「──あ、ママ!」
自室から下りて来たトランクスは、リビングに入る前で廊下の向こうからパタパタと走ってきた母に気づき、駆け寄った。
「もう大丈夫? 無理してない?」
「ええ、もうすっかりね。大丈夫よ」
まだ少し心配そうに見上げてくる息子に微笑み、頭を撫でる。
「あんたもずっと付いててくれたのよね。心配かけちゃったわね」
はにかんだ笑みを浮かべ、トランクスは首を振った。
「ううん。ママが元気になってよかったぁ。おじいちゃんもおばあちゃんも、パパも心配してたんだよ」
「……うん。それで、そのベジータは?」
「パパ? えっと、さっき重力室から出てきて、今シャワー浴びてると思うよ」
「──そう」
それなら少し待たなければならない。息子とリビングに入ってきたブルマは、とりあえず何か飲みながら落ち着こうとキッチンへ足を向けた。
「母さんはどうしたの?」
「おばあちゃんは今日は昼間から出かけてるって。そろそろ帰って来る頃だと思うけど」
「そっか」
「あ、ママ、オレが淹れるよ。何飲む?」
「あら、そう? そうね、それじゃ、ホット蜂蜜レモンお願い」
「オッケー」
息子の申し出をありがたく受け取り、弾む足取りでキッチンに向かう背中を微笑んで見送ると、彼女はソファに腰を下ろした。
一服しようとポケットに手を入れるが、何も手に触れなかったため煙草はラボに置き忘れてきたことを思い出す。
「……ま、いいわ」
ふう、と息をついて背もたれによりかかる。
そこへ息子が二人分のカップを持ってキッチンから出てきた。
「お待たせー。熱いから気をつけてね」
「ありがと」
微笑んでカップを受け取り、二人はソファに並んで座った。
少し冷ましながら、ゆっくりと口にする。
それはいつかと同じ、とても甘酸っぱく、温かい香りと味がした。
「美味しい?」
「うん、美味しいわ。ありがと、トランクス」
えへへ、と照れくさそうに笑う息子の気遣いに、ブルマの心も温かく満たされる。
「……あいつも、あんたくらい素直だったらいいのにね」
「え?」
首を傾げるトランクスに、ブルマが少し唇を尖らせて言った。
「パパに、絶対にわたしを起こすなって言われてたんだって? まったく、照れ隠しにしたってもう少し他にやり方がないものかしらね」
「ええー!? おじいちゃん、もう喋っちゃったの?」
「喋ったっていうか、わたしが気づいて聞いたのよ。あいつも、口止めする割には結構詰めが甘いのよね」
クスクスと笑う母に、トランクスが「参ったな」と頭を掻く。
確かに、本当に隠したいことに関しては鉄壁ともいえるポーカーフェイスを貫く父だが、それ以外のことに関しては意外とガードが甘いところがある。
加えて、母は勘が鋭い。そういう意味では、最初から隠し切れるとは考えていなかったのかもしれないが。
「でもさ、パパ、本当にママのこと心配してたんだよ。ママが倒れてから最初の一日は、ずっとパパがママの傍に付いてたんだ」
「──え?」
「もちろん、時々はオレと交代もしたけどさ。ほとんどパパが傍にいたんだよ。その時、ママに自分の気を分けてあげたりしてたんだ。……ほら、オレたちって普通の人より強いから、自分の気のエネルギーを、他の人に分けて元気にしてあげることができるんだって。オレはまだやったことないんだけど」
「……へぇ……そうなの」
「うん。それで、ママが目を覚ますまでパパがそうやってずっと看てたんだ。ママが一度起きてからは、パパが会社のほうに行かないといけなかったから、オレやおじいちゃんが付いてたけど。……だから、ママを起こすなっていったのも、パパがほんとに心配してたからなんだよ」
「……うん」
何とか不器用な父親をフォローしようと懸命なのだろう、真剣に説明する息子に笑顔で頷く。
「わかってるわ。ありがと、トランクス。教えてくれて」
「うん。……あ、で、でも、オレが喋ったって言わないでよ。後で怒られるから」
言ってから、ベジータに睨まれることを思い出したのか、慌てた顔で付け足す。
青くなったトランクスに小さく吹き出してから、ブルマは「大丈夫よ」と頷いた。
絶対だよ、と大真面目な顔で念を押す息子を「わかってるわよ」となだめ、頭を撫でてから、両手でマグカップを持ち直した。
今しがた教えられた事実が、二日前に目覚めた時の記憶に重なる。
あの時、夢うつつで感じていた心地良さ。穏やかな波に揺られるように、ずっと包まれていたいと感じたあの温もり。
それはきっと──彼の持つ気配そのものだったのだ。
彼がその時どんな顔で自分の傍に付いていてくれたのか。そう思うだけで、くすぐったいような切ないような、何ともいえない気持ちに満たされる。
──でも、ずるいわよね。こういう時だけこんなに優しくしてくれるなんて。わたしはなーんにも見てないのにさ。
そんなことを考えながら、少しばかり鼻の奥がツンとなるのを誤魔化すように、ブルマはことさらゆっくりとカップを口に運んだのだった。
トレーニングの後、シャワーを終えたベジータは、濡れた髪をがしがしとタオルで拭きながらバスルームから出てきた。
ぶるぶると頭を振り、ふう、と軽く息をつく。
つい時間を忘れて遅くまで重力室に篭もっていたため、出てきた頃には既に外は真っ暗だった。
いつもなら夕方になる前にはすべてのメニューを終えるのだが、三日間まともに身体を動かしていなかったため、その分の遅れを取り戻すことが先だった。
一日でも動かなければ勘は鈍る。ましてやこの二日間は自分とはもっとも縁遠い作業に集中しなければならなかったのだから、彼としては相応の忍耐を必要とした時間だった。
内容自体はかつて軍に従事していた時代、遠征先の状況によってはやらなければならなかった作業と通ずる部分も多いため、理解することも大して難しくはなかったが。
今となっては普段ならまず関わらないしその必要もない仕事だ。少なくとも自分にとっては。
だが今回ばかりは仕方なかっただろう。そうでもしなければ、あいつは絶対に休むことなどしなかっただろうから。
検証作業から問題の修正、仕上げ、また実作業だけでなく制作発表後の製品の展開に関する資料の読み込み、それを踏まえての社員たちへ指示など、二日間ほとんど寝ずに集中して進めた結果、問題点はほぼクリアし後は最後のまとめを残すのみとなった。
その時点でもう十分だろうと判断した彼は、残りをブリーフ博士に引き継ぎ、仕事を終わらせてラボから引き上げてきた。
二日間寝ていないといっても底無しの体力を誇るサイヤ人である彼のこと、疲れを感じるほどのものでもなかったが、その間訓練ができなかったことのほうが気になったため、早々と重力室に篭もり、ついさっきまで身体を動かしていたのだった。
そして、今に至る。
慣れない作業をしたせいで強張った身体を思い切りほぐし、いくらか気も晴れた。
シャワーを浴びて喉の渇きを覚えたので、下に下りるべくタオルを首にかけたままドアに向かった。
と。
ふと感じた気配に目を瞬くと、先にドアが開き、そこに案の定ブルマが立っていた。
「……ベジータ!」
声をかける間もなく、飛び込んできた彼女に思いっきり抱きつかれ、思わず後ずさる。
「……な、なんだ……!」
不意を突かれてよろめきながら彼女の身体を抱きとめ、少しばかり声を荒げる。
まったく、目が覚めたかと思ったらこれだ。
心中で呆れた溜め息をつくが、ブルマが何も言わず、じっと抱きついたままなのに気づいて訝しむ。
「……どうした」
少しばかり彼女の様子が違うのを感じ、知らず声のトーンを下げて彼は尋ねた。
抱きとめた身体は相変わらず細く、その頼りなさが胸を突く。刹那、三日前のことが脳裏をよぎった。
ラボで倒れて病院にかつぎ込まれた時、ベッドの上で横たわった彼女のやつれた顔。
この細身でどれだけの無理をしていたのか。それを考えるだけで言い表せぬ気分が胸中を渦巻いた。
彼女は黙ったまま、彼の肩に顔を埋め、ぴったりとくっついて離れなかった。
彼はもう一度小さく溜め息をつき、しかし彼女を引き離すこともせず、そのままにさせていた。
「もう大丈夫なのか」
「……うん」
静かに問う声に、彼女も小さく頷いて応える。
密着した胸からじかに伝わる鼓動。抱き締めた腕で感じる高い体温。柔らかく耳に響く、抑えた声音。
ずっと傍に感じていた、あたたかさ。
そのひとつひとつが、彼女の胸に染み渡る。
顔を見たら言いたいと思ったことがたくさんあったのに、何から言えばいいのやら、うまく言葉に出てこない。
ただ、今はこうしてもう一度、彼の匂いと気配を感じていたかった。
彼は妻の様子を怪訝に思いながらも、華奢な肩をそっと抱き寄せ、彼女の気が済むまで好きにさせていた。
互いの体温が密着し、静かな鼓動が伝わってくる。
──パパも心配してたんだよ。
──ずっとパパがママの傍についてたんだ。
息子の言葉が脳裏に甦り、抱き締める腕にぎゅっと力をこめる。
見ていなくとも、実感として彼女はそれが事実だと確信していたから、もちろん疑うことなどしないけれど。
その時、彼はどんな顔をしていたのだろう。どんな思いで、自分の傍にいてくれたのだろう。
自分が知るのはいつも後だ。彼が自分のためにしてくれたことに、言ってくれたことに気づくのは。
それを面と向かってなど言わないのが彼であるし、それは十分わかっているつもりだけど。
「やっぱり、ちょっとだけ、ずるいわよね」
「──何?」
かすかな声で洩らした一言に、彼が首を傾げる。
「ううん、なんでもない。わたしのために、あれだけの仕事を頑張ってくれたんでしょ? お疲れ様」
そこで何のことを言われたのか思い当たったベジータが「……あのお喋りめ」と小さく舌打ちする。
「怒んないの。照れくさいのはわかるけど、あんまり父さんやトランクスを困らせないでよ?」
「だ、だれが照れ……」
「ちょっとびっくりしたけど……嬉しかった。ありがと、ベジータ」
クスクスと嬉しそうな笑みを浮かべ、そう呟いて彼女が甘えるように顔を寄せてくる。少しばかり眉間の皺を深くしながらも、彼はそれ以上否定もしなかった。
諦めたように小さく溜め息をつきながら、腕を彼女の背に回し、抱き寄せる。
「あまり、無理をするな。──オレができることなら、やってやる。だから、こんな無茶だけは……もう、するな」
低く抑えた、けれど深い響きを込めた声。
正面から抱き締められているために顔はわからない。それでも、間近で耳朶を打ったその言葉は、何よりも重く、深く──そして、あたたかく彼女の胸に沁みた。
「……うん」
それでも顔は見せないところが、あくまで彼らしいと少し苦笑しながらも。
ブルマは小さく頷いて、頭を彼の肩に預けた。
不器用で素直じゃない彼が直接伝えてくれた、自分を気遣う言葉。
普段の彼なら絶対しないであろう行動も、厭(いと)わずすべてやってくれた。
『……それも全部、おまえに無理をさせないためだったんじゃよ』
『──パパがほんとに心配してたからなんだよ』
──わかってるわよ。
ふと甦る父と息子の声に胸の内で呟く。
ほんとに、素直じゃないくせに……時々すごいことしてくれちゃうんだから。
彼がこうして傍にいて、力になってくれる。
素っ気なくても、こうして直接伝えてくれる。
その事実こそが、今は何よりも大切なのだから。
もしかしたら、無かったかもしれないこの時間こそが、何よりも。
だから今は、それだけでいい。
彼の胸から伝わってくる鼓動を感じながら、離し難い思いに駆られ、ブルマは夫の背中に回した両腕にギュッと力を込めた。
その時。
くるる、と小さく空腹を知らせる音が響き、沈黙を破った。
「……」
「……」
「……おい」
「……あはは、ごめん。ムード台無しね」
ペロリと舌を出して彼女は顔を起こした。その表情はすっかりいつもの彼女に戻っている。
呆れた顔でベジータは腕を彼女の背から外した。
「メシも食ってないのか」
「うーん、資料の整理してたらつい集中しちゃって。そういえばまだ何も食べてないわ」
「食事くらいまともに摂れ。だから余計体力が持たないんだ」
「わかってるわよ。さっき母さんも帰ってきてたし、そろそろ夕飯もできる頃ね」
渋面で苦言を呈するベジータにころころと笑い、彼女は彼の手を取った。
「いきましょ、ベジータ」
「ああ。……おい、引っ張るな」
気がつけばいつもの彼女のペース。いつの間にか乗せられている自分に半ば呆れながらも、今はそれでも構わないか──彼はそう思った。
彼女が、彼女らしくあること。それこそが、何よりもあるべき姿なのだから。
重なった手は、共にあたたかく。
互いが何よりも望み、願う姿──それこそが今、ここにあった。