<8>

 それから、またいくつかの日々が過ぎた。
 色を変えた街路樹の木の葉が、ひらひらと歩道に舞い始める頃。
 トランクスの十歳の誕生パーティーを五日後に控えたカプセルコーポは、ささやかな祝いのムードに包まれていた。
 本人は勿論のこと、ブリーフ博士夫妻も可愛い孫息子の記念日であるその日を楽しみにしていたし、誰の顔にも知らず笑みが零れる穏やかな雰囲気が流れていた。
 ただ二人の例外を除いて──だったが。
「ねえ、ママ。日曜日にはみんな来てくれるんでしょ?」
 早くもウキウキした気分を隠しきれないトランクスが、楽しみでしょうがないといった顔でブルマに尋ねる。
「え? ……え、ええ。大丈夫よ。みんな来てくれるって言ってたわ」
 ぼんやりと窓の外に目を向けて物思いに沈んでいたブルマは、息子の声にはっと我に返り、慌てて笑顔を作る。
 その反応にトランクスは少し怪訝そうな面持ちになり、下からブルマを見上げるようにして覗き込んだ。
「ママ、大丈夫? この間から、何だか元気ないよ? パパと喧嘩でもしたの?」
 真っすぐな視線で自分を見つめてそう問いかける息子の言葉に、ブルマは一瞬たじろいだが、何とかそれを表に出さないよう、平常を装って彼を見つめ返した。
「……ううん、そんなんじゃないわ。ただ、仕事が少し忙しいだけよ。大丈夫、心配しないで」
 小さな頭をくしゃっと撫で、ブルマは胸の痛みを堪えて言った。
「ふうん、それならいいけど。あんまり無理しないでよ」
「ええ。ありがと」
 同じ家にいるのだから当然と言えば当然だが、あれ以来沈みがちな自分の様子に気づいていたのだろう。元々、勘は鋭いほうの子だ。こういうところは、どうやら自分に似たらしい。
 大人びた口調に内心苦笑しつつも、何も知らない息子の気遣いが余計胸に痛くて、ブルマはぐっと喉元にこみ上げた固まりを懸命に飲み込んだ。
「ねえ、そういえばパパは? まだ帰ってないの? 重力室にもいないみたいだったけど」
 思い出したように聞いてくるトランクスの質問に、ブルマはぎくりと顔を上げた。
「……そう、ね。多分、そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら」
「パパ、最近よく出かけるよね。外で何か秘密の特訓でもしてるのかな?」
「……さ、さあ……そうかもしれないわね」
「どんな特訓してるのかな。早く帰ってこないかなぁ。オレさあ、この間悟天と新しい技考えたんだよね。きっと、パパもびっくりすると思うな」
 えへへ、と楽しそうな顔で言うトランクスの台詞にブルマは表情を曇らせ、少し考えた後、ためらいがちに口を開いた。
「……あのね、トランクス……」
 その小さい声に、トランクスは「え、何?」と振り返り、そこで母の肩越しに見えた顔を認めてぱっと表情を変えた。
「あ、パパ! お帰りなさい!」
 水を片手にリビングに入ってきたベジータは、いつもと変わらぬ調子で「ああ」と一言返しただけだった。
 そんな父にトランクスは笑顔で飛びつき、手を引っ張って話を切り出す。
「ねえねえパパ、重力室行こうよ! 見てほしいものがあるんだ! オレさ、また新しい技考えたんだよ!」
「……何だ、いきなり。どうせまたくだらん必殺技とやらでも考えたんだろう。この間みたいにな」
 一ヶ月ほど前に同じようなことを言って相手をしてもらい、ものの数分でのされたことを思い出し、トランクスは「う」と頬を膨らませた。
「で、でも今度は絶対大丈夫だよ! あれからうーんと考えて、負けないように新しくしたんだから!」
「ほう、大した自信だな。……いいだろう、相手をしてやる」
「──あ、ちょっと……!」
 そう言って重力室に向かおうとする二人を、ブルマは思わず呼び止める。
「え、何? ママ」
 だが、一瞬ベジータの視線がこちらに向き、じっと彼女を見ているのに気づくと、口を突いて出ようとした言葉はそこで止まってしまう。
「……ううん、何でもないわ。……もうすぐ夕飯だから、早めに切り上げてよね」
「うん、わかってるよ。パパ、行こ!」
 トランクスに手を引かれて部屋を出て行く夫の後ろ姿を見つめ、ブルマは唇を噛みしめた。
『──このことは、誰にも言うな。勿論、トランクスにもだ』
 自らの病気を知ったあの日の夜、彼はそう言った。
 元々、自分のことをあまり他人に知られたがらない彼の性格からすれば、当然の意思だっただろう。今回のような事情であれば、尚のこと。
 それに、今のこの時期に、彼女とてそうそう口に出せることではなかった。トランクスのあの楽しそうな笑顔を見ていれば、尚更──。
 だが、それだけに、誰にも言えない事実の重みは、日を追うごとに彼女の胸に深くのしかかっていた。
 ソファに座り込んだブルマの口から、深い溜め息が洩れる。
 ──彼の病気を知ったあの日以来、ブルマはあらゆる手を尽くして情報を集めて回った。どんな些細なことでもいい、何か状況を打開するきっかけになればと。
 病院へ行きたがらないベジータのため、彼女は最初に診てもらった医師に頼み込んでカルテの写しを借り、思い当たる限りの病院を訪ねて回った。
 仕事を何日か休むことになろうと、そんなことはどうでもよかった。何かひとつでも、どんな小さな可能性でもいい、彼のために何かできることが見つかれば──ただそれだけを願って。
 だが、現実は冷たかった。
 どんな高名な病院へ赴いても、どんな著名な医師を訪ねても。
 最後に返ってくる言葉は、同じ。
“今の医学では、完全に治す治療方法はない”────
 一縷の望みを賭けた最後の場所でその言葉を告げられた時、彼女は何かが音を立てて崩れていくような絶望感に打ちのめされた。
 ──もう、打つ手は残されていないのだろうか。本当に、もう、何も──。
 最後の最後まで信じたくなかったその現実が、今度こそ鋭利な刃となって彼女の心に突き刺さった。
 どうして。
 どうして、彼が。
 その事実を思い知らされた日、彼女は泣いた。一人きりで、声を殺しながら。
 そのことに、きっとベジータは気づいていただろう。だが、彼は何も言わなかった。いつも通りの、普段と変わらない面差しで、彼女たちの側にいた。
 そう。
 彼は何も変わらなかった。自分の病を知ってからも、まるで何ごともなかったかのように、彼女たちの前で見せる表情を変えることはなかった。
 ──否。正確に言えば、それも違った。
 あれ以来、彼はブルマの懸命な願い通り、重力室での無理な特訓を一切やめ、身体にかかる負担を極力少なくすることに気を遣ってくれていた。
 医師から処方された薬もきちんと服用し、そのおかげで症状はだいぶ抑えられているようだったし、普段は今までと変わらない生活を送っていた。少なくとも、表面上は。
 だが、トランクスがいる時だけは、彼は文字通り「今までの自分」を崩そうとはしなかった。
 一定の時間を置いて行っていたトレーニングは今まで通り実行させ、先ほどのように息子が望めば組み手の相手もしていた。
 それまで休むことなく続いていた鍛錬を急にやめたりすれば、トランクスが訝しむのは必然だ。それを悟らせないようにするためでもあっただろう。また、息子に情けないところは見せたくないという、彼なりのプライドもあるかもしれない。
 だが、そうしてベジータが訓練を行うたび、ブルマは気が気でなかった。
 普通に外で身体を動かすことさえ、今の彼には負担かもしれないのに。
 まして、通常の数倍、数十倍の負荷がかかる重力室の中にいたら、それだけで彼の命をどれだけ削ることになるだろう。そう思うと、彼女は今すぐにでもやめさせたい衝動に駆られたが、トランクスの手前、それもできなかった。
 けれど、このままにすることはできない。せめて重力室だけでも、何とか使わずに済めば──。
 ブルマは悩み、考えた末、ふとあることに思い至った。
 ──そうだわ。
 たとえ少々強引な理由でもいい、これ以上彼の身体に負担をかけるようなことは絶対に避けたかった。でなければ、いつまた強い発作が起きるかわからないのだ。
 どんな小さなことでも、今はただ自分にできることをやるしかない。
 そう胸の内で呟くブルマの面差しは、悲しいほどに毅然としていた。
Back Next


Novel Topへ