まどろみの中にいた。
ゆらゆらと、優しい漣に揺られているような。
無重力の空に漂っているような。
それでいて、魚のように泳ぐでもなく、鳥のように飛ぶでもなく。
上下もなく、右も左もわからない、自己と自他の境界すらおぼろげな世界で。
すべてを柔らかく染める淡い水色の中、穏やかな気配に抱かれて。
ここがどこなのか、自分がどうしてここにいるのか。
意識すらも霞に溶けたかのようにぼやけてはっきりしなかったが、それも大したことには感じなかった。
ただ、自分を包むこの世界がとてもあたたかく。とても心地良くて。
今はこの温もりに抱かれて、ずっとこうしていたかった。
緩やかにたゆたう眠りの中で。
その時。
ふと、声が聞こえたような気がした。
──……?──
意識の片隅で、朧気ながらそれを認識した彼女を取り巻く水色が、かすかに揺らめく。
少しずつ、少しずつ。現れては消える水泡の煌めきと共に、ふわりと浮上感に包まれたのを感じる。
ああ、目覚めが近いのだ、と漠然とながら悟る。でも、もう少しこうしていたいのに、と少しだけ残念に思っていると。
──ブルマ。
彼女を、今度ははっきりと聞こえる声で、誰かが呼んだ。
静かな、そしてとても涼やかな響きを持つその声に導かれるように、彼女を囲む空気がゆらゆらと流れていく。
彼が、呼んでいる。自分を。
行かなくちゃ──そう思った瞬間、世界がふわりと白く染まり──浮遊感と共に彼女の意識がゆっくりと引き上げられていった。
「……ん……」
まどろみから覚めたばかりの視界がぼんやりと開け、まず認識したのは見覚えのない白い天井だった。
そして、次に目に入ったのは。
「……気がついたか」
特徴的な黒髪と、自分をまっすぐに見つめる黒い瞳。
逆光になっていて見えにくい状態ではあったが、その眼差しに一瞬ひどくホッとしたような色がよぎったのは、きっと気のせいではないだろう。
「……ベジータ? ──ここは……?」
自室でないことはわかったが、どうやら会社でもないらしい場所にいることを怪訝に思う。
何度か目を瞬いた後、ようやく回り始めた頭で、ブルマは彼に尋ねた。
「都の病院だ。おまえが研究室で倒れた後、ここに運ばれた」
「──病院? わたし、倒れちゃったの?」
「ああ。疲労による軽い貧血を起こしたらしい。一時的なものだから、心配はないだろうと言っていたが……覚えてないのか」
「うーんと……」
まだ少し眠気の残る思考で記憶を辿り始める。
「そういえばここのところ、詰めの作業で何日か徹夜続きだったのよね。そのせいかしら? ──あ」
そこまで呟いた途端、両目が見開かれる。
「待って、倒れたって、わたしどのくらい寝てたの?」
「一晩程度だ。まだそんなに経ってない」
「一晩!? そんなに!?」
大変、と慌てて跳ね起きようとする彼女を、ベジータが制する。
「待て、どうする気だ」
「どうするって、こんなことしてらんないじゃない! まだまだやらなきゃならない作業が残ってるのよ、もう発表まで時間がないんだから!」
「それなら心配する必要はない、おまえの父親にも事情は説明してある。とっくに対処しているはずだ」
「父さんが? ……でも、今回の件は父さんじゃカバーしきれないことも多いはずよ。あれだけ難航してたんだから、わたしがまとめなきゃ完成できっこないわ」
「だからといって、今の状態ではまともな考えも回らんだろう。余計効率が悪くなるだけだ、もう少しおとなしくしていろ」
「……そんな悠長なこと言ってられないわよ、ただでさえ予定を大幅に変更してるんだから。これ以上の延期はできないわ……行かなくちゃ。どいてよ」
まだ血の気の薄い顔色で、それでもあくまで自分の体調より仕事の優先を主張し、夫に訴える。
そんな彼女を見て、言っても聞きそうにないと感じたのか、ベジータは軽く溜め息をつくと手を離した。
「ずいぶん時間のロスになっちゃったわ、早く戻らないと……」
急いで身支度を整えようとベッドから降りた途端、ふらりとブルマの身体が揺れた。
「! おい!」
それを見咎めたベジータが、後ろから彼女を引き寄せる。
「……平気よ、これくらい」
「どこがだ、だから言っただろう」
「もう、大丈夫だってば。それに、急がないと余計に忙しくなっちゃう」
「……」
「大丈夫よ、だから……ぁ……?」
言い募り、離してもらおうと後ろを振り向こうとしたその時。
突然視界を遮った白い光と、額にかすかに触れた掌の感触を最後に、そこでブルマの意識は再び途切れた。
ぐらりと力の抜けた身体を抱きとめ、ベジータは苦い表情で黙り込んだ。
彼女も言い出したら聞かない性格だ。いくら疲れていても、納得のいくまでは決して休養を取ろうとはしないだろう。大掛かりな研究プロジェクトが関わっている仕事ともなれば尚更だ。当然、自分が言ったところで耳を貸すとも思えない。
しかも、聞けば今回の計画は、二年前から本格的にスタートし、本来なら半年前には完成予定だったらしい。それを、彼女の都合で他の研究に時間を割いたため、何とか発表の時期を変更し、遅らせたのだという。
なぜ、そんなことをする必要があったか。その理由など、聞くまでもなかった。
もう一度大仰に溜め息をつくと、ベジータは強制的に意識を落とした彼女を抱き上げ、もう一度ベッドに横たえる。
額にかかる乱れた髪に触れ、やつれた面差しに手を添える。
「……このバカ女。後先考えずに無理しやがって……代わりにおまえに何かあったんじゃ、何の意味もないだろうが」
渋い表情で呟き、布団をゆっくりとかけて彼女が眠っているのをもう一度確認すると、音を立てないように踵を返した。
「……仕方ない、な」
苦虫を噛み潰したままの顔で、しかしはっきりと意を決したように視線を上げると、彼は静かに病室を後にした。
結局、次にブルマが目を覚ましたのは、それから更に丸二日近く経ってからのことだった。
再び目覚めた時、息子と様子を見に来ていた父親が傍にいるのを認めた彼女は、彼らに日付を確認した途端、思わず叫んでいた。
「ウソでしょ、なんで!? なんでわたしずーっと寝ちゃってたの!?」
「なんでって、その……や、やっぱり疲れてたんだよ、ママ」
「無理しちゃいかんぞ、ブルマ。身体を壊したら元も子もないじゃろう」
「何呑気なこと言ってるのよ! ああもうどうしよう、これじゃ間に合わないじゃない!!」
彼女は跳ね起き、ブリーフ博士やトランクスが止めるのも聞かず、慌しく身支度を始めた。
「大体父さんも父さんよ、なんで起こしてくれなかったの!? 例のプロジェクトが今どんな状況かわかってるはずでしょ!?」
「それについてなら大丈夫じゃよ、もう殆ど作業は済んどる」
「え?」
「まあ、最後の仕上げや全体会議で決めなきゃならんことはまだ少し残っとるがな。問題のあった部分はほぼ修正済みだし、今後のマーケティング展開についても大まかな見通しはついとるよ。だからそんなに心配するほど差し迫っとらん」
「……うそ、だってあの進行状況じゃまだ全然終わってなかったはずよ。まさか父さんが全部やってくれたの?」
「ん? ……ああ、まあ、わしももちろん参加したがね。後は優秀なスタッフたちが頑張ってくれたよ」
相変わらず呑気な調子で答える父親の様子に、当てにならなさそうだと判断したブルマは、小さく溜め息をついて「とにかく、すぐに会社に戻るから」と告げて準備を再開した。
こうなると何を言っても耳に入らないだろうことはわかっていたので、忙しなく動き回るブルマの背を見ながら、祖父と孫は揃って肩を竦めたのだった。
「……うそ」
手にした書類に一通り目を通した後、開口一番ブルマが洩らしたのはその一言だった。
取るものもとりあえず、急いでカプセルコーポのラボへ戻った彼女は、真っ先に助手たちを呼び集めて現在の作業状況の説明と資料の提示を求めた。
そして、大体の現状を把握した途端、思わず目が丸くなる。
そこに集められた資料も、研究員たちの話も、博士の言葉が誇張でないことを明確に示していたからだ。
まだ検証しなければならない作業がずいぶん残っていたし、それ以外にも他の部署と共同して進めなければならない会議の予定が詰まっていたはずのスケジュール表は、そのほとんどが既に消化済みとなり、彼女が見ても納得のいく結果でまとめられていた。
「だから言ったじゃろ、そんなにカリカリせんでも大丈夫じゃよ」
遅れてラボに入ってきた博士が、煙草の煙をくゆらせながら言った。
「だって……まさか、とてもわたし抜きでここまで進めるような状況じゃ……。検証作業だけならともかく、こんな細かい修正まで……その上、経営面の考慮まで」
「おやおや、おまえはそんなに我が社の社員たちの能力を信じとらんのかね? おまえ一人で抱え込むようでは、うまくいくものもいかんぞ」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
たしなめるような父親の言葉に、思わず口ごもるブルマ。
少々焦っていたのは確かだが、別に部下たちを過小評価していたわけではないし、自分の能力を過信していたわけでもない。個々の力量に応じた作業量を冷静に計算し、判断した上での作業工程だったから、そこから誰かが抜ければ即穴が開くのは否めなかったのだ。
しかし、その危惧は予想もしていなかった結果で覆された。
まだ半分信じられない顔で、しかし実際のデータを提示されれば疑いの余地はなく、彼女はひとまず肩で大きく息をした。
「……ありがと、父さん。確かにこれなら、だいぶ余裕ができたわ。みんなもご苦労様、急に抜けちゃって迷惑かけたわね」
父と集まった部下に頭を下げ、ブルマは皆の労をねぎらった。
彼女の言葉に、研究員たちが一瞬複雑そうな表情で顔を見合わせたため、ブルマが首を傾げてどうかしたのかと尋ねるが、彼らは慌てて何でもないと否定しただけだった。
その様子を怪訝に思いながらも、まだやることが全部終わったわけではないので、ブルマは皆に指示を出して作業に戻ることにした。
やることと言っても急を要するものはほとんどなく、実際に検証結果とまとめの作業を確認しただけでその日の予定は終わり、研究員たちにも休むように告げると、彼女も早めに切り上げることにした。
ラボのデスクにソファに腰を下ろして一息つくと、そこへ彼女が戻るのを見計らった父親がコーヒーを持ってやって来た。
「あ、父さん。お疲れ様」
「おまえも疲れたじゃろ。病み上がりなんじゃから、まだ無理しちゃいかんよ。ほれ」
「わぁ、ありがと」
香ばしい香りのするカップを受け取り、一口啜る。
「ん、美味しい。……でも、ほんとに助かったわー。一時はどうなることかと思ったもの」
心底ホッとした呟きを洩らすブルマに、博士は目を瞬いて視線を向けた。
「でもまさか、たった二日でここまで進んでるなんて夢にも思わなかったわ。とてもそんな短時間でできるような……」
言いながら資料を見直していたブルマの声が、そこでふと途切れる。
「……あれ……?」
彼女が目を留めた先にあるのは、束になったレポートの中の一枚。
その端に、小さく書かれた走り書き。
それを凝視したブルマの両目が、静かに見開かれる。
解析結果と手順を記す、ごく端的なメモ。しかしその筆跡は、彼女の記憶には見慣れないものだった。
父親の筆跡ではない。かといって、内容からして研究員たちが書いたものとも違う。
と、なれば。
他に、短いながらここまで的を得た文章を書ける者といえば──
「……ベジータ、なのね?」
一瞬の沈黙の後、すべてに納得がいったという顔で、ブルマがぽつりと呟いた。
「ねえ、そうなんでしょ?」
身を乗り出して彼女が博士ににじり寄る。その目は確信に満ちていて、自分の直感に微塵の疑いも持っていないようだった。
博士はやれやれと肩を竦め、顎に手をやった。
「まあ、最初から隠しきれるとは思っとらんかったがの。──その通りじゃよ。この二日間、率先して皆を指揮してすべての作業を進めたのはベジータくんじゃ」
「やっぱり……」
「いや、わしも驚いたよ。開発に関係した検証や考察については、彼も今まで関わってきたことだから任せても安心だと思ったが、それ以外の部署が担当する仕事の概要についても、資料を何度か読み込んだだけで驚くほど的確な指摘をしてくるんじゃ。その資料ひとつとっても並大抵の量ではなかったはずじゃが、あっという間にすべての知識を正確に理解していたよ、彼は」
「……」
「彼の指示が的確だったおかげで、皆も戸惑わずに仕事ができたんじゃ。……それも全部、おまえに無理をさせないためだったんじゃよ。何しろ、作業が一段落つくまでは絶対におまえを起こすなと釘を刺されとったしなぁ」
「……じゃあ、わたしが丸二日寝てたのって……」
「まあ、そうじゃな。トランクスなどは、おまえが目を覚ましたら強引に気絶させてでも寝かせておけ、と言われて困っとったよ」
笑いながら言う父の説明に、ブルマは思わず眉を上げた。
実際にそんなことをされた覚えはないから本気で言ったわけでもないだろうが、それにしても。
「おっと、怒らんでくれよ。しょうがないじゃろ、何しろおまえときたら、どんなに疲れていても気が済むまでは絶対に休もうとせんからなぁ。彼も心配だったんじゃよ」
「……」
「まあ、彼のおかげで作業もはかどったことだし、結果オーライじゃろ。それにしても、ベジータくんがこれほど有能な人材だったとはなぁ。知識も技術力も申し分ないし、経営面でも相当の実力を備えとる。わしとしては即戦力として社員に起用したいくらいじゃよ」
「……何言ってんのよ、もう……」
あくまで楽観的に呑気なことを述べる父の口調に、肩から力が抜けたブルマは大きく息をついた。
怒れるわけなど、ないではないか。むしろ、逆に──。
「ねえ、あいつ、どこにいるの?」
顔を上げた彼女は、唇をへの字に曲げた少しばかり複雑そうな表情で博士に尋ねた。
「確か今日は重力室でトレーニングをすると言っとったから、そろそろ終わって出てくる頃じゃないかのう」
「……そう、ありがと。ちょっと行ってくるわ」
そう言って小走りにラボのドアを出ていく彼女の背中を見ながら、博士がポリポリと頭を掻きながら独りごちた。
「まったく、素直じゃないのう。実に似た者夫婦だわい」