<5>

 暑かった夏の陽射しも日を追うごとに柔らかくなり、木の葉もその色を徐々に緑から紅へと変え始め、涼しげな風が街に訪れ始めた頃。
 ここしばらく手がけていた仕事が一段落し、久しぶりにゆったりした時間を過ごしたブルマは、目覚めた後ベッドから下りると窓を開け、朝の新鮮な空気をいっぱいに吸い込んで伸びをした。
「ん〜、気持ちいいー! もうすっかり秋ねー」
 組んで伸ばした腕を左右に振り、首を回して身体をほぐすと、当然のように誰もいないベッドを見やり、苦笑する。
「ほんと、いつもいつも変わらないっていうか、季節感のない生活してるわよね、あいつも」
「──大きなお世話だ」
 そこでいきなり後ろから聞こえた声にぎくりと身を震わせ、振り返る。
「び、びっくりしたぁー! もう、驚かさないでよ、いきなり!」
「朝っぱらからギャーギャーうるさい奴だな。おまえが勝手に驚いたんだろうが」
 軽くウォーミングアップでもしてきたのか、タオルを肩にかけ、水の入ったボトルを手にしたベジータがいつの間にか部屋に入ってきて、ブルマの文句にいつもの仏頂面で返す。
 束の間顔を膨らませたブルマは、しかしすぐに気を取り直すと、もう一度軽く背伸びをしながら彼に尋ねた。
「今日はもう朝のトレーニングは終わったの? ちょっと早いんじゃない?」
「何言ってる。おまえの方こそ今日はずいぶんゆっくりだな。こんな時間まで寝ていていいのか?」
 え?と目を瞬いたブルマは、壁の時計に視線を向け、あっと小さな声を上げた。
「うっそ、もうこんな時間なの? やだ、ずいぶん寝過ごしちゃった! もう、わかってるなら起こしてくれてもいいじゃない!」
 寝ぼけ眼をぱちりと見開き、寝癖の残る髪を手でまとめながら慌てて身支度をするべく隣の部屋へ駆け込む。
 バタバタと騒々しく去っていく後ろ姿を呆れたような視線で見送り、窓辺によりかかるベジータの表情に、どこか楽しげな笑みが小さく浮かんだことは、彼自身も気づかなかった。


 その日、ブルマはお昼の休憩を少し長めに取り、自宅へ一旦戻ってきた。
 普段、仕事で忙しい時は研究室や社員食堂で昼食を取ることが多かったが、時間がある時はなるべく自宅で過ごすようにしていた。
 今はトランクスも学校へ行っているので無理をしてまで戻る必要はなかったが、やはり家のほうがリラックスできるし、くつろげるのも確かだ。
 昼食の準備は主に母がしてくれているので、リビングでお茶を淹れて一息つくと、煙草で一服する。
 この時間なら、ベジータは多分重力室だろう。トレーニングが終われば、じきに出てくる時間だ。
 トランクスがいない時の日中は外へ出ていることが多い彼も、最近ではブルマのスケジュールにそれとなく合わせ、なるべく一緒にいる時間を作ってくれているような節もある。
 それも以前は滅多に見られなかったことだ。そんな彼のさり気ない気持ちを思うと、自然と表情が綻んだ。
「さって、大食らいのためにお昼の用意するとしますか」
 煙草を揉み消し、ブルマはパタパタとスリッパを鳴らしてキッチンへ向かった。


 その頃、ベジータは重力室の中で、じっと目を閉じたままイメージトレーニングを行っていた。
 完全に外と遮断された無音の世界で、ひとしきり精神を集中させると、ひとつ息を吐いて目を開け、重力操作パネルに足を向ける。
 少し思案した後、まずは100の数字を入れてボタンを押す。
 モーター音が回り、彼にとっては少し物足りないくらいのGがかかる。
 今日は不思議と身体が軽く、調子がよかった。あの妙な違和感も感じない。
 しばらく無心に拳の突きや蹴りの動作を繰り返し、身体が程よく温まってきたところで重力を200Gに上げ、イメージに合わせて集中力を高め、動きをより速く、鋭くしていく。
 そうして、彼が訓練に没頭し始めて間もなく。
 潜んでいた「違和感」は、突然その牙を剥いた。
 ──ズキン!
「…っ!」
 不意に胸の奥に走った痛みに、動きが止まる。
「!? …っぐ!!」
 だが、疑問に思う間もなく胸を締めつけられるような激痛と息苦しさに襲われ、動きの止まった身体が宙でぐらりと揺れる。
「が…はっ!!」
 200倍の重力に引っ張られた身体は、両手で支える暇もなく床に叩きつけられるような形で落下した。
「…ぐ…っ、…ぁ…!」
 ギリギリと心臓を鷲掴みにされるような激しい痛みに呼吸が止まり、視界が霞む。
(な…、…これ、は…!?)
「ぐぅ……う、……ぁあっ!」
 食い縛った歯の隙間から呻きを洩らし、それでも必死に顔を上げ、ベジータは苦しい息の下から、重力システムの操作パネルに片手を向け、力を振り絞って気弾を放った。
 気がうまく集中できなかったためにさほど大きくはないエネルギーだったが、制御システムに衝撃を与えるには十分で、火花と煙が上がった瞬間緊急停止ランプが点灯し、モーター音が鈍い唸りを響かせて稼動を止める。
 身体を押さえつけていた空気から急速に重さが抜けていくのを、薄れていく感覚の隅で辛うじて感じるが、それを最後に彼の意識もそこで途切れた。


「遅いわね、あいつ。もうとっくに出てきてもいいはずなのに」
 テーブルの上に並べられた料理を前に、ブルマは時計を見てひとりごちた。
 さっき通りかかった時に重力室の使用中ランプがついていたのは確認できたので、そこにいるのは確かなはずだ。普段なら、この時間にはもう出てきてリビングに顔を出している頃なのだが。
「まあ、そのうち出てくるとは思うけど……」
 多少時間が前後するのは当然のことだ。しかし、最近の彼の生活サイクルのどこかに生じていた微妙なリズムのずれを感じていたこともあってか、気にせずにはいられなかった彼女は、そのまま踵を返して重力室へ向かった。
 なぜか落ち着かない気持ちに背を押され、足早に重力室の前まで来たブルマの足が止まり、視線がドアの横の通信モニタに引きつけられる。
 真っ先に目に留まったのは、モニタの上にある緊急停止を示す赤いランプだった。
 瞬間、彼女の心臓が嫌な音を立てる。
「ベジータ! いるんでしょ? 何かあったの!?」
 モニタのスイッチを入れ、通信口に向かって呼びかける。
 やがて室内の様子が映し出されるが、彼の姿はない。
「ベジータ? ねえ、どうしたのよ!?」
 返事がないことに嫌な予感を覚えながら、カメラの切り替えスイッチを押し続ける。
「!!」
 重力室の全体が映し出された瞬間、ブルマの目が見開かれた。
「ベジータ!!」
 カメラが映し出した、床にうつ伏せに倒れている彼の姿を見て、悲鳴のような声が上がる。
 何? 一体何があったの!?
 動揺に思わずドアロックを忘れたまま扉を開けようとして、はっと我に返ると急いで非常用のキーでロックを解除し、中へ飛び込む。
「ベジータ、どうしたの!? しっかりして!」
 真っすぐに彼に駆け寄り、震える声で呼びかけながら抱き起こすが、彼からの応えはない。
 表情は眉がひそめられた苦しげな色に染まり、洩れる息は浅く、速い。
 重力室自体に破損らしきものはなく、彼自身にもどこか怪我があるようには見えない。
 だが、意識のない身体はぐったりと重く、右手は胸の服を掴んだまま、かたく握り締められている。
 何かが彼に起きている。それも一刻を争うような、深刻な何かが。
 そう直感したブルマは、焦りと動揺で取り乱しかけた思考を何とか落ち着かせようと頭を振った。
 自分だけではこれ以上どうしようもないと判断し、「待ってて、ベジータ。すぐ戻って来るから」と呟き、彼をそっと寝かせると、彼女は人手を呼ぶために重力室を飛び出した。

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