<41>

 抜けるような青い空。陽光を反射して煌めく水面。涼やかな風に乗って運ばれてくる柔らかな緑の香り。
 以前と変わらぬ悠然とした自然の佇まいが、そこには変わらず存在していた。
「きれいねー。ほんと、ここだけは何だか時間が止まったみたいに変わらないわ」
 海岸線が一望できる小高い丘の上に立ち、思い切り伸びをして感慨深げにつぶやく。
 心地良い風に帽子とスカートの裾を揺らされながら景色を眺める彼女の視界を、ひらひらと色鮮やかな蝶が横切り、くるりと円を描いて宙を舞った。

 外界と隔離された、絶海に浮かぶ孤島。『もう一度、あの場所へ行ってみたい』──そう希望するブルマの提案で、一年前に初めての家族旅行で過ごしたあの島へ、二人は再び訪れていた。
「ねえベジータ、あの木に生ってる実、真っ赤でおいしそう。あれ、食べられるの?」
「──いや。あれはおそらく食えんだろう。以前、果汁が手に触れただけで痺れる感触があったからな。毒を持っている恐れがある」
「ええー、あんなおいしそうなのに……残念。見た目に寄らないのね」
 少し離れたところに立ち並ぶ樹木にぶら下がっている赤い実を指してブルマが訊ねるが、ベジータは少し考えて首を横に振った。その返答に、至極残念そうに唇を尖らせる。
「あ、あの丘に咲いてる花、色とりどりですごくきれい。ちょっと見てくるわね」
「ああ……おい、あんまり急ぐな。足元に注意しないと転ぶぞ」
「大丈夫よ」
 澄み渡った空の下、子供のようにはしゃいで動き回るブルマをベジータがたしなめる。
 滅多に見られない動物や植物を見るたびに歓声を上げて駆け寄る彼女の楽しげな様子に、ベジータは「ガキじゃあるまいし」と呆れつつも、以前初めてこの島へ訪れた時のことをふと思い、それ以上は何も言わずに置いた。
 あの頃、彼女がどういう心境でいたかを思えば、無理もないことだ。あの時はきっと、何を見ても心から楽しむ余裕などなかっただろう。その彼女が、こうして再び訪れたこの島に、改めて興味を持つのも当然といえば当然だ。
「あ……、あれって、もしかしてフタイロタマゴドリ? うっそ、あんなのまで生き残ってるなんて。本当に、どれだけ絶滅種の宝庫なの」
 小さく丸みを帯びた鳥の親子を見てまた驚きの声を上げる。
 ベジータは知るよしもないが、地球上の外界では既に絶滅した動植物もこの島には多く残っていて、それもまたブルマの探究心を大きくくすぐった。
 美しい湖と雄大な自然が織り成す景色に見とれながら、童心に帰ったように楽しげにくるくると笑うブルマを黙って見つめるベジータもまた、本当に見ていて飽きない奴だ、と知らず笑みをこぼすのだった。

「本当に素敵なところよねー。……そういえば、訊くの忘れてたんだけど、あんたは最初どうやってこの島を見つけたの?」
 ひとしきり自然の空気を満喫したあと、遅めの昼食をとりながら、ブルマは思い出したように彼に尋ねた。
「どうやって、というほどでもないが。修行の合間に休憩する場所を探していて、この辺を通りがかった時に偶然見つけただけだ」
「ふーん」
 大きめのサンドイッチを詰め込みながら淡々と答える夫の返事に、ブルマも相槌を打つ。
「確かにこの辺の海は、あんたたちみたいに空を飛べて、嵐でも平気な人間じゃないと近寄れないものね」
 超人的な力を持つ彼らゆえの特権を少し羨ましくも思ったが、一般の地球人が近寄れないからこそ、このように広大で貴重な自然が手つかずのまま残されているのだろうから、それでもいいかと胸の内で思う。
 と。
 不意に辺りを吹く風の音に混じって、何かの鳴き声が聞こえた気がした。
「──ん?」
 怪訝そうな夫の声が聞こえ、「え、何?」とブルマも顔を上げる。
 ベジータの視線の先を追うと、彼女らが座っている場所から程近い丘の上に何か黒い影のようなものが見えた──と思いきや、それはひらりと宙を跳び、二人の近くへ着地する。
「な、何?」
「待て。……あいつは……」
 驚く妻を制し、目を瞬いて呟く彼に、その影は迷いなくゆっくりと歩み寄って来た。
「……おまえ、まだ生きてたのか」
 意外そうに言うベジータを見て、その影は「なあう」と猫にも似た──と言うには少々野太いが、それでも猫っぽい声で鳴いた。
 よくよく見てみれば、声だけでなく顔も体格も、豹などに似た猫科の動物のようである。全身を真っ黒な毛並みに包まれた姿形は本当に影のようだとブルマは思った。
 ベジータは徐にバスケットの中から大きめのチキンの塊をひとつ取り出し、獣の前に放る。すると何度か匂いを嗅いだあと、獣はチキンにかぶりついて食べ始めた。
 その気安さから、どうやら前々から知っている仲であるらしいと察したブルマは「その動物、何?」と夫に尋ねた。
「さあな。種類は知らんが、この島に住む虎か豹あたりの仲間だろう。──以前この島に来た時に、怪我をして弱っていたところを気まぐれで助けてやっただけなんだが、それからやけに懐かれてな。ここへ来た時はよく顔を見せるようになっていた」
「へぇ〜。でも、前にわたしたちが来た時はいなかったわよね?」
「ああ。ここは他にも大型の肉食の獣はいるからな、もうくたばったかと思ってたんだが、生きてたらしい」
 喉を鳴らすような音を出しながら盛んな食べっぷりを見せていた獣は、綺麗に肉を食べ終わると、彼を見てもう一度大きく鳴いた。
「何だ、まだ足りないのか」
 どうやらおかわりを要求しているようだと察したブルマは、憮然とするベジータに「いいじゃないの、あげなさいよ」と笑う。
 もうひとつ取り出したチキンを放ると、今度はすぐに食べようとはせず、徐にその肉を銜え、身を翻して森の方へ走って行った。
「あれ? どこに行くのかしら」
「さあな。ねぐらにでも持って帰るんじゃないか」
 二人が見ている先で、小走りに森の入り口まで走って行った獣は、そこで一旦肉を置くと、再び喉を鳴らす音に似た鳴き声を上げた。
 すると、立ち並ぶ木々の奥からひょっこりと小さな影──その獣を二回りほど小さくしたような、もう一匹の動物が現れた。
「あら」
 思わぬ光景に目を瞬くブルマと、同じく意外そうな顔でその様子を見つめるベジータ。
 そっくりな外見からおそらく親子に違いない。もうひとつを要求したのは子供のためだったというわけだ。
 母親?に促されるように、子供も肉に食らいついて盛んな食欲を見せているようだ。
「そっくりねえ。小さいとほんとに猫みたいでかわいいじゃない」
 目を細めて親子を見つめながらブルマが言い、ベジータが「なるほど、あの時姿を見せなかったのはガキがいたからか」と納得がいった顔で呟く。
 彼らが三人でこの島を訪れたのはおよそ一年と半年ほど前だ。あの獣の生態についての詳細は不明だが、子供を身ごもっていたか、あるいは生まれたばかりだったとしたら、母親もそう身動きが取れなかったのだろう。
 しばらくして子供が肉を食べ終わると、互いに顔を舐め合い、母親がこちらを振り返って、なあぁう、と大きな声でひと鳴きし、こちらをじっと見つめた後、やがて二匹とも小走りに森の奥へと消えていった。
「……ちゃんとお礼まで言っていくなんて、ずいぶん礼儀正しいわねぇ。あんた、よっぽど懐かれてたのね」
「野生の動物にそんな感情があるわけないだろう。──まあ、あいつは野生の獣にしては妙に警戒心の薄い奴ではあったが」
「わかんないわよ? 警戒心の強い動物って、それだけに一度恩を覚えた相手のことは忘れなかったりするもの」
 言いながら、ブルマはあの黒い獣に、なぜか親しみを覚えていた。
 そういえば、彼もカプセルコーポにいる動物たちには、不思議と懐かれていた気がする。
 あれはいつだったか──彼が珍しく中庭の木の下で転寝をしていた時、博士の愛猫コゲを始めとして、庭に居付いている数匹の小動物に囲まれているのを見たことがあった。
 思いも寄らない光景に吹き出し、こっそり写真を撮っていたのは内緒だが。
 きっと彼らには、本能的にわかっていたのだろう。彼がもう、無闇に他者を傷つけるような真似はしないということが。そして、その生い立ちゆえに、幾重にも張り巡らされ築き上げられた、冷酷で非常な破壊者という表情の奥深くに存在する、また別の一面を。
 動物は時として、人間よりも鋭く人の本性を見抜く。野生の動物ならば尚のこと、危険を感じた者には決して近寄らないし、近付かせもしないだろう。ましてや自分より弱い子供の姿を見せるなどありえない。それを考えても、あの獣がどれだけ彼に心を許しているのかがわかる。
 気まぐれに助けただけだ、と彼は言うが、弱って倒れていたというあの獣に、もしかしたら昔の自分を重ねて見たのかもしれない、とブルマは思った。
 それでも彼女と出会う前の彼なら、決して取らなかっただろう行動に、彼がこの星へ来て、少しずつ変わっていった証を垣間見た気がして、知らず笑みが零れた。
「……何ニヤニヤしてやがる」
 彼女の視線に気づいて訝しげに眉を寄せるベジータに、ブルマは「んー、何でもない」と返す。
「やっぱりあんたも優しいとこあるんじゃない、って思っただけ」
 柔らかく笑うブルマに、ベジータは今更ながら余計なことを喋った、という顔で「チッ、くだらん」と舌打ちし、ことさら荒っぽい仕草でバスケットから取り出した肉に齧り付いた。
 彼らしい照れ隠しに目を細めながら、それ以上の言葉は胸の内に留めることにし、ブルマもサンドイッチの残りを頬張るのだった。


 その後もブルマの希望に合わせて島の中を散策しているうちに日が暮れ、一日目の夜が訪れた。
 夕食を取った後、ブルマがシャワーでも浴びようかと考えていたところへ、ベジータが不意に「少し外へ出るぞ」と告げてきた。
「え、今から?」
「ああ。夜は少し冷えるかもしれないから、それなりの格好をしておけ。といっても森や山に入るわけじゃないからその辺は適当でいい」
 首を傾げるブルマにそれだけ言うと「準備が出来たら来い」と言い置いて彼はドアの外へ出て行った。
 その後ろ姿を見ながらブルマは再度疑問符を浮かべたが、彼が自分から言い出したのだから何かあるのだろうし、特に異を唱える理由もない。
 「相変わらず肝心なことはだんまりなんだから」と苦笑しつつ、一旦部屋に入って上着を羽織ってから外へ向かった。
 カプセルハウスの外へ出ると、緩やかな風が吹いて彼女の頬を撫で、さらりと髪を揺らした。
 夜にしては少し明るく感じ、足元に薄い影が落ちるのを見て視線を上げると、雲の少ない空に丸に近い形の月が浮かんでいるのが目に留まった。
 何日目の月かはわからないが、その月が照らす光のおかげで、他に灯りのない無人の草原の視界もそれなりに開けている。
 そういえば前に来た時は月なんて出てなかったものね、と以前の光景を思い起こしながら、ブルマは辺りを見回してベジータの姿を探した。
「来たか」
 そこで不意に頭上から声が降って来たかと思うと、カプセルハウスの屋根の上にいたらしいベジータが彼女の側に下りてくる。
「ええ。わざわざ夜から出かけるなんて、どこに行くの?」
「その説明は後でする。行くぞ」
「え、あっ」
 ブルマの返事を待たず、ベジータは彼女を抱きかかえるとそのまま浮上し、草原を横切って移動し始めた。
 意外な行動に驚いたブルマは何度も目を瞬き、「歩いて行けないところなの?」と尋ねる。
 「距離があるし、夜だと視界が悪いから無理だな。飛んで行ったほうが手っ取り早い」と答え、彼はそのまま緩やかに飛行を続け、この島でもやや背の高い岩山の方向へ向かった。
 以前にこの島へ来た時、似たような状況があったことをブルマはふと思い出す。
 もっとも、あの時の心境は今とは全然違うものだったけど──と内心で思い、唇を少しだけ引き結んだ。
 今でも、思い出すと胸が少し苦しくなる思いの日々だったあの頃。この島の存在を初めて自分たちに教え、それまで知らなかった色々な表情を見せてくれたベジータの横顔が、今の彼と重なり、ブルマの手が無意識に彼の上着をぎゅっと掴んだ。
 それに気づいたベジータが「寒いのか?」と訊いてくる。
 ううん、違うわ、と首を横に振り、彼女は夫の肩にそっと頭をもたれかける。
 今はあの時とは違う。彼は今、確かにここにいて、もうどこへも行くことはないのだから。
 彼の体温を直接感じながら、自分に言い聞かせるように胸の内で呟き、「あんたにくっついていれば、平気よ。寒くなんかないわ」と微笑んだ。
 その仕草にベジータも何かを察したのか、少しだけ眉を動かす。が、それ以上は言及せず、黙ってそのまま飛行を続けた。
 草原を横切り、森を越えていくと、なだらかな丘陵の先に、ひとつだけ突出して背の高い岩山が見えてきた。
 その岩肌に沿ってゆっくりと上昇するにつれ、流れる空気が草木の匂いのするそれから、やや乾いた土の香りを含むものへと移り、より混じり気のない澄んだ風へと変わっていく。
 昼間であれば島を囲む綺麗な海と水平線が遠くに見えたであろう高さまで昇り、やがてたどり着いた頂きの上に開けた光景を、月明かりの中で見下ろした瞬間──ブルマは目を見張った。
「わ、あ……」
 眼下に現れたその景色に、思わず感嘆の声を上げる。
 そこは岩山の頂上が風化によって崩れたのか、ある程度の平地になっていて、地上ほどではないが草木が繁り、風に揺られて涼しげな音を響かせていた。
 そして、何よりも。
 その場所の大半を占める、淡く白い光の群れが彼女の目を惹きつけた。
 ゆっくりと降下したベジータがその平地に足を着け、ブルマを下ろす。
「ここ……なに……?」
 予想もしていなかった光景から目が離せず、彼女は呟いた。
「詳しいことはオレもわからんが、この花は月の光に反応して咲く性質があるらしい。気温が下がる冬の時期を除いては、大よそ満月期に合わせて開花しているようだ」
 周りを軽く見回しながら、ベジータが簡潔に説明する。
「月の光に……? すごいわ、こんな花見たことない……」
「だろうな。おそらく、元々地球には存在しない植物だ。昔、別の星で似たような植物を見たことがあるからな。推測ではあるが、あの宇宙船に積まれていた他の星の種子が、不時着の際の衝撃で散らばってここに運よく定着した可能性が高いな」
「宇宙船? ……あ」
 言われてから、この島で以前彼が見せた宇宙船のことを思い出す。
 もうずっと昔にこの星へ不時着し、大破したであろう大きな宇宙船の跡。中にはそういえば、様々な物資を積んでいた痕跡もあった。惑星探査の際に採取した植物の種などがあっても不思議ではない。
「綺麗ね……こんな場所がまだあったなんて」
 ブルマがしゃがんで咲き誇る花をまじまじと見つめる。
 大きさは彼女の掌ほど、地球の植物に例えるなら、少し花びらの多い桔梗といったところだろうか。しかしその花びらは見たこともない透き通った乳白色をしていて、まるで月の光をそのまま取り込んだかのようにぼんやりと自ら発光しているようにさえ見える。その幻想的な雰囲気に彼女は見入っていた。
 専門家ほどの知識は無いが、彼女の知る限り、地球上でこんな不思議な花の種類は見たことがない。新種、ということも考えられるが、彼の話を聞く限りでは、やはり他の星の植物だと考えるほうがしっくりくる。
「すごいわね、こんなにたくさん。同じ地球の植物でも、土地が変わればなかなか育たないことが多いのに」
 ましてや全く別の惑星となれば、環境の変化に耐え切れず死滅してしまう確率のほうが遥かに高いはずだ。それがこうして土に根付き、花を咲かせていること自体が奇跡のようなものだ。
「たまたま育つのに条件が適していたんだろうな。この島は冬の一時期以外は殆ど気温が変わらないし、ここなら草食動物のような外敵もいない。前に来た時は新月だったから開花の時期と少しズレていたが、今回は丁度良かったようだな」
 夫の説明に、そういえば、とブルマも思い起こす。以前この島へ三人で来た時は、確かに月は出ていなかった。その代わりに、満天の星空が見られたのだけど。だからあの時は彼もこの場所のことは何も言わなかったのだろう。
 そして今日、こうしてこの場所へ彼女を連れて来た。きっと、あの時のように、彼女だけにこの幻想的な光景を見せたいと、彼が思ってくれたから。
 この花の存在も、こうして見ることができた綺麗な景色も、彼が今、こうして傍にいてくれたからこそ知ることができた事実。そう思うと何とも言葉にしがたい思いに胸を満たされ、彼女は徐に立ち上がり、月を見上げている夫の腕を取ってそっと身を寄せた。
「素敵なところね。──ほんとにあんたって、次から次へと思いがけないことしてくれるんだから。こんなロマンチックなサプライズ、ずるいわよ」
 どんな高級レストランのディナーも一流ホテルのパーティーも、この男が見せてくれる新鮮な驚きの前には敵わない。彼にしか成し得ないこと、彼と一緒でなければ見られない景色は、きっとまだまだあるのだろう。
「おまえが気に入ったんなら、それでいい。──オレには今いちわからんがな」
 彼らしい言い草に思わず吹き出し、「もう、ムードが台無しじゃないの」と唇を尖らせる。もちろんそれが彼なりの照れ隠しだということはわかっているので、あえて言及はしないでおく。
 柔らかな風に揺れる白い花畑を感慨深く見つめ、そっと傍らの夫に視線を移す。
 無言で月を見上げているその横顔に、ふと傍らで揺れる花のイメージが重なる。
 遥か遠い宇宙の彼方から、様々な偶然と運命のいたずらの荒波に翻弄されながらもこの星へたどり着き、そしてこの地に根を下ろした存在。
 色々な苦難も、迷いも、葛藤も、きっとたくさんあっただろう。それでも今、彼はこうしてここにいてくれる。この白い花が異星の地に根を下ろし、息づいているのと同じように。
 もちろん、彼はサイヤ人だ。どんなにこの星の生き方に馴染んだとしても、その奥には決して変わりえない魂を、ずっと持ち続けるのだろう。
 けど、それでも構わない。それもすべて含めてこその彼なのだ。サイヤ人であること、今は亡き母星の王子であったこと、闘いと破壊の中で多くを生きてきたこと。
 その中のどれが欠けたとしても、きっと今の彼にはなり得ない。
 彼にしかわからない過去を生きてきたとしても、この星で悟空と闘い、自分と出逢ったことで、彼は確かに変わったのだ。
 過去は過去、今は今。そして、これからも。
 すべてを理解することはできないのかもしれない。でも、傍らに寄り添い、共に歩んでいくことはできる。彼が、その道を選んでくれるのなら。自分に出来る限りは、きっと。

 この場所で、一緒に──。

 彼ら以外は誰も立ち入る者のない二人だけの時間を、空に浮かぶ乳白色の輝きが静かに照らす。
 降り注ぐ柔らかな月影の下、寄り添った二つの影を包むように咲き誇る淡い光もまた、ふわりと優しい風に揺れていた。

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