<36>

 窓枠に切り取られた薄曇りの空模様から、ひらひらと音もなく粉雪が舞う。
 そこから見える建物の屋根も、温室の外にある針葉樹の頭の先も、今は淡い白のヴェールに覆われてひっそりと静まり返っていた。
 彼は窓の傍に佇み、黙ってガラス越しにその光景を見つめていたが、やがて徐にもう一度視線を部屋の中へと巡らせた。
 元々、必要以外のものは置いていない飾り気のない部屋だったが、最初に足を踏み入れた時の中の様子は、自分が一年前、最後にこの部屋へ立ち寄った時と全く変わりないように見えた。
 聞けばこの一年間、ブルマがこまめに清掃することを欠かさなかったという。
 あいつが帰ってきた時のために、きれいにしておかないとね。ああ見えて、意外と潔癖なところがあるから。
 口癖のように、そう言って。

(…………)

 ──なぜ。
 もう、帰ってくる可能性など皆無に等しかったはずの、自分のために。
 なぜ、そこまで。
 目覚めた時、泣き笑いのような顔で自分を見つめた、青い瞳。
 今日、生きて再びこの場所へ戻ってきた自分を、傍らに寄り添いながらじっと見つめていた眼差し。

『おかえり、ベジータ』

 彼女はそう言って、彼の傍にいた。ただ、静かに微笑みながら。
 その笑顔を思い起こすたび、彼はただ、胸中を巡る言いようのない感情に戸惑っていた。
 結局、返せたのはいつもの素っ気ない返事だけで。けれど、それ以外に言うべきことも見つからなかった。
 それでも、彼女は満足そうに、笑っていた。それがやっぱり、あんたらしいわよね。そう言って。

(…………)

 何度目かわからない衝動に、知らず拳がぐっと握りしめられた時。
 シュッ、と短い音がしてドアが開いた。
「あ、ここにいたの」
 視線を入り口に向けると、廊下から顔を覗かせたブルマが、彼を見て中へ入ってくるところだった。
「雪、まだ降ってるのね。この調子だと、明日には積もるかしら」
 彼と並んで窓の外を見上げた横顔は、彼の記憶にある姿と何ら変わりはなかったけれど──ふとした拍子に見せるやつれたような陰が、どこか危うげな印象をもたらした。
 それが彼の胸の奥深いところを、ちくりと刺す。
「変わらないでしょ、ここも。部屋の中もきれいにしとくように気をつけてたのよ? あんた、結構潔癖なとこあるものね」
 聞いた通りそのままの台詞で笑う彼女に、わずかに噛みしめた奥歯に力が入る。
「……なぜ……」
「え?」
 聞き逃しそうなほどに小さな呟き。首を傾げて聞き返す彼女に、彼ははっと目を瞬き、何でもない、と視線を逸らした。
 その横顔を見つめ、彼女はきょとんとしたあと、ふわりと柔らかく笑った。
「どうして、って? そんなの、決まってるじゃない。ずっと信じてたからよ、あんたが戻ってくるって」
 弾かれたように顔を向ける彼に、彼女は変わらぬ笑顔で応えた。
 その惑いのない声に、思わず喉元にこみ上げた感情が口をついて出る。
「……そんな、不確かな可能性のために、なぜ……そう言い切れる。……オレは、そこまで……」
 彼の最後の一言は、しかし急に彼女が力をこめた両の拳で彼の胸を叩いたことで遮られる。
 驚いて視線を落とすと、彼女は明らかに怒った表情で彼を見上げ、睨んでいた。
「もう! あんた、まだわかってないのね! そんなの、決まってるでしょ! わたしは、あんたが大切なの! 誰よりも! 失いたくなんかないから、戻ってきて欲しかったから……! 他に理由なんかないわよ、あんたが好きだから、傍にいて欲しかった! 誰が何と言おうと、わたしには……わたしとトランクスには、あんたが必要なの! それだけじゃ、理由にならないの!?」
 うっすらと涙すら滲ませて訴える彼女に、彼は口を開くことも忘れて圧倒される。
「命をかけてでも、守りたいって……失いたくなんかないって思ってるのは、あんただけじゃないのよ……! また自分だけ、勝手に納得して……いなくなるなんて、許さないんだから!」
 次第に嗚咽の色を帯び始めた声に、彼ははっと我に返るも、音にできる言葉もなく。
 ただ、己の肩に顔を伏せて震える妻の、あまりにもか細く見える両肩を、そっと包んでやることしかできなくて。
 ──また、自分だけ──
 その一言が、不意にあることを脳裏に甦らせる。三年前の、あの光景を。

(…………)

 そんなつもりはなかった──と言えば、それもわずかな齟齬があるだろうか。
 あの時、自分は初めて己以外の誰かを守るために戦い、そして最後の手段を選んだ。
 そうすることに何の疑問も持たず、戦士である自分が戦いの中で果てることを、本望とすら思った。──今にして思えば、それは確かに、自分ひとりの我侭でもあったけれど。
 しかし、自分と彼女とでは、そもそも存在の意味が根本から違う。
 光ある世界に生まれ、これからもその世界を歩んでいくことが当然の女。
 その彼女が、自分のような、血と殺戮に塗り固められた闇の中で生きてきた者のために、必要以上に身を削らねばならない理由などないはずだと、今は思っていた。
 どんな結末が訪れようと、自分はいい。今までしてきたことを思えば、どんな死に方をしようが文句など言えた義理ではない。それも、当然のことだ。
 たとえ泣いても、きっと立ち直る。そうして、前へ進んでいくことができる。──それだけの強さを、彼女は持っている。そう、信じていた。
 けれど。
 今、自分の腕の中ですすり泣きを洩らす彼女は、三年前のあの時よりももっと、ずっとか細く、脆く見えた。
 それは彼が知る、時として豪胆なほどの芯の強さはなりを潜め、支えていなければ今にも崩れ落ちてしまいそうな儚さすら覚えた。
 思わず、その存在を確かめるかのように、背中に回した手に力をこめ、抱き寄せる。

「……すまん」

 他に言うべき言葉も見つからず、彼はただ、そう呟いて妻を抱きしめた。
 この世でただひとり、己が認め、隣にいることを許した女。
 どんな時でも、ありのままに本心をぶつけてきた彼女の、己に対する感情を疑ったことはない。
 それでも。
 ──結局、自分が気づいていなかっただけなのだ。そこまで、必要とされていたことに。これほどまでに、強く、揺るぎない想いを向けられていたことに。
 認めることをためらい、迷い続けてきた感情。
 それでもあの時、自分は受け入れると決めたはずだ。──この世の何を引き換えにしてでも、守りたいと。
 そしてその想いは、決して自分だけのものではなかったのだと。今、こうして教えられた。
 戸惑いはあった。こんな時に返せる言葉を、相応(ふさわ)しい行動を、自分は知らない。
 知らない、けれど。
 今はただ、こうしてやることで……精一杯の、答えになればいいと。
 本気でそう思った。
「もう、どこにもいかないで。ずっと、ここにいて。──あんな思い、させないで」
「……」
 懇願の色を滲ませ、小さく震える声に、言いようのない衝動がこみ上げ、両腕に力がこもる。
 ──約束するとは、言えなかった。我ながらこの期に及んで往生際の悪い、と呆れながらも。
 自身が自身である限り、戦いを捨てることはできない。いつどこで果てるか、それは自分にもわからない。
 それでも。

「……泣くな」

 もし、己に、その選択肢が与えられているのならば。
 今度こそ、きっと。
 自分に許される限り。彼女が、そう望む限り。

 この場所で、共に──。


 降りしきる淡雪が、音もなく、冬の街を包み込む。
 言葉もなく、けれどかたくかたく交わされた、ふたりだけの時間。
 それはやがて影の色が薄らぎ、空の色に溶けて見えなくなるまで──離れることは、なかった。

 


「……もう寝入っちゃったみたいね。こーんなにあどけない顔しちゃって、大きくなったと言ってもやっぱりまだまだ子供なのね」
 サイドテーブルの明かりを落とし、ブルマが目を細めて息子の頬をつつく。
「それにしても、こうずーっとべったりだとちょっと妬けちゃうわねー。でも、今日は特別な日だもの、仕方ないわね」
 トランクスはムニャムニャと何やら寝言を呟きながら、ベジータにしがみつくようにぴったりとくっついていた。
「まったく、甘ったれなのは変わらんな」
 呆れたように言いながらも、その口調に棘はなく、夫の表情は穏やかだった。
 相変わらず素直じゃないわね、と苦笑混じりに思う。
 ベジータがカプセルコーポへ帰ってきたその日。一年ぶりに家族全員が集ったリビングで、賑やかしくも和やかな晩餐が開かれた。
 その間もトランクスはずっと父の傍から離れようとせず、しきりに話しかけては短い返事をもらうだけでこの上なく嬉しそうな顔を見せていた。
 そんな息子の仕草に時折呆れ顔になりつつも、ちゃんと応えているベジータの父親らしい姿も、ブルマの表情を温かく綻ばせた。
 そして夜も更けた頃、二人が床につこうとしていたとき、寝室のドアの外でうろうろしていた息子に気づき、中へ招き入れたのがベジータだった。
 ブルマにどうしたの、と尋ねられても口ごもりながらもじもじしていた息子の心中はよくわかる。
 もう逢えないかもしれなかった父。二度と触れることはできなかったかもしれない温もり。
 もっと傍にいたい、近くに感じていたい。けれど、年齢的にも彼の性格的にも、なかなか言い出せなかったのだろう。
 親子三人、こうして傍にいられること。普段は意識することも少なかったそんな当たり前のことがこんなにも幸せなことなのだと、彼がいなくなるたび、そして戻ってきてくれるたびに思い知らされる。
 普通の人間であれば想像もできないであろういくつもの冒険、危機、戦いが何度も彼女たちに訪れた。
 そして幾重もの偶然と必然と巡り合わせを繰り返す中で自分たちは出逢い、惹かれ合い、今こうしてここにいる。
 それまでの道のりは決して穏やかなものではなかったし、これからだって何が起こるかはわからない。
 それは彼が彼である以上、きっと避けて通ることはできない宿命なのだろう。
 ──それでも構わない。この先何が起ころうと、彼を選んだのは他の誰でもない、自分自身なのだ。
 自分が決め、望んだ場所に、今こうして彼がいてくれる。それだけでいい。
 その事実が何よりの証しであり、答えだった。


 一年間の空白を経て、再び温かな空気に包まれたカプセルコーポの一日は、そうして穏やかな時間とともに、ゆっくりと暮れていった。

 


 ベジータが退院してから数日後の日曜日。
 その日、カプセルコーポでは、近しい友人たちを招いてホームパーティーが催された。
 クリスマスや新年明けに忙しくて大したことができなかったから、遅くなったけどその代わりに、という名目で企画されたささやかな集まりに、仲間たちはみな二つ返事で顔を出した。
 もちろん、事情を知る者は皆、この祝いの席がどういう意味を持つのか理解している。だからこそ、あえてその話題に触れるような無粋なこともしなかった。
 久々に気の置けない仲間が集う明るい雰囲気の中、以前と同じ姿がそれとなく部屋の隅に認められることに、また、そのことでブルマやトランクスが心からの笑顔を見せていることに、誰もが安堵の表情を覗かせた。
 はしゃいだ様子で悟天と好物の取り合いを繰り広げているトランクスを見やり、悟飯とチチが感慨深げに呟いた。
「楽しそうですね、トランクス君」
「んだな。そりゃ、はしゃぐのも当然だべ。なあ、ブルマさ」
「ええ。この間からずっとあの調子よ」
「そういうブルマさも、嬉しそうだべ。やっぱり、笑顔が全然違うだよ」
「え、そ、そう?」
 んだ、と笑うチチの笑顔は温かなものだった。
 彼女も過去に似た思いをしたことがあるからこそ、ブルマの気持ちも理解できるのだろう。
 もう逢えないと思っていた人が戻ってきたときの喜びこそ、何ものにも代えがたいものであることを。
 ずっと歯痒い思いをしながら見守っているしかできなかった彼らにも、それは我がことのように伝わってきた。
「本当に、良かっただな」
「……ええ。ありがとう」
 友人たちの心からの言葉に、ブルマも感謝をこめて翳りのない晴れやかな笑顔を見せるのだった。


「お、いたいた。こんなとこで何やってんだ、ベジータ。ブルマが探してたぞ」
 温室に繋がる廊下の窓際で、外の空気を吸い込んで一息ついているところへ、後ろから近づいてきた気配にベジータはうんざりした声を投げた。
「少し息抜きしているだけだ。ずっとあの空気の中にいたら窮屈でしょうがない」
「はは。ま、そう言うなって」
 彼らしい返答に苦笑いし、隣で悟空も窓から空を見上げた。
「おめえが戻ってきて、ブルマもトランクスもすげえ嬉しいんだからよ」
 彼女たちを包んでいる気の状態と表情が、彼が目覚める以前とはがらりと変わっていることを伝え、しんみりと呟く。
「オラにだってわかるくらいだ、おめえならもっとわかるだろ?」
「……ごちゃごちゃとお喋りな野郎だ」
 不機嫌そうに返される台詞は、しかし決して冷たさを含んではいなかった。
 それでも仏頂面を崩そうとしない彼のいつもの態度に、悟空の表情にも自然と笑みが浮かんだ。

 ──あの日、あの夜、己の目の前で消えかけた命。
 腕の中で、あまりにも弱々しく揺らいだ灯火を思うと、今でも息が苦しくなりそうな衝動に駆られる。
 けれど、今、隣で静かに、力強い存在感を放っている彼は、紛れもなく以前と変わらぬ彼のままで。
 今は何より、それだけで十分だと思った。

「トランクスも、頑張ってたんだぜ、ずっと。──おめえに認めてもらえるくらい強くなりてえんだって、小っせえ身体で一生懸命、な」
「……知っている」
「──そっか」
 ベジータ自身、トランクスの気の大きさや体躯の発達の仕方から、息子が着実に力をつけていることは感じていた。
 自分が目覚めるまでの間、トランクスが一人で重力室にこもりながら、懸命に訓練を続けていたということは、ブルマから聞いていた。時には、悟空に真剣勝負を挑みに行っていたらしいことも。
 パパをびっくりさせたいんだ。オレ、これだけ強くなったんだよって。
 そう口癖のように言いながら。
「おめえの戦い方そっくりだったぞ、あいつ。よく見てたんだな、きっと」
「……ふん」
 言葉少なに肯定も否定もしないのは、きっと照れ隠しでもあるのだろう。
 が、彼もきっと悪い気はしていないであろうことは、伝わってくる気の波から感じ取れた。
(やれやれ、相変わらず、素直じゃねえな)
 だが、それも含めて彼なのだ。きっとブルマも、そう言って笑うだろう。
「ま、そういう訳だからよ。あいつらの気持ちもわかってやってくれよ」
「……やかましい。そんなことくらい──」
 きさまに言われずとも、わかっている。
 音にはならなかったが、その後に続いたであろう言葉を察し、悟空はにかっと笑って頷いた。
「んじゃ、オラは戻ってるからよ。うめえもんが無くならないうちに来いよ!」
 返事を待たずに踵を返し、広間へ戻っていく悟空の後姿を一瞬呆気に取られた顔で見送ったベジータは、間を置いて思わず舌打ちを零した。
「まったく、どいつもこいつも──」
 悪態混じりに呟かれた声音が、わずかに開いた窓から吹き込む風の音(ね)に紛れて霧散する。
 それでも。
 曇り空を見上げたその眼差しは、言葉とは裏腹の穏やかな色を湛えていて。
 おそらくそれは、本人すら自覚しなかったかもしれない──ひどく見えにくい、けれど確かに存在する、柔らかな光。
 やがて、溜息混じりに窓を閉め、重そうな足取りで広間へと引き返していく彼の背中を、過ぎ行く冬の息吹が見つめ──それぞれの胸に様々に去来する想いすべてを包み込み、微笑むように、揺れていた。

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