「いててて、う〜っ。ちぇっ、パパってば容赦ないんだから〜」
重力室から出てきたトランクスは、赤くなった頬をさすりながらぶつぶつと愚痴を零した。
結局、「一生懸命考えた新しい技」も、ベジータ相手には大して通用することなく、あっさりとあしらわれる結果に終わってしまったことに、少なからず落胆しているようだった。
「大体、おまえたちの考えることは単純すぎるんだ。実際の戦いではそう簡単にいくものじゃない。……まあ、実戦経験の少ないおまえたちに言っても、想像しにくいかもしれんがな」
トランクスの後から出てきたベジータは、膨れっ面の息子に呆れたように言いながらも、その顔は意外と満更でもなさそうだった。
「──だが、この間注意したことはちゃんと覚えていたようだな。その点が改良されていたのは認めてやる」
「え、ほんと!?」
滅多に聞けない肯定的な言葉に、トランクスは途端に顔を輝かせて父を見上げた。
「ああ。だが、それで満足するな。戦いの場というのは常に変化していくものだからな。常に状況を見極めることを忘れるな。そうすれば、おまえならもっと強くなれる。……そして、オレをもっと驚かせてみろ」
小さな頭に手を置き、髪をくしゃくしゃと撫でてやりながらそう言うと、トランクスは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「うん! オレ、もっとたくさん訓練して、パパみたいになれるよう頑張るよ!」
何の曇りもない、真っすぐな瞳。自分をひた向きに目指し、見上げるその視線に、ベジータの顔をほんのわずかに翳りがよぎったが、それを悟らせることなく、ただ「ああ。やってみろ」と一言、いつもの彼らしい言葉が返っていた。
その時、空腹を知らせる音がトランクスの腹で鳴り、彼は「えへへ」とはにかんだ顔で笑った。
「あー、思いっきり運動したらお腹空いちゃった。もうご飯の時間だよね。パパ、行こ!」
「──ああ。先に行ってろ。オレも少ししたら行く」
「ん? うん。じゃあ先に行ってるよ!」
早く来てよね、と言い残してパタパタと足音を響かせてリビングに走っていく息子の後姿を見送り、ベジータは「まったく、現金な奴だ」と呆れつつ、それでいて小さく穏やかな笑みを浮かべた。
トランクスの姿が廊下の向こうへ見えなくなると、彼は壁に背をもたれかけ、呼吸を整えるように息を大きく吐いた。
しばらくそうして、気が落ち着くのを待つ。
普段はそうでもないが、やはり重力室を使った後では、以前に比べて疲労感が強くなった。息が乱れがちになる時間も増えている。
いくら薬で症状を抑えているといっても、重力室の条件下にいれば無理な負担がかかるのも当然だろう。
だが、前なら大して苦にもならなかった程度の訓練でも、影響が出始めていること。それが嫌でも自分の身体の状態が、それまでと違うことを示していた。
その事実に舌打ちしながらも、ふと目に入った腕の痣に目を落とし、徐にそれに触れる。
重力室で組み手の相手をしている時に、トランクスの攻撃がかすめ、できたのだろう。
──まだ彼には到底及ばないまでも、何とか認めてもらおうと懸命に向かってくる息子の姿を思い出し、彼はわずかに表情を緩めた。
実際のところ、実力的にはまだまだだが、技術を教えればトランクスはそれを素直に吸収し、驚くほど短時間で自分のものにしていく。
彼の指導が的確であることは勿論だが、幼いながらそれを理解し、さほど苦労する様子もなく身に付けることができるのは、やはり彼の血を受け継いだ才能の証だろう。
自分が教えた分、確実に腕を上げていく息子の成長を見るのは悪くなかったし、楽しみでもあった。
──出来得ることなら、もう少し長く、その過程を見ていたかったが。
そんなことを考えていて、ふと足元に射す光に気づき、傍らの窓を見やる。
そこには真円を描く月が浮かび、白い光で広い庭を静かに照らしていた。
(…………)
この形の月を見ることができるのも、もうあとわずかだろう。
もしかしたら、次はないかもしれないが──ふと、そんな気がした。
同時に、今まで何度か、同じ場所で、同じ月を見上げた相手の顔がよぎる。
今日のような夜なら、あいつのことだ。きっとどこかで修行しているだろうな。
……もう、自分がその相手をすることもないだろうが。
自分が唯一その力を認めた男の顔と、幾度となく交わした拳の感触が俄に甦る。
無意識に握られた拳に気づき、彼はふっと自嘲気味に笑うと、寄りかかっていた壁から離れた。
──今はまだ、やらなければならないことがある。それまでは、終わるわけにはいかない。
胸の内で自分に言い聞かせ、彼はもう一度窓の外をちらりと見やると、そのまま踵を返した。
廊下に響きながら段々と遠ざかっていく足音を、淡い満月の光だけが、黙って見送っていた。
無人の平野にひと気はなく、辺りを抜ける風に押されて草木がざわざわと揺れる。
その動きを追うように、淡い明かりの下で地面に落ちた薄い影がゆらゆらと踊った。
満月の白い光が地上に下りる中、開けた大地の上空に、ぽつんと黒い影がひとつ、風を受けながら宙に留まっていた。
「──はっ!」
しばらく何も音を発することのなかった影は、一度大きく息を吸い、短い気合いと共に吐き出すと、後ろに引いた片手に集めた気を一気に解き放った。
右手から数回に分けて放たれた気弾は、真っすぐに夜空を横切った後大きく弧を描き、放った本人に向けて旋回しながら戻ってくる。
それをじっと見据えると、向かってくる光を最小限の動きで次々と避け、今度は避けた気の塊が地上に届く前に高速移動し、両手から再度気功波を撃って相殺する。
エネルギーがぶつかり合った衝撃と共に目映い光が弾け、波動の名残りと火花が四方に尾を曳いて飛び散り、草木をわずかに焦がして消滅する。
間を置かず、地を蹴って再び宙へと浮かび上がった影は、ぐっと息を溜めると今度は連続して拳や蹴りを繰り出す動作を始め、その速さに空気が鋭く裂かれる音が何度か響いた。
しばらくそうして身体を動かしているうちに、最初は何もない空間だけが映っていたはずの視界に、いつの間にかもうひとつの影を浮かび上がらせていることに気づく。
影は彼に劣らぬ速さで同じように拳を突き出し、蹴りを浴びせ、ふと振り向くと背後に現れる。無意識のうちにその影に合わせて彼の動きも変化し、そのまま幻の影と攻撃の応酬を繰り返す。……と。
その時、ごうっ、と唸りを上げて辺りを突風が吹き抜けた。
風が逆巻いて空に昇っていく唸りと、地上の草木が一斉にざわめく音に、彼ははっと意識を引き戻される。
瞬間、ぱっと目の前に浮かんでいた影も消え失せ、元の何もない空間だけが残った。
「……」
繰り出す寸前で止められた拳を下ろし、悟空は何となしに気勢をそがれた気分でぽりぽりと頭を掻いた。
やっぱ、何か物足りねえよなぁ。
首や手足を所在なげに回し、小気味よい音を響かせつつ、胸の内で独りごちる。
身体を動かそうと思って外に出てきたものの、今日は何となく一人では今ひとつ思い切りよく力を発散することができないでいた。
組み手の相手がいればそれに越したことはなかったが、一人で修行するのも別に珍しいことではないし、慣れてもいたはずだった。だが、今日はなぜか、自分だけでは思うようにいかない気がしたのだ。
やはり、この月のせいだろうか。
頭上に浮かぶ満月を仰ぎ、何となく考える。
とはいえ、今となっては彼の相手が務まる人物はそうそういない。
彼の身近な該当者としては悟飯くらいだが、悟飯は元々必要に迫られない限りは自分から進んで訓練の類をやろうとはしない性格だったし、悟空も今はそれを承知している。
第一、悟飯は今、大学を受けるための勉強で忙しい身だ。軽々しく頼み込んでその邪魔をするようなことはできなかった。
それに──そもそも今までは、そんな必要すらなかったことにふと思い至る。
それは、こんな月の夜には、自分と同じ目的を持った相手が、必ずと言っていいほど同じ場所にいたからだ。
おそらく自分と同じ気分を共有する、ただ一人の相手。考えてみれば、彼がいたから、気が済むまで互いに拳をぶつけ合い、こんな夜特有の気の高まりを発散できていたのだと、今更ながらに思う。
しかし、今この時に、彼はここにはいない。
(……こういう日にあいつが修行してねえのは珍しいな)
少し精神を集中させてみたが、どこか別の場所で訓練をしている様子も感じ取れなかった。
無論、いつも必ず外に出ているわけではないのだろう。それでも、彼が修行をしている時の、あの鋭い気が感じられないのは、珍しいことだと思った。
──そういえば。
ここ最近、普段から外で彼の気を感じることが少なくなっていたのを思い出す。
単に重力室を使っての訓練などに重点を置いているのかと思っていたが、今日のような月夜にも彼の気が感じられないのをみると、どこか気にかかった。
(何かあったんかな。……ま、そのうち会うんだろうし、別にいっか)
彼にだって都合があるのだから、たまにそういうことがあっても不思議じゃない。第一、自分がそこまで突っ込んで探ることでもないだろう。下手をしたらまた彼に睨まれることになりかねない。
何かあれば、五日後に会うことになるだろうから、その時聞けばいいだろう。
悟空は気を取り直し、修行を再開した。
一抹の不確かな予感が、胸の中に小さく影を落としていたことに──彼自身すらその時はまだ、気づかないまま。