を彷徨いながらも、その都度驚異的な回復力で甦ってきた彼の──サイヤ人の計り知れない生命力を、信じたかった。
 もう一度、もう一度だけでいい。──奇跡を、信じたかった。
 彼をこの世と──自分とを繋ぐ、細い細い一本の糸。
 今にも触れれば切れてしまいそうなその糸が、あの日途切れずに今日まで続いていること──それにはきっと、意味があると。
 そう、信じていたかった。
 月日を重ねるにしたがって募っていく不安を懸命に打ち消し、折れそうな心を支えながら。
 もう一度、逢いたい。
 彼女は祈った。ただ、それだけを。
 変化のない日付の印がまたひとつ増えた資料に目を落とし、もう一度小さく溜め息が彼女の唇から洩れた、その時。
 ……ピッ……ピピッ……
 それまでずっと単調な音を繰り返すだけだった、生体リズムの波を示す機器の反応が、不意に変化した。
 はっと弾かれるように彼女の顔が上がり、反射的に横の機器類へ視線が移ったあと、恐る恐る傍らへ注がれる。

(……!)

 それは後から思い出しても、胸が苦しくなるほどの衝撃と瞬間だった。
 呆然と目を見開き、立ち尽くす自分を静かに見つめている、黒い瞳。
 まだひどく気だるそうに細められてはいたけれど、それは確かに。間違いなく。
 片時も忘れる日などなかった、懐かしい表情。
 その殆どが無愛想に、或いは不機嫌そうにしかめられていることが多かったけど。──けれど時折、限りなく穏やかな色を湛えて自分だけを見つめてくれた、深い黒曜石の双眸。
 それが今再び、自分に向けられている。記憶にあるのと同じ、あの柔らかな眼差しで。
 ふらふらと頼りない足取りで、でも視線だけは縫いとめられたように固まったまま、彼女はベッドの傍に歩み寄った。
 触れれば、幻のように掻き消えてしまうのではないか。そんな心許ない感覚に襲われる中、それでも彼女は震える手を差し出し、ゆっくりと──彼に触れた。

「……ベジータ……。……わたしよ。……わかる?」

 自分でも声が揺れているのがわかったが、止めることはできなかった。一言、一言。噛みしめるように、問いかける。
 すると、徐に彼の左手が持ち上がり、彼に触れている自分の手に、ふわりと重ねられた。
 瞬間、視界が滲んで揺れ、鼻の奥がツンと痛くなり、喉元に熱いものが込み上げる。
 自分のそれよりずっと大きく、逞しい、ごつごつした掌の──あたたかい感触。
 記憶よりもっと、もっと奥深い部分で憶えていた、その温もり。
 夢じゃない。今、この瞬間。間違いなく、ここにいる。待ち続けた、ただひとりの温もり。
 待ってた。ずっと、ずっと。

「おかえり……ベジータ……」

 掠れた声で呟いた彼女に応えるように、重ねられた彼の手に、ほんの少し、力がこめられる。
 それを感じた時、懸命に堪えていた涙が、堰を切って溢れ出し、次々と頬を伝っていった。

 還ってきてくれた。彼は、ここに。還ってきてくれた。

 今、ここに巡ってきたこの瞬間に、今、この時を与えてくれた運命に。
 本当に心からの、感謝をしながら。
 涙で濡れる面差しを拭おうともせず、彼女は懸命に笑顔を浮かべ、彼の眼差しを見つめ返した。彼の手を包み込み、ぎゅっとかたく握りしめながら。
 それ以上、言葉はなかったけれど。
 彼女たちには、それで十分だった。

 

 ひらひらと粉雪の落ちる、冷え込みの増した冬日の午後。
 寒さのためか外に出る人影もまばらで、教室や廊下で生徒たちの声が多く響く昼休み。
 校庭に降りていく白い影の舞い散る様を窓からぼんやりと眺めていたトランクスは、ふと門の外に立っている二人連れに目を留めた。
 おそらく親子だろう、自分より少し年下くらいの男の子と、父親らしき人物が足を止め、空を指差しながら何やら談笑しているのが見て取れた。
 雪を見てはしゃいでいるのだろう男の子と仕草と、穏やかな笑顔で話す父親の様子に、不意にある映像が脳裏をよぎる。

『──うわあ、雪だ! ねえパパ! 見てよ、雪だよ!』
 重力室でひとしきり身体を動かした後、休憩を取るために廊下へ出てきたトランクスは、窓の外の光景を目にして歓声を上げた。
 つられて視線を外に向けたベジータは、『もうそんな時期か』と呟く。
 西の都では、雪が降る期間はそう長くない。街の中心部ともなれば、積もるほどの雪はそう頻繁には降らないため、都会育ちのトランクスにとっては、本格的な冬を実感する貴重な時期でもあった。
『ねえ、この雪、積もるかな? 明日遊べるといいなぁ。オレ、雪だるま作りたい!』
 期待に目を輝かせて窓に張り付く自分に、父が半分呆れたように言う。
『気の早い奴だな。この程度の雪じゃ、二、三日は降り続けないと積もるのは難しいだろう』
 窓辺に近づき、自分と並んで外を眺めてそう答えた父の横顔。
 それはごく普通の、けれどきっと自分だけが知っている、自分だけの“父”の姿で──。

 そこまで思い出して、思わず鼻の奥がじんとなりかけたのを感じ、トランクスは慌ててぐっと息を飲み込んだ。
 窓の下の光景を視界の外へ追いやるように顔を逸らし、空を見上げる。
 けれど、一度浮かんだ映像はそう簡単には消えてくれない。
 日頃、努めて考えないようにしまい込んでいた記憶でも、ふとした拍子に箱の蓋を押し上げて溢れ出す。
 いろんな顔が、頭の中をよぎるけれど。
 最後に浮かぶのは、いつもいつも。自分を見つめて穏やかに微笑む、父の顔ばかりで。

 ──パパ……。

 今もまだ、辛い気持ちと共にしか思い出せないその面差しを、記憶の中で見上げた刹那。

(──!!)

 唐突に、心中をよぎったかすかな気配に、彼は目を見開く。
 それは胸騒ぎだとか、予感といったような不確かな感覚ではなく、ある種の確信めいた閃きをもって、彼の胸に届いた。
 普段なら気づかずに見過ごしてしまいそうなほど、小さな気。
 だけど、誰よりもよく知っている、いつも傍にあった気配。
 他の誰でもありえない、ただひとりの──。

 まさか。
 まさか。

 後はもう、考えるより先に身体が動いていた。
 突然血相を変えて立ち上がり、脇目も振らずに教室を飛び出していくトランクスの後ろ姿を、周りにいたクラスメイトたちが呆気に取られた顔で見送っていた。

 

 ──それより少しばかり後の刻限。
 肌寒い風が草木を揺らし、地に落ちた淡い影がゆらゆらと躍る、昼日中。
 シュン、と短く空を切る音が辺りを走り、続けて残像のように鋭い動きの影が跳んだ。
 短く息を吐く音と共に、拳や蹴りの動作が次々と繰り出される。
 冷えた空気を裂く細い唸りが何度か続き、最後に小さな気合と共に音が止まった。
 ひゅる、と頬を掠める冷気の波が幾筋も通り過ぎ、黒い髪を揺らした。
 ふう、と小さく息をつき、突き出した拳をゆっくりと下ろす。
 例年よりも少し遅れた冬を迎えた東大陸でも、ここ数日の寒波の影響により冷え込みを増し、悟空たちの住むパオズ山にも、本格的な冬の気配が到来しようとしていた。
 日課の基礎鍛錬をこなしながら、頬を撫でる風の音にふと空を仰ぐ。
 近いうちに雪が降るのかもしれない、薄く曇った灰色混じりの冬空。

 ──もう、一年経つのか。

 秋から冬へ、山を包む冷気が強まるにしたがって、思い出さずにはいられなかった、あの日の出来事。
 ……否。
 本当は、多分、常にどこかで考え続けていた。
 一人で修行をしている時、ふと感じる風の動きに。家族といる時間の、何でもない会話の隅に。……知らず足が外へ向いた、乾いた風の吹く、淡い月の昇る夜に。
 そんな時に浮かぶのはいつも、決まって彼のことだった。

 あれから、一年。
 時間は淡々と、彼らの周りを流れ、遠ざかっていった。
 事情を知るごく一部の人間を除いては、何事もなかったかのように過ぎていく時間。
 あれ以来、ブルマから詳しい連絡を受けたことはない。
 無意識にその話題を避けていたせいもあるのだろうが、彼女のことだ、はっきりとした何かが掴めない限り、不用意に話に出したりすることはないだろう。
 カプセルコーポを訪れる時、努めて平常通りに振舞おうとする彼女やトランクスを見るたび、悟空は彼女たちの強さを感じずにはいられなかった。
 最初から、成功するかどうかはわからない、極めて可能性の低い賭けだと。彼女は言っていた。
 そしてもし、“来るべき時”が来たら──。

(その時は……お願いね)

 彼女は確かに、自分にそう告げた。
 それが何を意味するのかは、鈍い彼にもなんとなくだが、わかっていた。
 わかっていた、けど。
 心のどこかで、そんなことがあるわけがないと。そう思っていた。
 あいつなら、きっと。
 何の根拠もない、そんな期待を抱いている自分がいた。

 でも──。

 知らず力の入った拳を見つめ、ぐっと握りしめる。
 最後に彼の拳を受け止めた時の記憶すら、今は頼りなくて。
 来るはずがないと思っていた『その時』の実感が、じわじわと忍び寄ってくる。

『戦え、カカロット!! それがあの時、オレを生かしておきながら逃げ続けたきさまに残された、最後の決着だ!!!』
『……きさまにはつくづくがっかりしたぜ、“孫悟空”』

 脳裏に甦る、あの夜の光景。何度も頭の中に谺する、魂の叫び。
 知らず唇が噛みしめられ、拳を握る手に更に力がこもる。

 今更、遅いのかもしれない。自分が願うことは、虫のいい話かもしれない。
 それでも。
 叶うのならば、もう一度──。

 そうして、無言で空をもう一度見上げた刹那。不意にはっ、と小さく息を飲む音が洩れ、両目が驚きに見開かれる。
 この一年、何度も繰り返したように、今また無意識のうちに張り巡らせた神経の糸に、かすかに触れた気配。
 確かに憶えのある、しかし今までどれだけ探しても感じることのできなかった気。
 まだひどく弱々しく、余程精神を集中させなければすぐに見失ってしまいそうなほどに小さいけれど、それは間違えようのない、あの──。

 ──!!

 思わず指を額に当てようとして、寸前ではっと我に返った悟空は、逸る気持ちに押され、そのまま真っすぐに西の都へ向かって飛び立った。

 

 学校を飛び出した後、とにかくブルマもいるはずのあの施設へ行くことしか頭になかったトランクスは、最短の距離を全力で飛んでカプセルコーポへ向かった。
 見覚えのあるラボの上空まで来ると、周りを急いで見回しながら正面入り口の近くへ降り立つ。
 ラボの研究員や作業員にはある程度顔見知りも多いとはいえ、まだ子供のトランクスがすぐに奥へ立ち入ることはできない。
 もどかしさを感じながらも受け付けで母の所在を尋ねていると、丁度ブルマが廊下の奥から顔を出すのが目に入った。
「ママ!!」
 彼女の姿を認めるなり、脱兎の勢いでトランクスは母へ駆け寄った。突然の息子の来訪に、彼女が思わず目を丸くする。
「トランクス? あんた、どうしたの、こんな時間に。学校は?」
「今、昼休みだから抜けてきたんだ。それより、ねえ、もしかして……」
 息を弾ませながらも半ば確信を持った目で自分を見上げ、詰め寄る息子の様子に、ブルマは最初戸惑ったが、すぐにその理由に思い当たった。
「……そっか。やっぱり、あんたにはわかったのね」
 おそらく、自分にはない能力で直感的に悟ったのだろう。
 自分と同じように、ずっと待っていた──彼の目覚めを。
「じゃあ、……じゃあ、ほんとに……?」
 まだ半分は不安そうに揺れる眼差しで、震える声を絞り出す息子の頭を、優しく撫でる。
「ええ。……今朝、パパが、目を覚ましたわ」
「ほんとに? ほんとに……、パパが?」
「ええ、本当よ」
 その答えを聞いて、まだ驚きと少しの不安が残っていた表情に、安堵と喜びの色がみるみるうちに広がる。
「ねえ、どこにいるの? 逢いたい。オレ、パパに逢いたい」
 縋るように懇願する息子に、ブルマは少しの間思案顔になるが、一刻も早く自分の目で確かめたいと思う彼の心中を察し、しばし考えてから切り出した。
「いい? パパは今、目が覚めたばかりで、疲れてるの。だから、あまり無理させちゃだめよ?」
「うん。わかってる」
 大きく頷く息子に微笑み、こっちよ、と手を引いて誘導する。
 念のため上着を着替えさせ、滅菌ルームを通過してから、彼のいる奥の部屋の前へと案内すると、トランクスは跳ね上がる動悸を抑えるように息をつき、恐る恐る中へ足を踏み入れた。
 まず目に入ってきた天井と壁の白さに目を細めながら、次に部屋の真ん中へと視線を向ける。
 その、先に。

「……トランクス」

 上体だけを起こしてこちらを見つめる、穏やかな眼差しと、自分を呼ぶ声。
 何度も、何度も、夢に見た。ずっとずっと、待ち続けていた。
 そして今、夢ではなく現実のこととして、彼の前に戻ってきてくれた。

「パ……パ」

 しわがれた声を零し、ぎくしゃくと覚束ない足取りでトランクスは父の傍へ歩み寄った。
「パパ……」
 もっともっと言いたいことも、たくさんあったはずだけど。いざとなると、喉がつかえたように言葉にならなくて。
 ただ、徐に触れた手に伝わる体温と、間近で感じる、父の静かな気が、じんわりと彼の胸に染み込んでくる。
 夢じゃない。本当に、パパはここにいるんだ。還ってきてくれたんだ。
 実感と共にどっと安堵の波が押し寄せ、気が緩んだのか、ぐっと声が詰まり、視界が滲んで揺れる。
 そんな息子の心境を察したのか、ベジータは黙ってトランクスを抱き寄せ、ぽんぽんと頭を叩いた。

「心配かけたな……トランクス」
「っ……」

 記憶にあるどの思い出よりも優しい、その仕草と声音に、胸の奥から一気に熱いものが込み上げる。

「ぅ……、っく……、ぇぐっ……。パパ……、パパぁ……」

 しゃくり上げそうになるのを懸命に抑えようとしても、堪えきれない感情が溢れ出す。
 胸にしがみ付き、途切れ途切れに嗚咽を洩らす小さな背中を、無言で叩いてやりながら、ベジータは何とも言えぬ気持ちに包まれていた。
 自分が知っているより、また少し大きくなった背丈。より逞しくなったように思える、幼いながらも引き締まった体躯。
 それが、一年という時の経過を明確に示していることを、改めて実感する。
 自分にとっては、まるで一夜の夢を見ているうちに過ぎてしまったような時間だけれど。
 その間、ブルマやトランクスがどんな思いでいたのか。
 目覚めるかどうかもわからない自分の帰りを、ただ一心に待ち続けていた日々。
 それは恐らく、自分が思っているより遥かに、彼女たちにとっては、心身を疲弊させるものだったはず。
 なのに。
 なぜ、そこまでして。
 それを思うと……何と言えばいいのかも、わからなかった。
 ただ、今は。
 こうして、再び触れることが許された温もりを、せめて強く抱きしめてやることが──彼なりの、精一杯の、答えだった。

 ドアの外で、二人の様子を黙って見守っていたブルマが、熱く潤んだ目頭をそっと指で拭う。
 もうしばらく、二人だけにしてあげよう。そう思った彼女は、音を立てないように、静かに踵を返してその場から立ち去った。

 

 それから程なくして、もうひとり、訪問者が西の都に姿を現わした。
 気配を頼りに、カプセルコーポのラボ近くで降り立った悟空は、せわしなく辺りを見回しながら入り口を探す。
 見れば、厳重な警戒を敷いていそうな門が程近くに立っているのに気づくが、以前こういった研究施設で門前払いを食ったことがあるのを思い出し、関係者でも何でもない自分がそう簡単に入れるものかとしばし迷う。
 一応、守衛に声をかけてみるべきか考えていると、丁度中庭に面した廊下の窓の向こうに、見知った顔が姿を現わしたのが目に留まった。

「ブルマ!!」

 渡りに船、とばかりに彼女に向かって手を振ると、向こうも彼に気づいたのか、目を瞬いて驚きの表情を見せるが、彼がここへ来た理由にすぐに思い当たったのか、ちょっと待っててとジェスチャーを送ると、一旦窓辺から見えなくなった。
 少しして、正面入り口から彼女が小走りに出てくるのが見え、悟空も門の傍まで走り寄る。

「孫くん!」
「ブルマ! 悪りぃ、どっから入っていいかわかんなくってよ」

 息を弾ませる彼女の表情に、はっきりと明るさが戻っていることに気づき、そこで悟空の予感が確信へと変わる。
「やっぱり……なあ、もしかして……?」
「──やっぱり、孫くんも気づいたんだ。もう、ずるいわよね、あんたたちって。何も言わなくてもわかっちゃうんだもの」
 少し唇を尖らせつつも、その微笑みに曇りはない。
「……じゃあ、ほんとに……ベジータが?」
「ええ。……今日、目を覚ましたわ。意識さえ戻れば、もう大丈夫だろうって」
「そっか……」
 まだ若干強張っていた面持ちが、彼女のはっきりとした返答でようやく緊張が解ける。
「実際に、今朝になって目が覚めたばかりなんだけど、もう身体は起こせるくらいになってるし。……ほんとに、毎度のことだけど、サイヤ人の回復力には驚かされるわ」
 呆れたように言いながらも、彼女の話す口調は柔らかで。
「そっか……。……よかったな、本当に」
 そんなブルマを見て、今度こそ肩の力が一気に抜け、悟空も安堵の息をつく。
「ええ……。本当に、よかった。孫くんも協力してくれたおかげよ。改めてお礼を言うわ。ありがとう」
「──いいや。オラなんて、大したことはできなかったさ。……あいつを呼び戻したのは、きっと、おめえの──おめえとトランクスの力だ」
 真顔でそんな風に言われ、ブルマが思わず目を瞬く。
「そんなことないわよ。……あの時、孫くんが助けてくれなかったら、今日という日も来なかったかもしれないもの」
「……」
 それでも、一年前のあの夜のことを思うと、悟空は何も言えなくなる。
 自分には、止められなかった。彼を止めることは、できなかった。
 もし、このまま──そう思うと居たたまれなかった。
 だから────

 よかった、本当に。

 それが、掛け値なしの、本心だった。

「……とにかく、よかった。トランクスはもう知ってんのか?」
「ええ。あの子もすぐにわかったみたいで、学校抜け出して飛んできたの。今、二人で部屋にいるわ」
「そっか。あいつも、よく頑張ってたもんな。……じゃあ、オラはこれで帰るよ。わざわざすまなかったな」
「え、会っていかないの? ベジータに」
 怪訝そうな顔のブルマに、いいや、と首を横に振る悟空。
「あいつが目を覚ましたってことがわかれば十分だ。……それに、オラなんかと顔合わせて、またあいつが気ぃ悪くしちまってもまずいしな」
 真面目な顔で呟く彼の台詞に、ブルマが小さく吹き出す。
「そんなこと、ない……とも言い切れないかしらね、あいつの性格だと」
「……だろ?」
 ベジータの性格をよく知る二人は、互いに顔を見合わせて苦笑する。
「それに、トランクスもいるなら邪魔したくねえしな。今日はあいつもまだ疲れてるだろうし、ゆっくりさせてやってくれ」
「そうね。……ありがと、孫くん」
「いや。早く元気になるといいな。……また、うちにも遊びに来いよ。チチも悟飯も、みんな待ってるから」
「ええ、ありがと」
 じゃな、と片手を挙げ、悟空はそのまま踵を返して元来た道を引き返していった。
 ブルマがしばらくその場で、後ろ姿に手を振って見送る。
 意識はしていなくとも、それぞれに浮かぶ表情は、昨日までのそれとは違う、翳りのない晴れやかなものだった。


 寒空の下、通り過ぎる風は肌を刺すように冷たかったけれど。
 待ち人が還ってきたその日、彼らを包むように舞い降りる淡い粉雪は、今までのどんな時よりもずっと──あたたかかった。

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